88 罠と、終焉と、瞳の色と。
──聖剣を振るたび、エリノアは不思議な感覚に囚われていた。
聖剣の力を借りて、魔王と激しく剣を交わしているはずが──どこか精神の世界と、外界とが切り離されたように遠く感じるのだ。
聖剣を手にした自分に現実味が湧かなかったのかもしれない。自分が、魔王と戦っているなんて冗談みたいである。一介の侍女であるはずの自分が……魔王と争っているなんて。
それも──弟であったはずの彼と。
エリノアの緑色の瞳が魔王の顔を見る。
血を分けたはずの、弟だったはずの彼の瞳はもう同じ色ではない。真っ赤な血のような色に悲しくなる。
口元は悦に行ったように笑っているのに、瞳は冷たく。しかしその奥には、何かとても強い感情が秘められているように見えた。じっと時期を窺うような眼差しに、警戒しつつも、エリノアは、戸惑う。その魔王の瞳の中に、弟がいる気がして──もしかしたらという思いに駆られてしまう。
──けれども。
魔王は、そんな彼女の揺らぎも知らず、いとも容易くエリノアに向かって漆黒の刃を振り下ろした。懸命に避けて、剣撃を聖剣で受けるエリノアをなぶるように、次々と刃を突き出してくる。
しかしまだ、剣撃は軽いとエリノアは思った。もちろん、それでもエリノアにとっては受けるだけで精一杯なわけだが……先ほど彼とブレアが戦っていた時は、もっと魔王はえぐるように攻撃していた気がするのだ。だが今の魔王は、手数こそ多いものの、深く、踏み込んだ攻撃はしてこない。
浅い攻撃を繰り返し、余裕綽綽──まるで、必死なエリノアを脅かして楽しんでいるようだった。
その無情さが物語ることを、彼女も受け止めなければと奥歯を噛んだ。
──すなわち……
彼が、もう弟ではないのだということを。
「──っ!」
エリノアは、泣きたい気持ちで聖剣を握りしめた。胸を突く痛みを振り払うように、聖剣を、テオティルの力を借りて、魔王が繰り出してくる剣撃に合わせる。
(もうわかっていた……わかっていたことでしょう……!)
エリノアは己を叱る。
もうその考えに囚われていてはいけない。今、自分がなすべきは何だ。
今はどんなに苦しくても、現実を見なくてはならないと思った。もしここでエリノアが負けて、ただ彼に命を奪われるようなことになってしまえば、それは無駄死にで。
ただでさえ、自分の剣技など、テオティル頼み。聖剣の助けあってこその戦い。涙で視界が歪みでもすれば致命的だ。精神が弱れば、聖剣も弱る。
打ち込まれ、強く押し戻され魔王から離されたエリノアは、その攻撃の合間に荒く息を吐き魔王を見つめる。大丈夫かと心配そうに尋ねてくるテオティルの声が聞こえた。それに無言で頷くと、顎から幾滴もの汗が滴り落ちていった。
まっすぐ前に向けた視線の先には嘲笑うような口元。しかしエリノアは、どれだけでも笑えばいいと思った。
そりゃあ滑稽だろう。打ち込まれるたびに、どうしようもなく不恰好な、剣術や武道なんてものとはかけ離れた格好でしかそれを防げない自分は。きっと誰の目から見ても勇者であるなどとは信じられぬに違いない。でも、
(どんなだっていいわ……ブラッドを取り戻せるなら……)
エリノアは、ふと開き直りを感じた。胸に重く詰め込まれていたような鬱々とした悲しみや苦しさといったネガティブな感情が、負は負なりに固まってしまって、ぎゅっと硬化してしまって。彼女の気持ちをその一点に集中させる結果となった。
ずっとそうだった。こうしてずっと弟を守ってきたのだ。
どんなに滑稽でも、失敗しても、その時々で、目の前にあるものをしっかり見つめ、生きてきた。
──父が亡くなった時、エリノアはまだ年端もいかない子供だった。
悲しみや悔しさは容赦無く彼女を襲い、その失意と不安は耐え難いものだったけれども。
さまざまなものを失っても、彼女は生きなければならなかった。
父を失って、まさか弟まで死なすわけにはいかない。働いて日ごとの糧を得ていかなければならなかった。
10代の彼女が、そんなギリギリの生活から学んだのは。その時その時で目の前にあることにしっかり集中してさえいれば、ほんの一瞬でも、過去の悲しい出来事を思い出さずにいられる瞬間を得られるということだった。
──例えば洗濯物をしっかりときれいに畳む。
──その間はけして余計なことを考えず、手元に全力で集中する。
──王宮の仕事で失敗して怒られても、昔の令嬢生活を恋しんだりはせずに、今どうすればいいのかと、解決策をあれやこれやと考えること。
──そして大切な弟が、体調を崩していやしないかと真剣にその顔色を見ていること。
特に、誰かの心配をしていると効果はてきめんだった。それは生来心配性であるエリノアならではのやり方で。
そんなことを繰り返しているうちに、エリノアは悲しみに囚われることもなくなり、全力で失敗し、挑んだ仕事が終わると疲れ果てて、結果夜もぐっすりと眠れるようになり父の死に目を夢に見ることもなくなった。
悲しさはけして無くならない。けれどもそんな小さな習慣が、身寄りのなくなった彼女と弟の命を次の日に繋いできた。
──だから、今も。
エリノアは魔王を見据える。目的を考えた。彼を下し、それを残していく人々に対する僅かな償いとして。そのあとは弟を追う。……もともと不器用で、けして要領の良くないエリノアである。考えはシンプルなほうがよかった。
……ブレアの傍を離れたくないという気持ちもあったが──
(──駄目!)
エリノアは頭を振って、その想いをなんとか頭から追い出した。
ごちゃごちゃ考えていては、自分がうじうじするのはわかっていたから。それにきっとこの恋は叶わない。彼の大切にする王国をこんなふうにした魔王の姉を、王国は絶対に受け入れないだろう。──ならばせめて、最後は彼の大切な国を守っていくのだ。エリノアは自分を励ます。──知らず知らずに目頭から涙が溢れていたが、彼女はそれに気が付かなかった。
(──テオも手伝ってくれる。きっとできる、できるわ……!)
それができたらきっと女神様も、天界でも地獄でも。自分と弟の魂を同じところに置いてくれるに違いない。
……そう信じることにした。
(……侮られているうちに、なんとか聖剣を魔王に届かせてみせる!)
エリノアは、聖剣を構え直し、魔王を睨んだ。──と、その時。
視線の先で、魔王の姿がフッと消えた。
「! ど──……」
──こと、エリノアが瞳を見張って。その行方を探した瞬間。周囲でなす術もなく、その戦いを息をひそめて見守っていた者たちの間から、悲鳴のような声が上がった。ハッとしたエリノアに、間近に魔王の声が降ってくる。
「──何をぼんやりしている」
「っ!」
息のかかるような距離。上から覗き込まれるようにして囁かれた声に驚くと、その瞬間。傍らに転移してきた魔王の腕に、大きく横殴りに撃ち払われた。咄嗟に聖剣を盾のように構えたが──遅かった。エリノアは、再び瓦礫の中に放り出される。
地面に転がり、滑るように吹き飛ばされた身が硬い石や砂利に当たり痛めつけられた。
「──っ」
袖の布越しでも地面に擦れた身体は激しく痛む。その焼けつくような痛みに、元いた場所からかなり離れた地面の上で止まったエリノアは、思わず横たわったまま身を縮めて呻いた。──が、その目はすぐにカッと見開かれる。エリノアは、擦り傷を作った頬を即座に地面からあげた。
「っ、負、け、ない!」
燃えるような瞳に、ありったけの負けん気をこめて。エリノアは歯を食いしばり、重い身を起こして一思いに立ち上がる。身動きするたびに傷が痛んだが、心はまだ折れていなかった。
その不屈さに──魔王が目を細める。
強い瞳を見て、魔王は気がついた。
自分を鋭く睨むエリノアの目。そこには、あるべきはずの──人が魔王に向けるべき憎しみと恐怖が、ない。
(──そうか、)
魔王は悟った。おそらく彼女にとって、彼は恐怖の対象ではないのだ。
人間の多くは魔王とその眷属たちを恐れるが。けれども、エリノアは永く魔王を弟として育てた。彼女が“魔王”という存在を正しく理解しているかは分からない。きっと、弟と混同し、ブラッドリーが消えたと言われた今でも同一視していた部分も多いのだろう。
けれども、そのおかげで彼女にとって、魔王は恐ろしいものではないのだ。
彼女がずっと恐れていたのは、弟の死であり、彼の暴挙で、つまり、それらによって姉弟が共にいられなくなること。
(──でも、魔王自体を恐れる気持ちはないか……)
エリノアは彼を睨んでいる。しかし、そこにあるのは決然と目的を遂げようとする意思のみ。
魔王はそうかと静かに察する。
エリノアは、魔王に恐怖せぬ勇者だった。それどころか、こちらに向けてくるのは深い愛情だ。
(──これなのか……)
ふっと思い当たったような気がした。
彼女が魔王の姉とされた、女神の目論見の一つに。
普通、勇者が敵対する魔王に向けるべき憎しみが、彼が喰い物にすべき負の感情が、エリノアからは発生しない。
もちろん彼女はいろんなことを恐れている。守るべき者が傷つくことを恐れ、不安に思っていたはずだ。しかし、魔王自身に向ける深い愛情がそれを補って余りあるほどなのだ。これでは、彼はそれを糧にできない。
(なるほど……実に、愛だの情だのにこだわる女神の使いそうな手だが……)
魔王は目を細めて、その忌々しい存在に選ばれた娘を見る。
その決然とした様子は必死だが、どこか吹っ切れたようにさっぱりとして──……しかし、と魔王。
この小さな者が、こよなく愛する“弟”のために開き直ってしまうと、どんな危険なことにでもむこうみずに突っ込んでいってしまう性質であることを、彼は心得ていた。魔王から弟を取り戻そうとして、高い塔の上からも飛び降りてみせたくらいだ。──その開き直りの内容にも……この娘が、この窮地でどのような無鉄砲な決断をするかということを考えれば明白な気がした。
(──つまり、こちらを滅して、自分も後追いをしようと思っているのか……)
それを悟った瞬間、魔王は少しだけ瞳を伏せて……うっすらと笑う。
「……そうはいかない」
魔王は人らには聞こえぬ声で、己の配下に命じた。
──罠を。
「どうせなら……魔の王に相応しく非道に行こうじゃないか!」
突然魔王が咆哮を上げ、そこから生まれた激しい空気の振動に、エリノアが身を固くする。
「っ」
一瞬力が抜けそうになった足をグッと踏ん張って体勢を保った。全身からはおびただしい汗が出ていて、肩を上下させて荒い息をしているが、視線は魔王から外さない。
そんなエリノアを、魔王は笑う。
「⁉︎」
──魔なるものが、魔物らしく邪悪なる一手を指してきたのは、その時だった。
彼女らが知らぬ瓦礫の上で、その邪悪のもとに生まれた黒き魔物は、人知れず両手を広げ、そして天空に笑い声を響かせた。
足元からはいかにも悪にふさわしき暗黒色の炎が生まれ、それは同時に魔王の足元に同じ輝きを送る。
目の前に立つ魔王の傍に、唐突に発火するように現れた魔法陣にエリノアがギョッとする。青く、黒く揺れる闇が地面を焼き、描かれる紋様は、以前見たことのあるものだった。
と、それを冷たい顔で見下ろしていた魔王が笑った。
「──ほう、じれた配下が、もう待っていられぬと供物を送ってよこしたらしい」
「く──……?」
その言葉に、エリノアの顔に困惑が浮かぶ。彼女は、黒炎揺れる転送陣の中に目を凝らし──……そこに、何か小さなものが置かれているのに気がついて──……
その瞬間、恐怖のあまり目を剥いた。
エリノアの口が、怯えたように震える息を吞みこむ。
転送陣の中に、ぽつりと送り出されてきたもの。それはあまりにも小さくて、か弱き者だった。
不安を訴えるように、かぼそく辺りに響く赤子の声に、エリノアが悲鳴のような声で叫んだ。
「ど──どういうつもりよっっ⁉︎」
身体がワナワナと震えた。まさかという恐怖に、身の毛がよだつ。動揺のあまり、一瞬何もかもが頭から消えて真っ白になった。
……無理もない。エリノアのような性質の娘にとって、それは何を置いてもまず守らなくてはならない存在だ。魔王の足元になど、けしていてはならぬ存在だった。
怖くてたまらないという顔で喘ぐエリノアの顔に、魔王が笑う。
「──さて。この小さき女神の徒をどうするべきかな?」
なんでもないことのように、赤子に視線を落としていた魔王の瞳が、エリノアに向く。
「人質として、貴様に命を差し出させるか? それとも、血の生贄として我が剣の餌食にするか──……」
──と、魔王が笑って。その鋭い爪のついた手を、赤子に向かって伸ばした瞬間。
エリノアの真っ白だった顔が、カッと爆発するように憤怒した。その足は死に物狂いに地を蹴って。本能的に願い、聖剣に作らせた転送陣の中に彼女は躊躇なく身を躍らせた。陣をくぐった先には、魔王の姿。
──何も考えられなかった。夢中で叫ぶ。
「っそんなこと、絶対に許さない‼︎」
途端、手の甲が燃えるように熱くなった。だが、不思議と不快さはない。ただ感じた怒りに呼応するように、大きな力がエリノアを押す。
赤子に手を伸ばした魔王を押し戻すように、転送陣の中から現れた彼女は、彼に向かって聖剣を突き出していた。
ためらいなく、真っ直ぐに。
その輝きに、魔王が笑った。
向かってくる娘の瞳には、猛烈な怒りが宿っていた。
目前で行われようとしている凶行。エリノアは、きっと咄嗟に何もかもを忘れただろう。
相手が誰であっても、どんな者であっても、どんな時であっても。これは彼女にとっては絶対に許されないと禁じるもの。それに手を出そうとする目の前の存在は、きっとその瞬間、弟でも魔王でもなく、ただ、エリノアの敵になっただろう。
「っそんなこと、絶対に許さない‼︎」
瞳に強大な炎が宿ると、手の内の聖剣にも大いなる白炎が宿った。
エリノアが握る剣は、聖なる力をたぎらせて、その強大さに魔王は瞳を見開いて──笑みを浮かべた。
向かってくる聖剣と、姉。迫り来る白炎に、魔王は、その輝きを押し戻すように、手のひらに黒炎を生んだ。
『エリノア様!』
身の内で声を張り上げたテオティルの声が響いた瞬間、魔王の腕がそれを自分に向けて振りかぶった瞬間に。エリノアは、大きく腕を振り上げて、聖剣を一思いに、魔王の身体に向け振り下ろす。
「──っ!」
業火となった聖と魔と。その力のぶつかり合いは──……ぶつかった瞬間に、大きな爆発をその場に生んだ。その力の渦の中に、エリノアは飲み込まれていった。
「っ」
爆発の瞬間。咄嗟に、聖剣を手放し振り返ったエリノアは、足元にいるはずの赤子を庇うように地に伏せた。
──その瞬間のことだった。
「──え……?」
エリノアの瞳がキョトンとする。
頬に、ペロリと舐めるような感触。エリノアが、ハッとした。
目の前には、小さな赤ちゃん。
──ではなく。
そこにあった顔に、暴風の中四つん這いになったエリノアは……呆然と、つぶやいた。
「……、……、……グレン?」
「……えへ」
小さく舌を出した猫の顔が見えて。彼がにやっと笑ったのが見えた。
何故ここに──……? と、エリノアが言おうとした瞬間、
「──……⁉︎」
グレンの姿は、笑った顔のまま霞のように消えていった。
「──な、何……グレ──ど──ういう、こと……?」
愕然として、呆然と目を瞠ったエリノアは、慌てて背後を振り返る。──と、そこには。──見開いたエリノアの瞳の先には。
白い炎に焼かれる魔王の姿。
「⁉︎」
王は、炎の中で、凪いだ瞳で静かにエリノアを見ていた。
「────……」
「え──?」
魔王の口が僅かに動き、その顔に視線を引き寄せられたエリノアは、気がついて息を吞む。
──煌めくような白き炎の向こう。隔たれた魔王の瞳が、
(……──緑⁉︎)
喉がヒュッと音を鳴らした。その目と同じ色をしたエリノアの瞳が、こぼれんばかりに見開かれる。
「──ぁ──……」
呆然とした彼女は、喘いで。地面に膝をついたまま、咄嗟に“彼”に手を伸ばした。けれども、その瞬間。
辺りを弾けるような輝きが包み込んだ。その眩さに、エリノアも、場にいた他の誰もが一瞬魔王から目を背ける。
そして──。
慌てて視線を戻した彼女たちがそこに見たのは、白炎と、その中に消えゆく魔王の姿。
「ま、待って……」
エリノアは、ついそう漏らしていた。訳が分からなくて。説明して欲しくて。狼狽えた声は弱々くし揺れた。
──と、その瞬間。
場を揺るがすような熱狂的な歓声が湧き上がった。
周囲にいた人々が、魔王の消滅を見て感情を爆発させて歓喜している。
皆、エリノアを見ていた。
口々に『勇者だ!』『聖剣の勇者様だ!』と驚き、褒め称え、狂喜乱舞していた。
……けれども。
それは、エリノアの耳には欠けらも聞こえてはいなかった。
エリノアは、消えてしまった“彼ら”を探すように瞳を揺らし、ただただうわ言のように、その名を呼んで。
しかしその声は、周囲の怒号のような喝采によって、かき消されてしまった……。




