85 ブレアの涙
エリノアが聖剣を手に魔王の前に現れると、その異形の男は、途端、歓喜するような表情を見せた。
ニヤリと口元を持ち上げて。──この時、彼はブレアの相手をしている真っ最中だったが──……
瓦礫の上に口を一文字に結び、聖剣を手に風に汚れたスカートの裾を翻している娘を目にすると、もうその目には──彼女のことしか映っていないようだった。
剣を打ち合っているブレアがすぐ傍にいるというのに、目の色を変えた男は、もう彼のほうを見もしない。重そうな足甲をつけた足が、音を立ててエリノアに向かって行くのを見て、ブレアは咄嗟に前に出た。魔王を遮るように剣を突き出して、手首を返して横に払う。
「!」
鋭く、避けた先でも抉るように追随してくる剣筋が腕をかすり、魔王は舌打ちを鳴らして背後に大きく跳躍する。
「っ、忌々しい男だ……!」
魔王は着地点に片手をつき、顔を上げてブレアを睨んでいる。
魔王が彼らから距離を取った瞬間を見計らい、ブレアはその隙にエリノアのもとへ駆けつけた。聖剣を握る手首をつかみ、ここへきては駄目だと訴える。
「エリノア! 危険だ。下がりなさい!」
「……ブレア様……」
青年はエリノアの手首を取り、離れた場所で戦況を見守っているソルらに素早く視線を送る。彼の視線を受けた書記官は、すぐに主君の要請を正しく理解し。すぐさまエリノアを保護しようと幾人かの配下を伴い、慌てた様子で瓦礫を越えながら彼らのほうへ向かってくる、が──……それを見た魔王に、煩わしそうに冷酷な視線で睨まれたソルたちは、なかなかこちらに来ることができない様子だった。
「…………っ、駄目か……」
ブレアはエリノアを後ろに庇いながら、奥歯を噛むが……不意に気がついた。
背後にいるエリノアが、微動だにしない。
「……エリノア?」
一向に下がろうとしないエリノアに気がついて、魔王を警戒していたブレアが困惑したように彼女を振り返る。
エリノアは、静かに微笑みながら彼を見上げ、いいんです、と、つぶやいた。
ブレアが目を瞠る間に、娘は、自分の手首を握る青年の手にそっと手を添えて、そこからそれを引き抜く。そして添えたほうの手で、ブレアの手を柔らかく包み、彼を見上げた。
「……あの子は私が最後まで面倒を見ます、だって──私の弟ですから」
「! しかし──」
その言葉にブレアが顔色を変えた。だが、エリノアは、ある思いに、ほんの一瞬、変わり果てた王宮の庭の隅を見た。そこにうずくまる二つの人影。
今はそれが彼女にとっての仇だとか、そういうことは置いておくとして。今目の前で自分を心配している彼だって、魔王などという、人とは異次元の強大な存在を前にしても、彼の弟と、父の側室を見捨てようとはしなかった。それが、己と対立する者たちであっても。
──ひょっとするととエリノア。
ふと思う。もしかしたら、自分は彼のそんなところに惹かれたのかもしれない。不器用だけれど誠実で、家族想いで優しいところ。
「……」
エリノアは、困惑した様子のブレアに視線を戻し、少しだけ微笑んだ。
深い悲しみに覆われた胸の中に、静かに誇らしい気持ちが芽生える。
──この人を、好きになってよかった。
その想いは、暗がりで見つけたただ一つの街灯の明かりのように彼女の心を暖かく照らす。
向けられた視線を受けたブレアは、一瞬言葉に窮した。
「…………エリノア……」
それは、とても愛情深い眼差しではあったが……。
ブレアの灰褐色の瞳が、エリノアの考えていることを知ろうと、食い入るように彼女を見ている。彼がその表情から読み取ったのは、エリノアの固い決意。緑色の瞳は静かで、口元はうっすらと微笑んですらいた。その表情を見た瞬間、ブレアは嫌な予感に胸騒ぎを覚え、一度離された手で、エリノアの手をもう一度強く握った。
彼は戦闘体験が豊富で、もちろん死線をくぐったこともある。だからこそ分かった。エリノアの中に、そうした生命の縁を行くような、ギリギリの決意があることが。
ブレアの顔が歪む。
「……エリノア……確かに君は聖剣の勇者かもしれないが……どうか、私が君の盾となり、剣となることを許して欲しい。──怪我を、してほしくない」
どう伝えればいいのか困惑している男が、切羽詰まった顔で最後に吐露したのは、彼のもっとも素直な気持ちであった。
だから下がってくれと、その苦しげな願いを聞いて──握られた手の暖かさを感じて。エリノアは、微笑みながら、思わず目頭を熱くした。
ブレアの気持ちが嬉しくて、悲しい。
──けして、その通りにはできない自分を分かっているから。
「その……」
エリノアは一瞬視線を下げて、これ以上泣いてしまわないように、グッと表情に力をこめた。揺さぶられた感情に声が震えるのを堪えながら、ブレアを見上げ──今度はできるだけ晴れやかに見えるよう笑った。
「そんなふうに言ってくださって有難うございます。……私、大丈夫です。ブレア様、あの子をどうにかできるのは、私しかいない……というより、私、そうしたいんです。楽しい時だけを一緒に生きるために、あの子の姉であったわけではないから」
苦しい時、大変な時こそ、家族と共にいたいと言うエリノアに……しかしブレアは手を離さなかった。
「……エリノア、だめだ……」
手を、離せるわけがないと思った。
相手が勇者だろうと、なんだろうと、恋しい娘が決死の覚悟で死地に向かおうとするのを、ただ送り出せるわけがない。
──と、そこへ、冷たく苛立った声が、二人の横っ面を叩くように放られる。
「──いつまでそうしているつもりだ!」
「!」
「⁉︎」
魔王の手から生まれた強風が二人を襲う。
ブレアは咄嗟にエリノアの頭を片腕で懐に抱きこんで横へ跳ぶ。
「っ! ブレア様!」
青年に庇われたまま地面に転がったエリノアは。すぐに慌てて顔を上げ、自分を守ってくれた彼を見る。彼女の下敷きになったブレアは、放たれた風の圧に煽られてうまく受け身が取れなかったようだ。彼の衣の肩部分が酷く裂けているのを見て、エリノアが泣きそうな顔をする。
「っ大丈夫ですか⁉︎ ブレア様!」
慌てて彼の肩を覗きこもうとすると、倒れたブレアが、仰向けのまま、口を開く。掠れるような、痛みに耐えるような声だった。
「──だ、いじょうぶ、では……ない」
「!」
その言葉にエリノアの顔がさっと青ざめる。
傷がひどいのかと泣きそうなエリノアは、青年の肩に手を伸ばすが……その手をブレアが取る。軋むような動きで身を起こし、痛むらしい己の片腕を押さえたまま、その顔を見る。
「ブレア様、動かないで──」
言いかけたエリノアがブレアの顔を見て口をつぐんだ。
「……君が、いってしまうなら、私は、大丈夫ではないんだ、エリノア……」
それはとても静かで、悲しそうな顔だった。
「──……」
苦しい言葉にエリノアが、怯んだような顔をする。その動揺に揺れる緑色の両目を見て。ブレアはこれまでどうしても言えなかった言葉を静かに告げる。
「愛している」
──それは、ずっと気恥ずかしすぎて言えなかった言葉だった。だがこの時は、不思議となんの躊躇いもなくその言葉は口を出た。『好き』でも、『大好き』でもなく。『慕っている』とまわりくどくもなく……。
はっきりと告げられた言葉に、エリノアが目を瞠って。
「だから、」と苦しい顔で続ける青年の言葉に、彼女は身動きもせず無言で聞き入った。
「だから──生きることだけは、けして諦めないと決意してくれないか」
言葉尻は震えていたが、しっかりした口調だった。
──強くそうあろうと決意すること。生きると決めること。
まずそれなくしては、人間が戦地で生き延びることが難しいことを、ブレアはよく知っていた。
それだけでもいいのだとブレアは切に願った。そうであってくれるなら。自分のそばにいてくれなくてもいい。ただ、どこでも、誰のそばでも。生きてさえいてくれれば。
「エリノアっ!」
「………………」
切実に訴えてくる灰褐色の瞳に、エリノアは。
胸が痛くて。どうしたらいいのかわからなくて。こみ上げてくる涙をグッと堪えて、唇の端を噛んだ。
これは、ひどく残酷なことだ。しかし……
嘘をつくことが極端に下手なエリノアは……この間際にも、真摯な瞳を一心に向けてくれるブレアに、嘘をつくことが──できなかった。
噛みすぎた口の中に、鉄の味が混じるのを感じながら……エリノアは喘ぐように言った。
「……、……でも……これしか……今の私には、これしか方法がないんです、ブレア様……」
女神が降臨する前に、人の手で魔王を止めなければならない。王国のため、人々のため、ブレアのために。そして、エリノア自身が、もう一度、ブラッドリーと再会するために。
娘のその答えを聞いて。辛そうな顔をしたブレアの目頭から、涙が一雫こぼれ落ちた。青年の端正な鼻筋を伝って、口の端に流れて行くその雫に、エリノアは、思わず手を伸ばす。
「っブレア様……」
ずっと言えなかった言葉を、彼女も彼に返さなければと。
そうしなければ、もう二度と機会はないかもしれないと胸が張り裂けそうになりながら。顔を歪め、エリノアは口を開いた。
「私も──……」
──しかしその時……
突然、風が唸るような音がした。
「!」
上空から何かがものすごい速さで落ちてくるような……迫り来る音に。いち早く気がついたブレアがハッとして、咄嗟に目の前に立っていたエリノアを思い切り突き飛ばした。
「っ⁉︎ ブレアさ──……っ……!」
バランスを崩したエリノアは、転倒し地面で肩を打つ。その瞬間、視界の端に、上空から降ってきた何かが、ブレアに襲いかかったのが見えた──……
「っ、ブレア様!」
エリノアが悲鳴を上げる。必死の形相で身を起こして振り返ると──……舞った砂埃のなかで、ブレアが剣を身の前に、横向きに構えているのが目に入った。
──どうやら彼は無事らしいと見て、エリノアが大きく安堵の息を吐き出した。
──が……
しかし次の瞬間、エリノアの瞳が“それ”を捉えてギョッとした。
ブレアの周りに、見慣れない黒い影。彼を取り囲むようにして、誰かが立っている。それも、一人ではなく、何人も。エリノアは、え⁉︎ と息を吞む。
そこにいたのは、少女たち。
亡霊のような青白い顔をした、真っ直ぐな黒髪の──幼い黒服の少女たち。
少女らは、冷酷な眼差しでじっとブレアを見つめていた。




