81 渇望するもの
──邪悪な感情の底で彼は思い出していた。
自分が何を渇望し、それを手に入れるために、いったい何を犠牲にすべきなのかを。それは躊躇うことすら馬鹿馬鹿しいと思えた。
──己は、魔の王なのだから。
ヴォルフガングたちのことをルーシーにまかせると、エリノアは聖剣を手に、再びテオティルの転送魔法の中に慌ただしく身を投じた。
この時テオティルは少し気がかりそうで。彼はエリノアが、隣国での王太子救出からこれまでの流れで、もうかなり力を消耗していると不安そうに言った。
エリノアも、エゴンを下したあとのめまいで薄々それを感じていたが、だからと言って自分が弟を追わない訳にはいかない。
義理の姉からは、コーネリアグレースの夫が、彼女同様に、ブレアにも魔族の道具を授けたと聞かされた。ブレアはその魔具を手に、クラウスや側室妃ビクトリアを守るために先行したと聞かされる。この時エリノアは、まだブレアの記憶が戻ったことは知らなかった。が、何故彼が魔物であるグレゴールの魔具をすんなりと受け取ったのかなどという疑問を、深く考えるような余裕はとてもなかった。
エリノアはブレアの助けを心底ありがたいと思い、と、同時に……弟と彼の対峙が不安でならなかった。弟がブレアを害したらどうしよう。ブレアが弟を害してしまったら……。
怒りに見境を失いクラウスたちを付け狙う今のブラッドリーは、きっと王宮を守ろうとするブレアと敵対するはず。両者を大切に思うエリノアにとって、それは何よりも恐ろしいことだった。……そうした主人の恐れを分かっているのか、テオティルもそれ以上はエリノアを引き止めるようなことは言わなかった。
パッと目の前が開け、空気が変わった。焦る気持ちを堪えながら、目当ての人たちを探して周囲に視線を巡らせると、場の無残な有様が目に入った。王宮の塀、建物の壁、庭師たちによって美しく整えられていたはずの灌木や地面さえも。目に映るすべてのものが破壊され、何一つ原型をそのままにとどめているものはない。割れた壁、大きくえぐられた地面に残る痕跡は、とても人間業には思えず……ならばそれは間違いなく、自分の弟の所業なのだと悟って。苦しさを感じたエリノアは、思わず聖剣の柄を強く握りしめた。
「ブラッド……どこ⁉︎」
と──鋼を打ち合うような鈍い音が聞こえた。ハッとして顔を向けると、少し先で黒い刃がひるがえる光景が目に入った。刃に襲われた金の髪の青年は、タイミングを見計らいきれいにそれを弾き返す。鮮やかな手際だが──それでもやはり、背後に守る者があり、防戦一方の彼の動きは魔王に比べ精彩を欠いていた。
「ブレア様! ブラッド!」
よく見ると、奮闘するブレアの服にはいくつもの裂け目があった。黒衣で分かりにくいが、それはブレアが動くと光の加減で濡れていることが分かる。──血だ。それを察した瞬間、エリノアの胸の中には耐え難い痛みが突き上げた。
その傷を与えたのは弟で間違いがないだろう。魔王の姿となった弟は、冷酷な顔でブレアに向かって何度も剣を振り下ろし、かと思うと、指一本の小さな動きで無数の魔力のつぶてを生み出して、ブレアの背後でうずくまるクラウスたちを狙う。ブレアはそれをすぐさまグレゴールの剣で叩き斬るが、つぶては数も出現場所も不規則で。何度もそれを繰り返されると、いくらブレアの身体能力が高くても隙は必ず生まれた。そして、魔王はそこを見逃さなかった。
クラウスの顔を狙ったつぶての一つを討ち漏らしかけ、咄嗟にそれを己の身で防いだブレアの顔が一瞬だけ歪む。
つぶてが彼の肩を焼いた瞬間を──そしてそれでもブレアがすぐに剣を握り直し、視線を魔王に向けて身構え直した姿を目の当たりにして、エリノアは──
『──大丈夫ですエリノア様、ブレアにはエリノア様の与えた加護がありますからまだ──エリノア様⁉︎』
「っ」
耳元でテオティルが囁いたが、エリノアは駆け出していた。悲しさに突き動かされて、どうしても止まっていられなかった。このままでは弟は、いずれブレアにもっとひどい怪我をさせてしまうに違いない。エリノアは悲鳴のように叫ぶ。
「──ブラッド! やめて!」
「!」
「! エリノア……!」
制止の声に、ハッとした男たちの打ち合いが止まり、両者がサッと離れる。と、そこへ真っ直ぐ向かってくる娘の姿に、ブレアは肝を冷やした。
「エリノア、駄目だ危険だ!」
ブレアは彼女が勇者であることも忘れ叫ぶ。が、そんな、彼がほんの一瞬エリノアに意識を向けた刹那、魔王は無情にも彼を薙ぎ払った。
「っ!」
「ブレア様!」
空中に投げ出されたブレアは、今度はそこで何かに鷲掴みにされ、そのまま地面に叩きつけられる。
衝撃で大地が割れて、あたりにはもうもうと土煙が舞った。エリノアはブレアの姿を見失い、声の限り、狂おしい声で彼の名を呼んだが──次の瞬間エリノアは、驚いて身体を硬直させる。テオティルの焦った声が耳に響いた。
『エリノア様!』
「⁉︎」
地面から足が浮いていた。腹のあたりに渡された硬い腕はひんやりと冷たい。
いつの間に背後に回られたのか──エリノアは、魔王の腕に背中側から抱き上げられていた。
「! ブラッド⁉︎」
呼ぶと、魔王の顔がふっと笑う。
「──悲しいなエリノアよ。貴様、弟と私の見分けもつかぬか」
あざけるように言われたが、エリノアはその言葉を拒絶するように首を激しく振った。
「何を……! あなたはブラッドリーでしょう!」
反論しながらも……地中に叩きつけられたブレアの安否が気がかりで仕方なかったエリノアは、手に握っていた聖剣からするりと手を離した。剣は落ちると人型に戻り、戸惑い顔で振り返った青年にエリノアは言った。今は彼に頼るほかない。
「テオ! ブレア様を!」
テオティルは戸惑った顔のままだったが、それでもエリノアの必死さは伝わったらしい。青年は主人の意思に従い、ブレアが叩きつけられ、大地が隆起したように割れた場所に向かおうと駆け出し──……が、それを魔王が笑った。捕らえたエリノアの、首に手をかけて。
「──ほう。この場から離れていいのか聖剣よ? 私はこれからこの者の魂を奪うつもりだが……」
その発言には、エリノアはギョッとして、テオティルはピタリと足を止める。険しい顔で聖剣が振り返ると、魔王は大きな手のひらでエリノアの首をやわく掴み、人差し指でなだらかな頬をゆったりとなぞっていた。唖然としたエリノアの瞳からは、そのひどい動揺が伝わってくるようだった。
「……え?」
理解できないという顔をするエリノアに、魔王が甘い声をかける。
「……なあエリノアよ、私は思い出した。お前の弟として、その自我と共に生きたささやかな時間、私がずっと何を欲していたのかを。……私はお前に死を与え、魂だけを魔界に連れ帰るつもりだ」
そう言って、不意に魔王は少し離れた場所に佇んでいるテオティルに視線をやった。挑発するような目に──……すると聖剣が何かに気がつく。テオティルは魔王の邪悪な顔に片眉を上げ、目を細めて食い入るように王を見た。魔王の瞳には、先刻、彼と主人とがこの者と対峙した時と比べ、激しい怒りが薄れ、はっきりとした意思が見えるような気がした。その真意を測ろうとするような視線に、魔王はふっと笑い、そして自分の腕の中で彼を呆然と見上げている娘に宣言した。
「エリノア。私はお前を誰にも渡さない。お前の弟にも、あの男にも、女神にも。魂の輪廻からも切り離し、この世界を破壊し尽くした暁には、魔界に連れ帰り、永遠に我が手元に置いてやろう」
「──っ⁉︎」
恍惚とした表情で言われたエリノアの目には、ありありと驚きが浮かんでいた。今にも目玉がこぼれ落ちそうなほどに瞳を見開いて──まさか……弟であり、魔王である彼に、そんな執着深いことを言われるなんて、思っても見なかったらしい。声が、掠れる。
「な、にを言って……ブラッド!」
正気に戻ってと呼びかける姉に、しかし魔王は残忍な顔で微笑んだ。抱きすくめたエリノアの耳に、後ろから囁きかけるように言った。
「残念だが……“あれ”はもう戻ることはない。お前の弟は、もう私の中で息絶えつつあるのだから」
「……、……、……は……? ぇ……? な、何を言ってる、の……?」
声が震える。だって、今ここに、あなたがいるじゃないかと戸惑うエリノアに、魔王はなんでもないことのように軽く答えながら、エリノアの髪に触れる。
「そう驚くことか……? “あれ”がいかに弱いかはお前も知っているだろう……? “あれ”は、私という存在無くしては、いつ死んでもおかしくはないほどに脆い」
そうだろう? と問われたエリノアは、瞳にサッと不安を過らせた。青ざめながら……魔王となる前、ブラッドリーがいかに病弱だったかを思い出し、言葉を失くす。魔王は尊大な顔で続けた。
「これまで“あれ”は私が生かしてきたに過ぎない。……だが、ここにきてあやつは私に逆らった。弱者といえど、共有する精神の中でうるさく抵抗されれば小蝿のようで鬱陶しい」
ゆえにと、魔王は抑揚のない声で言った。──まるで小石の話でもするかのように。
「私は、やつを消した」
「──っ⁉︎」
あっさりとした冷たい言葉にエリノアの顔から血の気が引いた。もうずっと顔色は悪かったが、さらに悪くなった。目の前の景色がすべて消えてしまったかのようだった。何も聞こえず、何も見えなくなった。ただ、恐怖だけがじわじわと心に迫り来る。指先から徐々に身体が震え出していた。
──ブラッドリーが……消えた……?
そんな馬鹿なと喘ぐエリノアの耳に、以前弟が魔王として覚醒した時に彼が漏らした言葉が蘇る。
彼は、『記憶の中に知らないはずの記憶が混ざり込んでくる』と言って怯えていた。そして、『自分が魔王に吞まれて消えてしまいそうで怖い』と漏らすことも──何度となくあったのだ。
「っ!」
それを思い出した途端、恐怖と拒絶に身が縮み上がった。脳裏には、ブラッドリーの顔。──姉さん、と、呼ぶ声を思い出すと、身体が狂ったように震え出して、感情の爆発が制御できなかった。
「そ──そんな……! そんなの……信じない! ──信じるもんかっ‼︎」
「!」
エリノアは、あらん限りの悲しさを込めて泣き叫んだ。そんなことがあってたまるかと怒鳴ると、途端、呼応するように身の内から輝きが溢れ出た。




