76 塔の上
──ああ、痛い、痛いと彼女は思った……。
頬に当たる砂利の煩わしい感触。右の瞳には、視界を塞ぐように赤い色が滴り落ちてきて。それが自身の頭から流れた血だと彼女は気がついた。
ああ、と、彼女はもう一度思う。血と共に、気力がこぼれ落ちていってしまいそうだ。彼女が、主君を止めようとする気力が。王の力を身に受けるたびに、それは流れ落ちていって、最後に自分は王に服従してしまうのだろうか……
「……それとも、消滅が……先、かしらね……」
緩慢に視線を動かすと……隣には、白い獣の顔の同胞。彼女と同じように地に伏せた魔物は、魔王の魔力でできた大きな山羊のツノのような杭を右腕と左の脚にうがたれてピクリとも動かない。
(ああ、王よ……やはり、あなた様は確かに我らが王だった……)
この圧倒的な力の差にはもう笑いしか出てこない。ただ止めようとした彼女たちがこのざま。瞳から涙がこぼれ落ちる。
(諦める、わけには……)
コーネリアグレースは、なんとか頬を地面から持ち上げて、その背中を探す。彼女と、隣で地に伏した王の僕たる白き獣をあっけなく下した偉大なる魔王の背中を。
業火の向こうにそれを見つけて、コーネリアグレースは弱々しい声で「王よ」とつぶやいた。
怒り燃え立つような背中の向こうには、怯え切った顔のこの国の三番目の王子と、その母の顔が見える。ざまぁないと、魔王に手を出した罰だと、その愚かさを思ったが……自分こそ、このざまである。婦人は痛みを堪え苦笑した。
「……、……グレン……」
力を振り絞り、王の傍に冷たい顔で控えている息子の名を細く呼ぶ。
「グレン……陛下を、お止めしなさい……その者たちを殺しては、いけません……」
だが、息子は応えなかった。無言のまま、感情のない顔で王の傍に控え、必死に命乞いをしている二人を見つめている。
「グレン……何が、本当に、陛下のためになるのか……考えなさい、お前、陛下の乳兄弟でしょ、う……」
そう言ったきり。息子に向かって伸ばされたコーネリアグレースの手が、力尽きたようにぱたりと地に落ちる。
──それでもグレンの瑠璃色の瞳は母親を見なかった……。
「…………」
黒い獣のその瞳は、王宮の庭を焼く炎に照らされ暗く輝いていた。
その視線は、まるで、そこ以外は見ることを禁じられたかのように──ただひたすらに、蛇たちを使い、クラウスやビクトリアを弄んでいる彼の王に注がれている。……まさに、服従者の目をしていた。
滑稽に逃げ惑う罪人たちの足元には、人ならば、見るだけで正気を失いそうなほどの数の蛇たちが群れをなしていて。てらてらと濡れたように黒光する身体をくねらせながら王の指示を待っていた。
と、蛇たちに親子をいたぶらせていた王が不意に言った。
「──つまらヌな……」
その声は、ブラッドリーの声と懐かしき王の声とが混じり歪に響く。王の姿はもう魔王ダスディンそのもの。憎しみと嘲りに満ちた顔を、グレンはじっと見ている。
王はとても不安定な様子だった。ビクトリアたち親子に憎悪を見せるも、彼らをいたぶるうちに、だんだんその目的を──どうしてそうしようと思ったのか、誰のためにそうしたかったのすら忘れていっているようだった。そして魔王は飽きたと言い捨てる。暗い双眸を向けられて、グレンは静かに首を垂れて畏まる。
「──グレン、殺セ」
まるで小石をどけろとでも言うように、なんでもないことのように命じられたグレンは主君の顔を見上げた。そこにある顔を見て──ふと、思う。
(……もう、似てない)
と、王の命を聞いたビクトリアが悲鳴をあげる。
「やめて! ゆ、許して! 助けてくれればなんでもする! なんでも差し出すわ!」
お願いよと地面に這いつくばるようにして懇願する顔には、恐怖のあまりか引き攣ったシワが寄って悲壮感に満ちていた。だが、王の言葉は無慈悲だった。
「……オ前たちガ差し出せるものナド、死以外には、ナイ」
冷たい目で言い捨てられて、ビクトリア妃は魔王の元にひれ伏した。
「わ、わたくしたち以外なら、誰だって……若い娘たちでも……そうよ! 国王だって、王子だって誰だって!」
「は、母上……」
金切声で喚く母の後ろで、クラウスは怯えた様子で縮こまっている。すでに身体には数多の蛇の咬み傷が。所々を魔障に冒され、硬化した己の身体を引きずるのがやっとという様子で……同じく無惨な姿の母の背に縋り、震えるばかりの王子を見て。それを冷酷に見つめる王を見て、グレンは思う。これでこそ、と。
(──これでこそ、魔王。人間を恐怖させる、私たちの王……)
グレンは、自らに言い聞かせるようにして、命じられるまま、蛇たちに囲まれた親子の前に進み出た。大きな熊のような姿の異形を前に、ビクトリアたちが後退ろうとする、が……すぐに蛇の群れに阻まれた。怯えに身を竦め、今にも恐怖で気が狂ってしまいそうという形相の、ちっぽけな人間。
(…………食べちゃえばすぐだなぁ……)
グレンにも、それはあまりにも簡単なことのように思えた。牙も、爪でも。魔王が手を下さずとも、きっとあっけなくこの親子の命は奪える。──いや、本当は、今までだってずっとそうだったのだ。
──と、そんな彼の耳に、苦しげな声が届いた。
「……駄目、よ……」
在らん限りの母の声が耳を鋭く貫く。
「……グ、レン! どうしてブラッドリー様が今日までそれを耐えたか分かるでしょう⁉︎ ご姉弟がどんな顔で微笑みあっていたか──思い出しなさい!」
「──……っ」
その叱咤に──グレンの冷たい表情に、一瞬だけ湖面が波打つような揺らぎが生まれた。……と、息子に必死に訴えた婦人を、魔王が見下ろす。
「コーねリア……貴様、先ほどからウルさいぞ……本当ニ、消してほしイ、のか?」
王に問われ、コーネリアグレースが地面の上で息も絶え絶えに笑う。
「ええ、王よ……お望みなら、そう、なさいませ。このコーネリアグレース……ご存知の通り口やかましゅうございます。あなた様の為と思う、のなら、けして黙りません!」
婦人は地に伏せながらも気丈に王に言った。が、魔王はそれでも感情を見せなかった。
「……なラバ、消えるがよい」
「!」
その言葉にグレンが勢いよく振り返り、強ばった顔がやっと母を見た。王は手のひらに、闇の中の闇。黒よりもさらに深い漆黒を宿す。
「さラバ、コーネリあ」
「っ陛下!」
グレンが悲鳴を上げ──そんな息子へ、コーネリアグレースが視線を向ける。
(グレン、)
婦人の脳裏に家族らの顔が浮かぶ。
「──お前たちは我が誇りです」
どうしようもないところもある子供たちだが、それでもと。コーネリアグレースは偽りなき想いを固く言葉にする。
(……エリノア様、申し訳ありません、お約束、守れそうにありません)
ごめんなさいねと微笑むように目を閉じた母の顔に、王が漆黒の槍を突き立てようとした瞬間。グレンは叫んだ。
「っ! 陛下やめて!」
と、その瞬間のことだった。
それまではコーネリアグレースの横で、ピクリとも動かなかったヴォルフガングが唐突に頭を持ち上げた。血まみれの獣は咆哮を上げ、その地が割れるような声に王は手を止める。眉間にシワを寄せ魔将を見ると、魔将は魔王に杭打たれた肩を、地が轟くような唸り声をあげながら無理矢理地面から引き剥がし、もう一つ、杭で地面に縫い付けられた腕を自らの力で、引きちぎった。
「っ!」
白き獣は鮮血を振り撒きながら地面から跳躍し、残された左腕で、王がコーネリアグレースに向けていた槍を弾き飛ばす。そして、地面に倒れている婦人を庇うように主君の前に立つと、血まみれの魔将は壮絶な様相で王を見る。
「いけません陛下……っ! この者がどのような忠義者か、もう、お忘れなのですか⁉︎」
ヴォルフガングは牙を見せながら怒鳴るように訴える、が……王は冷たい顔のまま言った。
「覚えてオらぬ、邪魔なものは捨テルだけ。……ヴォルフがング……貴様モ、私に逆らうのカ……?」
その言葉に魔将は悲しそうに、苦しそうに顔を歪めた。
王はさらに言う。
「オ前も我が将ならバ、命尽きる前に、忠義を示セ」
「──お言葉ですが陛下。我が忠心はそのようなものではありません。陛下の中におられる小さきお方の真の願いを守らなくては」
キッパリと返したヴォルフガングは、コーネリアグレースを背に、真っ直ぐに憎しみの化身と化した王を見た。その中にあるだろう、愛しき存在を王の顔の中に探したが──魔王は冷たい顔を崩さない。
「──なラバ、消えろ」
吐き捨てるように言って。魔王は再び出現させた闇の槍をヴォルフガングに突きつける。しかし、ヴォルフガングは引き下がらなかった。苛立った王は、手にした槍を掲げようとして──と、後ろから細い声。
「……へ、いか……やっぱり……駄目だよ陛下……」
「!」
後ろから腕を取られて、魔王が煩わしそうな顔をする。
「……グレン」
やめてよと弱々しく止めるのはグレンであった。
「貴様もカ……」
憎悪を向けられて、グレンの顔が歪む。
「だって……陛下、そんなことしたら──」
グレンは魔王の槍を持つ腕に強くすがった。
「そんなことしたら! 絶対姉上が悲しんじゃうよ! 陛下!」
必死な獣を、王は睨む。
「“アネウエ”? ……誰のことダ、それは」
「っ!」
その本当に思い当たらないというふうの顔に、グレンが悲壮な顔をする。黒い獣の大きな牙のついた口が戦慄く。青い瞳からはポロポロと涙が溢れた。
「や、やだよ……そんな……陛下! 姉上のことを忘れたなんて、そんな、そんな悲しいこと言わないで!」
「……邪魔立てするのナラ、お前とて、許さん」
「!」
悲鳴を上げた配下に、王は無常に腕を振るった。そこに縋っていたグレンはあっけなく吹き飛ばされて。蛇たちの群れを巻き添えに散らしながら地面を滑って行く。それを見たコーネリアグレースは息を吞み、ヴォルフガングが叫ぶ。
「グレン!」
「……なんナノだ、貴様ラは……──ん?」
魔王は苛立ち配下たちを睨んで。不意に、彼らの背後で動く気配に気がついた。
見れば、ビクトリアとクラウスが、吹き飛ばされたグレンの身体で割れた蛇の群れの境目を通り、その場から逃げ出そうとしていた。そのとても高貴なものとは思えぬ死に物狂いな様子を見て、魔王がせせら笑う。
「……哀レよな……」
魔王は持っていた槍を掲げた。クラウスたちの背に向かって。
「陛、下!」
「陛下!」
逃げ惑う親子の背中に狙いをつけた王が腕に力をこめると、それに気がついた配下たちが叫んで。止めようと伸ばされた手を彼は煩わしそうに魔力で弾いた。払い除けられた二人は再び地面に沈み、呻き声を上げていた。だが、王はそれを見なかった。王は一心に憎悪をこめて、槍を固く握りしめる。
「これデ──私は、解キ放たレル……」
ニヤリと口を割って笑い、魔王はグッと、肩に力をこめた。……と──。
その時何かが彼の耳を貫いた。
「──ブラッドッ‼︎」
「!」
矢のように鋭く、空気を切るようにその名を呼んだ声。何故か抗えぬ力を感じて──槍を投げる間際、魔王はつい視線を引き寄せられた。横目の端に、遠く、小さく、その者の姿が捉えられた。
「……ダレ、だ……?」
声の主の姿は、王宮の塔の上にあった。
灰の色の石を積み上げた塔の、さらに上にある屋根の上。強風にワンピースの裾が踊り、黒煙の中に黒髪がなびいていた。国旗を掲げるためのポールを支えにし、足を踏ん張るように広げて立ち。──その片手には、聖剣が燦然と輝いている。
「?」
魔王がふと止まる。
──アレは、憎き女神のもたらした忌々しいもののようだ。しかし……
ふと魔王の眉間にシワが寄る。小さき者の巣食う胸の奥底に、小さな棘のようなものを感じた。あれは……誰だったかと、記憶を探ろうとするが、憎しみと膨大な魔王としての記憶に吞まれて思い出せなかった。
遠く、そんな弟の顔を見ながら……エリノアが喘ぐ。
距離はあったが、エリノアには分かった。ずっと幼い頃から彼を看病していた。眠る顔色をつぶさに見て、苦しいのか、どこが痛いのかと。絶対にそれらを見落とさないようにと必死に見守った時代があった。──だからこそ、遠目でも、今、そこにいる、彼女の弟だったはずの者の佇まいには、自分に対する感情が少しもないと分かった。
いつもならばあるはずの、全身で喜びを放つようにしてこちらを見る弟の気配が、その、どこにも見当たらない。
悲しくて、悲しくて……胸が焼けるように痛んだ。だけどとエリノア。
弟の足元に伏したコーネリアグレース。少し離れた場所にはグレンらしき黒い魔獣。エリノアの口が、腕がもげたヴォルフガングの悲惨な姿に「ぁあっ」と嘆くような声を漏らす。それは……なんとも壮絶な光景だった。青黒い業火、うねる蛇。おびただしい血の流れた地面。──エリノアは、嗚咽を歯を噛み締めて堪えた。少し俯いた鼻先に涙が集まり滴り落ちて。それが散り落ちていく眼下の光景に──エリノアは、覚悟を決めた。
ふっと涙目が、閉じられる。
「──テオ、命令よ。……お願いだから……止めないで」
そうしてエリノアは瞳を開き、遠い弟へ視線を戻す。
剣の姿で主人に寄り添っていたテオティルは、主人の硬い意志を感じて困惑している。
『エリノアさ──』
と、テオティルは、自分の身体が硬く動かないことに気がついた。人の姿に戻ろうかと思ったが、無理だった。聖剣は、所有者たる勇者が真に願うことを侵すことができないのだ。
身動きができず戸惑ったテオティルは、いったい何をと、主人に語りかけようとした、が──
その瞬間エリノアが。聖剣から、手を──離した。
カランと屋根に落ちた聖剣が音を立てて。その刹那──……
「っ!」
『エリノア様!』
聖剣が叫声を上げた。
エリノアは、奥歯を噛み締めて、駆け出していた。
王宮の塔のそう広くはない、傾いた屋根の上を力の限りに蹴り進み──そして。
迫る銅色の屋根のふちを、力一杯、踏み切った──……。
──背中に、テオティルの絶叫が聞こえた。




