75 騎士の制服
王宮の廊下を、逃げ惑う女がいた。
元は見事に結われていただろう髪を振り乱し、瞳は恐怖に駆られていた。怯えた目が後ろを振り返ると──迫ってくるのは数多の蛇。それは、ゾッとする光景だった。
蛇たちの瞳は赤く輝き、鱗にはマダラの模様。床の上を這い、牙の覗く口からシューシューと気味の悪い音を発している。その数は、今では廊下の床を埋め尽くすほどになり、そのうねりが自分に向かってくる恐ろしさに、彼女──王の側室妃ビクトリアは狂ったような悲鳴を上げた。走り慣れぬ足を必死に動かし、まさに死に物狂いで走ったが、それを豪華なドレスの裾が邪魔をする。いつの間にか靴も失った。だが、そんなことを気にする余裕などない。
追ってくる蛇たちは、はじめは一匹の小さな蛇だった。
それは不意にビクトリアの部屋に現れて。それを見咎めたビクトリアが、何故ここに蛇がと、側仕えに処分を命じた。しかし、それが間違いだった。
側仕えの兵が彼女の傍から槍の柄で蛇を払い除けた時。その蛇は、ビクトリアの目の前で身体が二つに分裂したのだ。そこからはあっという間だ。蛇たちはビクトリア目掛けて這い進み、側仕えたちがそれを阻止するたびに、蛇は次から次へと数を増やしていった。しかも、下手に手を出したものは蛇に噛まれ、そのまま死んだように動かなくなる。そうして成す術のなくなったビクトリアたちは、部屋を飛び出して逃げ出したが、蛇たちは群を成して彼女たちのあとを追ってきた。どこまでも、どこまでも。自分のあとを追ってくる異形の蛇から、ビクトリアは一心不乱に逃げていた。
──と、夢中で逃げているうちビクトリアはふと気がついた。周りに大勢いたはずの側仕えたちが、いつの間にか消えている。蛇に襲われて置き去りにして来た者たちはいたが、それでもまだ侍女も側近もいたはずである。
しかしどうやら……彼女が使用人たちを置き去りにしたように、側仕えたちも皆ビクトリアから逃げ出してしまったらしかった。どうしてなのか、蛇たちは脇目もふらず、ビクトリアだけを目当てとしているようだ。それが分かった者たちは、皆命を惜しんだのだろう。ビクトリアは、ギリリと奥歯を噛んで、恨みがましい金切り声をあげる。
「あの下衆共め! この私を見捨てるなんて……! あとでどうなるか──っ⁉︎」
喚いたところに、頭上から蛇が降って来て。驚いたビクトリアは足をつまずかせて廊下に転ぶ。
「っ──……ひ……っ」
慌てて身を起こした時には遅かった。むっとするような生臭い匂いが鼻を突く。彼女の周りは、あっという間に蛇たちに取り囲まれていた。ビクトリアの顔面から血の気が引いた。怯えながら視線を動かすと……辺りは前も後ろも、蛇、蛇、蛇……
美しいと評判の王宮の大理石敷きの廊下が、まるで魔窟にでも迷いこんだかのように大量の蛇に埋め尽くされている。──そのすべてが……鎌首を持ち上げてビクトリアに狙いをつけていた。
「ぁ……ぁ……」
おぞましい光景を目にして、床の上で身動きが取れなくなったビクトリアは、ただただ震えながら、蛇たちの小さな赤い瞳を見返した。蛇たちは、先が二股に分かれた細い舌と牙を見せながら、間合いを図るようにゆっくりとにじり寄ってくる。
「い、いやぁああああ! 誰か! 誰か私を助けなさい! だ、誰か──!」
ビクトリアが恐怖のあまり泣き叫ぶと。それを合図にしたように、一度身を縮めた蛇が一斉に身体をバネのように伸ばし、彼女のほうへ跳び上がった。それを見たビクトリアの口が……ぁ、と、小さくつぶやいた。まるく見開いた瞳に、跳ねた蛇の腹がいくつも映る。途端、ビクトリアは戦慄し、恐怖に顔を歪ませる。声なき悲鳴を上げ、思わず頭を抱えて床に蹲ると──その上を……何かが勢いよく通り過ぎていった。
「っおら!」
「ひっ⁉︎」
ブン……ッ! と、空を切る音に──ビクトリアが身をさらに硬くする。しかし彼女の頭に蛇は降り注いで来なかった。
「ぇ……?」
恐る恐る顔を上げると、また何かが頭上で振るわれる。それは長い──剣の鞘だった。気がつくと傍に誰かが立っている。
「お、前は……」
呆然としたビクトリアなど眼中にないように、その者は跳びかかってくる蛇を打ち返している。跳躍中を迎え撃つように払い飛ばされた数匹の蛇は、壁に打ち付けられて、そのまま下へ落ちていった。そこへ、男の怒号。
「っクッソ! 帰ってきた途端これかよ! おら! 蛇共こっちくんじゃねぇ!」
「──な……」
激しくぼやきながら現れた男を──いや、男たちを、ビクトリアはここでやっとはっきり認識する。と、すぐさま急かすような声が。
「ちょっとぉ! ビクトリア様! そんなところでぼんやりしないで下さいよ!」
「ほらほら早く立って立って!」
「⁉︎ ⁉︎」
腕を乱暴に引かれたビクトリアはよろよろと立ち上がる。もう無礼だとか、不敬だとか、相手に文句を言う余力は残っていなかった。と、そんな彼女を引き上げた少し背の低い騎士は髭面でニッカリ笑う。ビクトリアは、ギョッと目を剥く。
「お、お前たち……ブレアの……」
そこにいたのは、トマス、ザック、そしてオリバーといった面々だった。
驚愕の眼差しで見つめられ、蛇を剣で蹴散らしていたオリバーが、ジロリと冷淡な横目でビクトリアを刺す。
「……ぼんやりしてないでさっさとお逃げ下さいませんかねぇ、そこにいられると剣が振れなくて邪魔なんすよ」
王の妃が傍にいては、危なくて抜き身の剣が使えないと迷惑そうな騎士に。ビクトリアが困惑顔。
「な、何故お前たちが私を……」
それは、単純には助けを喜べないという複雑そうな顔だった。ブレア配下のオリバーは、ビクトリアにとっては政敵である。しかも彼女はこのトマス・ケルル等らしき者たちを、プラテリアで捕縛したと密かにプラテリア領主から報告を受けていた。
「そ、それに何故──?」
ビクトリアは険しい顔で蛇を打ち払うオリバーたちを指さした。同じことを彼女の消えた侍従たちもやったのだ。同じように蛇を払い退け、結果、蛇が分裂し、増えていってこのような有様になった。──しかし、オリバーたちが攻撃しても蛇は増えなかった。それどころか、蛇たちはオリバーを嫌がっているようにさえ見える。どうしてだとビクトリア。
「まさか、これはお前たちの仕業なの⁉︎ さてはブレアの指示で、お前たちが魔術でも使って私にけしかけてきたのね⁉︎」
ビクトリアは貴婦人らしからぬ形相で喚き散らしたが……しかし、その言い掛かりにオリバーは面倒くさそうな顔をする。
「うるっせーな、ブレア様がそんなことするわけないでしょう……だいたい今はそんなこと言ってる場合ですか⁉︎ おいトマス! さっさとその面倒臭え側室妃殿下を安全なところに放りこむぞ!」
「おう! 失礼しますよビクトリア様!」
「⁉︎」
オリバーに言われ、トマスはさっさとビクトリアを肩に担ぐ。荷物のように扱われたビクトリアは目を白黒させていたが、それでも流石に文句は言わなかった。足元はまだ廊下を埋め尽くすほどの蛇たちに囲まれている。それらはまだビクトリアを諦めた様子ではない。
「やれやれ……まったくこき使われるぜ……せっかくブレア様に、ご無事な王太子様のお姿をお見せできると思ったのに……」
うんざりという顔でオリバーは蛇たちを蹴る。彼らはたった今隣国領プラテリアから帰還したばかりだった。そのぼやきを、同じく隣で蛇を追い払っていたザックが宥める。
「まあまあ……国の大事に戻ってこれてまだよかったじゃねーか。こんな時にブレア様のお傍にいられなかったら騎士の名折れだぞ」
「……ち!」
オリバーは舌打ちして、苦笑する仲間の背中へ一瞬だけ視線をやる。──こうして仲間は平気な様子で働いているが……ザックやトマスは隣国の牢から脱出したばかりだ。本当ならば、おそらくその件にも大いに関わっているはずのビクトリアなど、オリバーは助けたくもない。しかし。オリバーはあえてビクトリアのことは見ずに、蛇たちを睨む。
「……ブレア様のためだ。仕方ねえ。あの方は、絶対に助けろとおっしゃる。とにかく早くブレア様と合流するぞ!」
そのオリバーの言葉に、ザックは深く頷く。
「ああ、そうだな」
「……それにしてもさぁ?」
と、不意に、ビクトリアを運搬しつつトマスが言う。ヒゲの騎士は不思議そうな顔で蛇たちを見ながら首を傾げていた。
「でも確かに……こいつらさ、俺たちには近寄ってこねーな? なんでだ?」
「……知るかよ」
オリバーはどうでもよさそうにそう言うが、確かにトマスの言葉通り、蛇たちは何故か彼らを避けているようだった。
彼らが近寄ろうとすると、蛇たちは皆怯んだように距離を取る。身を反転させて威嚇は続けながらも……だがけしてオリバーたちに向かって来ようとはしない。あれほど狙っていたビクトリアにも、彼女をトマスが抱え上げた途端、まるでガラスの壁でもあるかのように近寄って来なくなった。誰もその理由は理解できなかったが……しかし彼らは、この不可解な現象のおかげで、無事ここまで辿り着くことができた。
けれどもオリバーは首を振って断じる。
「今は考えるより、この方を守るのが先決だ。生きていてもらわねーと、罪も裁けない」
騎士が言うと、トマスの肩の上のビクトリアがギクリと身を揺らす。そしてトマスがため息をつく。
「それに、蛇たちもまだ諦めたわけじゃなさそうだしな……」
その通り。蛇たちはオリバーたちとは距離を取るものの、まだジリジリと追ってくる。とにかくとオリバー。
「この量の蛇共を全部追い払ってられねぇ。ひとまずビクトリア様を安全な場所まで──」
そう、にじり寄ってくる蛇たちを注視しながらオリバーたちが後退しようとした時。背後でぎゃっ! と、声がした。
「⁉︎」
振り返ると、トマスが床に伸びている。
「トマス⁉︎」
「あいてて……」
トマスに怪我はない。しかしオリバーはハッとした。その肩の上にいたはずの女の姿がそこにない。──と、悲鳴が上がる。
「っなんだ⁉︎」
「オリバーあれ!」
ザックが叫んで指さす、その先──……蠢く蛇たちの中に、一匹の、黒い獣が佇んでいる。
「⁉︎」
オリバーがギョッとした。その獣は口にビクトリアを咥えている。それは熊のような巨体だが、熊ではない。猫科の顔をした獣は妃を咥えたままニヤリと笑った。
「ひぃいいい! た、助け……!」
「ビクトリア様!」
「…………うるさいなぁ」
「⁉︎」
その声に、身構えていたオリバーたちが瞳を瞬く。今、目の前で──その獣が、口を利いたように聞こえたのだ。しかしそんな騎士たちの驚きを他所に、獣は咥えていたビクトリアの首を手で持つと、自由になった口でオリバーたちをからかうように笑う。
「あは、こいつは貰っていくよ」
「⁉︎」
聞き間違いではなく、確かに人の言葉で話した獣に、一瞬オリバーたちはたじろいだ、が、騎士たちはすぐに剣を抜く。
「貴様……! ビクトリア様を放せ!」
オリバーが猛然と斬りかかる、と、獣はビクトリアを掴んだままヒラリとそれを避ける。巨体に似合わぬ軽やかさに騎士たちは皆唖然とした。
「おっと。こっちこないでよ」
と、何故か獣が鼻の根元にシワを寄せる。
「やれやれ……忌々しいなぁ……アンタらも聖なる力の“加護持ち”かぁ……」
「……、……加護?」
獣の言葉にオリバーたちが怪訝な顔をする。と、獣はその顔をふんと鼻で笑った。
「お前なんか……本当は女神も信じてなくて加護は低かっただろ……それなのにさ……」
目を細め、咎めるような視線をオリバーに向けていた獣は……何故か不意に、青い瞳に静かな憂いを滲ませた。
「せいぜい……“それ”を、一生懸命繕って、聖なる加護を恵んでくれた女に感謝するんだね……お人好しをいいことに無理言って押しつけたんだ……こんなどうしようもない女なんか守ってないで、どうせならその人を守って恩を返してよ……お前たちが生きているのは、全部あの人のおかげなんだぞ……」
「あの人?」
棘のある言葉に、騎士たちが怪訝な顔をする。獣が“それ”と言って示したのは──どうやら彼らが着ている騎士団の制服のようだった。
「これ……?」
「繕ってくれたって……?」
ザックたちが困惑した様子で顔を見合わせている。獣の言葉の意味が分からない。しかし、アクティブがすぎる彼らが、何度も破いたそれを『繕ってくれ』と押し付けた覚えがある者は──……ただ一人。
オリバーはハッとして獣に怒鳴る。
「おいお前! それはどういう意味だ⁉︎」
しかし獣はベロンと赤い舌を出して、戯けた調子で返してくる。
「知ーらない。とにかくこいつは貰っていくよ」
獣は悲鳴をあげるビクトリアを口に咥えなおすと、ぱっと身を翻し。そしてそのまま廊下の窓を突き破ってその場を立ち去っていった。残されたトマスらは唖然としたが、その騎士二人にオリバーが怒鳴る。
「おいボケっとすんな! 追うぞ!」
「あ、ぁあ、ああ……」
「オ、オリバーあいつは……あれは何だ⁉︎」
二人はまだ動揺している。だがオリバーは、いいから行けと二人を叱咤した。
「知らねーよ! だが……側室妃は絶対に取り返すぞ!」
今はまだ、事態の多くのことが彼らには理解できない。が──とにかくビクトリアは取り戻さねば、絶対にあれはまずいのだと、それだけは彼らにもよく分かった。
お読みいただきありがとうございます。
物語も終盤ですし久々に主張してみます!
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