73 花
──魔法で転送されると。空間の継ぎ目を潜るせいか、いつもエリノアは周囲の空気が変わったことをはっきりと感じた。が……今日は、それがいつもに増して如実なものとして突きつけられた。
寄り添った小さなテオティルに地面に降ろされる直前。何かが焦げたような、廃油を焼いたような匂いを感じた。それは、これまで王城では感じたことのない悪臭だった。胸焼けのしそうな息苦しさに襲われて、エリノアは焦燥感を募らせる。ずっと震えている手を握りしめると、両手がとても冷たかった。
そんなわけない、そんなわけがないと、祈るような気持ちだった。
けれどもその光景を目の当たりにして、エリノアは怯むように身を硬くした。
目の前に広がるのは、瓦礫と化した宮廷。建物が崩壊し、そこここで青黒い炎と煙が天に向かって立ち昇っている。
「な、んてことを……」
エリノアの声が掠れる。瓦礫の中には多くの者が倒れていた。そしてそれを救護しようとする者、不気味に蠢く青黒い魔物の炎を消そうと試みる者たちが集まっていた。場は異様な空気に包まれて騒然としていた。
周囲で呻きながら苦しんでいる兵士たちへ目をやったエリノアは、その身体に不気味なまだらの黒い火傷のような痕を見つける。咄嗟にコーラの言葉を思い出す。
『──私たちの炎は触れると瘴気に蝕まれるの』
あれが、と、愕然とした時。少し離れた場所から声が上がった。
「⁉︎ え⁉︎ エリノア嬢⁉︎」
エリノアがハッと前を向くと、ブレアの書記官ソル・バークレムがこちらを見て立っていた。青黒い炎の立ち昇る瓦礫の手前で唖然としている彼は。いつもはきっちりとまとめられた髪を乱し、服もボロボロ。顔は煤と汗に塗れていた。手には先端が黒く焼け焦げた──どうやら槍先が落ちたの槍の柄のような棒を持っている。
エリノアは──彼がその棒で、懸命に炎に立ち向かっていたのだと気がついて。途端──心臓を握りしめられたような衝撃を受けた。──彼は、ブレアの書記官である。その彼が、炎に包まれた瓦礫をなんとか掘り起こそうとしている。その下には、もしや──……
一瞬目の前が真っ暗になって。しかし、ソルの怒声で我に帰る。
「お嬢様! 何故こんな場所に……! ここは危険です! 早く避難を!」
ソルは顔を強張らせてこちらへ向かってこようとしていたが、エリノアは彼がくるよりも早く彼に駆け寄った。
「バ、バークレム書記官……ブレア様は……」
「……っ」
縋り付くように尋ねると、彼は珍しくエリノアの顔を見て口籠もった。激しい苦痛を感じたように顔を歪ませて。奥歯を噛んで……ほんの一瞬、動揺の滲む視線を瓦礫に落とす。──それで、エリノアには伝わった。
「っ、そ、んな……」
ソルの向こう。今なお炎に焼かれる瓦礫の山を、エリノアは呆然と見つめた。緑色の瞳からとめどない涙が溢れた。
「……ブレア様……」
その名を呼びながら、おぼつかない足取りで瓦礫に近づこうとすると──ソルが必死の形相でエリノアの腕を引き留める。
「駄目です! ──見てください、炎に少し触れただけでこの有り様です」
彼はエリノアに、自分の手のひらを広げて見せた。その痛々しく震える手は、黒ずみ、まだらの魔障に冒されていた。エリノアの顔が悲壮に歪む。
「我々もブレア様を救出しようと様々な方法を試みました。ですが──!」
ソルは堪えるような顔で、ブレアが炎に包まれた瓦礫の下に閉じこめられてから、もうだいぶ時が経ってしまったと震える声で言った。
「……もう、お命があるとは……思えません。行かせられません。ブレア様が大切にしていたあなたに何かあれば、私はブレア様にとても顔向けできないのです!」
「バークレム書記官……」
あの、いつも冷徹で、エリノアには機械人形のような顔しか見せなかった男が……泣いていた。
エリノアは、生真面目な顔に流れ落ちた雫を見て、言葉に詰まる。彼は魔障に冒された手でエリノアを守ろうとしていた。痛みを感じているだろうに──ブレアのために、主君を失った悲しみを堪えながら。その悲痛な思いやりを感じて──エリノアの目頭が熱くなった。悲しみだけではない複雑な感情が胸に迫る。
──ふっと──……心の中に、小さな温度が戻ったように感じた。
エリノアは、自分の腕を掴むソルの手にそっと手を添えた。痛々しく魔障に冒された手のひらは、まだらの部分が人の手とは思えぬほどに硬化している。
「……バークレム書記官、……ありがとう」
それは掠れていたが、どこか決意の滲む声だった。
「お、嬢様……?」
感謝の言葉にソルが戸惑ったような顔をする。と、エリノアは、頬を擦るようにして涙を拭い取っていた。そうして悲しそうに、微かに笑う。
「おじょ──」
そう、青年が呼びかけようとした、瞬間のことだった。彼の手を取っていたエリノアが、その手を離した、瞬間。彼女は身を翻し──駆け出していた。
「⁉︎ お嬢様⁉︎」
ソルの驚いたような声。それを背に聞きながらエリノアは走った。進むべきは分かっている。あの優しい書記官が、懸命に向かっていた、先。魔物たちが撒き散らして行った激しい業火の中。
エリノアの緑色の双眸に、炎が映る。瓦礫の山を包む大きな炎に飛びこむ瞬間、彼女は彼の存在へ強く願った。
「女神様! ブレア様の元へ……っ、行かせてください!」
歯を食いしばり、頭を庇うようにして炎へ飛びこむ。
──エリノアは、自分を試した。
大切な人々の生死に困惑し、怯え、聖剣の力を小さくしてしまった。けれども。
本当に、自分が闇の力に対抗する聖なる力を与えられているのなら。ここでその力が発揮できなければ、なんの意味もない。エリノアは、痛いほどに思う。
──あの方を、愛してる!
……いつの間にこんなに好きになっていたのか分からない。でも、あの静かな灰褐色の瞳がもう自分を見てくれることもなく、魔物の炎にそれが奪われるのだと思うと──泣いて暴れ狂いたくなる。彼が与えられた炎に身を焼かれる苦痛、その死を思うと──たとえ自分が炎に焼かれてでも、その身体の一片でも取り戻せるのなら、エリノアにとって、これは価値のある行動だった。
(──絶対に、取り返す!)
炎に飛びこんだ瞬間、激痛を感じたエリノアの瞳に強い激情が燃え上がる。奥歯を噛んで、炎を押し返すようになんとか一歩を踏み出した。──その、瞬間のことだった……。
──エリノアの願いに、女神が応えた。
突然、娘の両手の甲に刻まれた印が眩く輝きを放った。──かと思うと、一瞬その背後に、髪の長い高貴な顔立ちの女性の、大きな影が現れる。
場にいきなり現れた、この世のものとは思えぬ幻影に──周囲の者たちは唖然と瞠目したが……その刹那。影が大きくしなやかな腕を広げると、エリノアの周りに爆発的に光が生まれた。周囲は一気に白く覆い尽くされる。光は魔物の炎を消し飛ばし、周囲にいた者たちは、なす術もなく光の奔流に吞みこまれ、その眩さに目を眩ませる。
「な……エ、エリノア嬢!」
あまりの眩しさに視界を奪われたソルは、しかしそれでも目元を庇いながら、見失ってしまったエリノアを声の限りに呼んだ。光に翻弄される彼には、今何が起こっているのかは分からなかった。が……それでもエリノアに何かがあってはと、書記官は目が眩んだまま、懸命に光の中にその姿を探した。
──と、次第に辺りの光が薄れてきて、ソルの視界も徐々に戻ってくる。いつの間にか、あの不思議な幻影は消えていた。
「いったい……どうなって……。ど、どこですか! お嬢さ……」
と、困惑しながら呼びかけて。ふと気がつきソルはギクリと肩を揺らす。先程までは、そこここであれほど激しく暴れていた炎が──すべて消えている。
「こ、れは……今の光と爆風で……?」
戸惑って。しかし彼はすぐにハッとする。そんなことより、今急がれるのは、炎に飛びこんでいったエリノアの安否確認であった。書記官は慌てて彼女の姿を探す、と──……
「!」
……その小柄な娘は、泣きながら瓦礫を掘っていた。
素手で懸命に瓦礫を退け、すすり泣きながら呼ぶのは、彼の主君の名前。
「ブレア様……ブレア様……っ!」
「……、……お嬢様……」
その後ろ姿に、強く胸を突かれたソルは……急いで彼女の元へ駆け寄った。
恐ろしい炎が消えたとはいえ、主君がそれを浴びせられてからもう相当な時間が経っている。炎は人を、あっという間に死に至らしめる。おまけにあの炎は普通の炎とはまるで違った。彼がなんとかブレアを救出しようと炎に差し入れた槍の先端は、あっけなく燃え尽きてしまったのだ。……その光景を目の当たりにしていたソルは、主君の生存を信じたかったが──とても、生きているという希望を持てなかった。
「…………」
ソルは無言でエリノアの傍らに膝を突き、大きな建材の塊を退けようとしているその手を止めさせる。
「……これはわたくしが。……お手伝いさせてください」
生存が絶望的でも。彼の亡骸を取り返したいと思う彼女の気持ちは痛いほどに分かった。とても、止められないと思った。
エリノアはソルの言葉に答えず。だが、悲しそうな顔で少しだけ頷いて。そして再び瓦礫を退け始める。それはなんとも悲しい作業だった。彼らの後ろには次第に人々が集まりはじめていた。騎士や兵士、様々な宮廷勤めの者たちが。皆、怪我をしてぼろぼろの状態だったが、ブレアを掘り起こそうとする二人に続き、周囲からは多くのすすり泣く声が聞こえた。
「あ……」
と、その時、人の頭ほどの瓦礫を退けたエリノアが、小さく声を漏らした。瓦礫の下に、何かが埋まっていた。
「──え……な、に?」
「こ、れは……」
それは、ブレアではなかった。少し白濁していて虹色の艶のある──何かの膜のようなものだった。エリノアも、ソルも、思わぬものが出てきて戸惑うが──二人が思わず顔を見合わせた瞬間。突然、彼女たちが掘り進めていた瓦礫の下で、その白い膜が弾けた。
「えっ⁉︎」
「⁉︎」
と、同時に瓦礫が崩壊する音がして、咄嗟にソルがエリノアを庇った。辺りにはもうもうと砂埃が舞い散り、飛んでくる小石に二人は顔を背けた。
すると次第に砂埃が落ち着いてきて。一体何事だと目を凝らすエリノアとソル、それから後ろで作業を手伝っていた者たちが──それを見て、一様に息を吞んだ。
「──っ⁉︎ ブレア様!」
──一番最初に叫んだのは、ソルだった。
エリノアは、突然目の前に現れた人を見て、一瞬呆然と立ち尽くしてしまった。
皆の見つめる瓦礫の上に、力なく横たわっているのは──金の髪の青年。それは確かに──ブレアであった。
「──……、……、……ぁ……」
やっと、エリノアの口から声が漏れる。食い入るように見つめる青年の瞳は、ぐったりと閉じられている、が……それは皆が想像していたような、炎に蹂躙された惨たらしい姿、ではなく……。以前と変わらず精悍で凛々しい、そのままの彼だった。
「!」
エリノアは突然誰かに突き飛ばされたように駆け出した。足場の悪い瓦礫の上を転びそうになりながら、ブレアの身体に飛びつき、まず、その呼吸を確かめる。
「……ぁ……、……、……」
途端、エリノアの瞳から涙が溢れ出した。
──ブレアは、……生きていた。
嗚咽を漏らし、ブレアに縋って泣く娘のあとからブレアに近づいたソルは、険しい顔でその手首の脈を確かめて。そこに確かな律動を感じ取ると、彼もその場にへたりこんだ。
「……っ……信じられない……生きて、おいでだった……」
書記官の瞳からも、再び涙が溢れ出た。
「ブレア様! ブレア様!」
エリノアは泣きながら、何度もその名を呼んだ。背後では、ブレアの生還を見た者たちが、大地が揺れそうなほどの歓声を上げている。
しかしエリノアには何も聞こえなかった。すがったブレアの身体は確かに温かい。彼が無事でいてくれた。そのことで胸がいっぱいで。感謝の気持ち以外には、今は何も考えられなかった……。
──そんな彼らの背後へ、静かに歩み寄ってきた青年は。ふと、先ほど光とともに弾けて飛んで、瓦礫の地面へ落ちたものを拾い上げる。
「これは……」
落ちていたのは、小さな栞だった。細くたたみこまれた少し分厚い紙の上に小さく穴が開けられて、そこに若草色のリボンが結ばれている。
その中身──紙で挟まれた中に、偉大なる加護の力を感じて、青年は安堵の息と共に破顔した。
「──そうですか、ずっと持ち歩いていたのですね……」
微笑んだ青年、テオティルは。栞の中にあるものが、かつてエリノアがブレアに贈った野花だと気がついた。
それはエリノアとブラッドリーたちが王都の外へ外出した時のこと。
あの時エリノアは、ブレアに摘んできた花を贈ろうとした。だが、摘まれてしまった野花は、そう長持ちしない。そこで、テオティルに持ちかけられて、エリノアは聖なる力の訓練も兼ね、この花に癒しの力を注ぎこんだのだった。ブレアが長くその花を楽しんでくれるよう。きっと、愛しさをこめて。
──その時のことを思い出し、テオティルはクスリと微笑む。
(……あの時は……力のこめすぎで花がピカピカ輝いていて……主人様は力の調節に苦労しておいでだった……)
そうして青年への想いをこめにこめ、力を注がれたその野花は格別の加護を得たらしい。宿った聖なる力は、魔障を跳ね除けに足る力を十分に備えていた。
が……、テオティルは、ブレアはさぞ困っただろうと苦笑する。この栞を見る限り……ブレアは、エリノアに贈られたこの花を、押し花にして取っておきたかったらしい。だが、どうやらその花は、今も紙の中で枯れもせず生き生きとした生命力に溢れているようなのだ。ブレアはさぞ不思議に思ったことだろう。
聖剣は、さすが我が主人様の力と誇らしく思い……ブレアには、長く女神の大樹から見守ってきた者として、可愛い子だと目を和らがせる。二人が大切に想い合ったからこそ、この野花に宿った聖なる力はとても瑞々しく、そして力強い。テオティルは、栞を持ち上げて微笑みかける。
「ブレアを守ってくれて……ありがとう」
聖剣は主人の代わりにそっと野花に礼を言って、その愛情のこもった小さな栞を静かにブレアの懐に転送しなおすのだった。




