29 忘却
小さなうめき声が聞こえた。
同時にそこに横たわる金の髪の青年の瞳がゆっくりと開らかれる。
「……ここは」
白い天井を視界に捉えたブレアは身を起こす。
──そこは彼の私室だった。
慣れた広い天蓋付きの寝台に、彼は寝ていたようだった。室内には外から明るい陽の光が差し込んでいる。磨かれた調度品の数々が品良く照り光り、それはいつも通りの光景だった。
しかし、ブレアは何か違和感を覚える。
一瞬頭の隅に誰かの後ろ姿が浮かんだ。暗い色の髪、白いエプロンの結び目。あの者は一体どこへ──
そう、思ったが。その感情はすぐに流されて、ブレアの中で霞のように消えてしまうのだった。まるで夢の残り香のように。
「…………?」
しかし考えても消えてしまったものが何なのかは思い出せなかった。
ブレアは頭を振ると、寝台を下り、執務に向かうため、部屋を出ていった。
「…………まったくもう、姉上と来たら運が強くて嫌になりますねぇ。よりによって母上を引き当てるとは……」
憚ること無い舌打ちに、それを聞いていたエリノアが眉を顰める。
「あのねぇ……別に私があんたのママンを呼んだ訳じゃないんだけど」
するとグレンが気力を削がれたような顔をする。
「ちょっとやめて下さいよ、そのママンってやつ。あー……まったく……私は長男なので母は私にとにかく厳しいんですよ」
「……違うでしょ、あんたの性格と素行のせいでしょ、絶対に」
エリノアはじっとりとグレンを睨んだが、グレンはそれを綺麗に無視し、「はーやれやれ」と疲れたように頭を振っている。
あの後──ひとまずブラッドリーを落ち着かせたエリノアは、はたと思った。
『……この状況、一体どうブレアをごまかしたらいいんだ』と。
目の前では巨体の女豹が弟を抱きかかえてくるくる踊り狂っていて、ブラッドリーの力から解放されたブレアは、それを息を呑んで見つめている。
その口が微かにまさか、と動くのをエリノアは見た。
「……魔、物……?」
その鋭く真実を見極めようとする視線が己に移って来て。エリノアは思わず身を竦ませる。
視線は何故と言っていた。何故お前の傍にこんなものがいるのだと。女神の聖剣を抜いたはずのお前の傍に何故、魔物がと。
その強い疑惑の目にエリノアの胸がずきりと痛む。なぜか分からないが、そんな目で見られるのは嫌だった。
「あ、の……」
説明しなければと思った瞬間、腕が掴まれた。そのまま引っ張られ。
瞬きする間に迫ってきたブレアの顔が、怖いほどに真剣で。その厳しい瞳に見据えられたエリノアは息を呑む。
「答えろ勇者……あの魔物は……お前の弟の足元から突然現れた。……そしてお前の弟を“我が君”と呼び、……“陛下”と呼んでいる」
「そ、れは……」
「……その敬称は王を呼ぶ特別なもの……お前の弟は……まさか……魔物の……王、なのか……?」
「……っ、……」
エリノアが答えに窮した時。
彼の灰褐色の瞳が、ふっと輝きを失う。
「……え? ブレアさ……? わっ!?」
突然ブレアの身体がエリノアに覆いかぶさって来た。
エリノアが目を白黒させると、その身体はぐったりと力を失っていた。
「ブレア様!? ちょ、ブレア様!? どうなさったのですか!?」
いきなり意識を失ったブレアに、エリノアは慌てて男の背に手を回しその身を支える。
「ど、ど……どうし……い、医者!」
「……ぉ……され……」
「え?」
青ざめるエリノアに、ふと、今にも消え入りそうな声がかけられる。
いつの間にか、ブレアの後ろにぷるぷるした老人──メイナードが立っていた。
「……え」
「ぉ…………」
エリノアは思った。……聞こえない……っ。
老将の口はモゴモゴと動いて何を訴えているものの、その声はか細すぎて少しも聞こえなかった。
「お、おじいさん?」
「……落ち着きなされ、と言っておられる」
「! ヴォルフガング?」
気がつくと扉の傍に白い犬の姿が。ぜえぜえ息をして、白い獣はエリノアを見ている。その身体はなんだかとても、もっふりぴかぴかになっていた……
「そやつはメイナード殿が眠らされただけだ」
「ふぇ、ふぇ」
通訳の出現に老爺は肩を揺すって笑っている。
「……眠らせ……?」
エリノアが問うと、再びメイナードがモゴモゴ口を動かしている。ふんふんと聞いていたヴォルフガングがそれに応じる。……老人が、犬に通訳されている様をエリノアが微妙な顔をして見ていた。
「面倒が生じていそうなので眠らされたそうだ。必要ならば……記憶も消すが、と仰っている」
「えっ!?」
その言葉に、エリノアはブレアを抱いたまま、目を剥いてメイナードを見た。
「そ、そんなことできるの!?」
すると老将はぷるぷるしながらこっくりと頷く。そして隣に寄り添うように座った白犬の耳に口元を寄せる。
「……と、その前に、男をどこかに寝かせるように、だそうだ」
「!? ぎ、儀式的な……?」
エリノアは一瞬、そんなことに王子を晒して大丈夫だろうかと、不安に思ったが……老将が首を振り、白犬が口を開く。
「いや、お前が抱いたままでは、陛下がまたお怒りになるかもしれぬからと。面倒なのでひとまず男と身を離せ、……だそうだ」
「…………」
意識のないブレアを居間から運び出したエリノアは、とりあえず、ヴォルフガングとメイナードと共に彼を自分の寝室へ運び入れた。
ブラッドリーは未だコーネリアグレースの腕の中であり、直前の騒動で少し疲れているようだった。だがこちらは私に任せて大丈夫だと彼女が請け負ってくれた。
……ちなみにグレンは、彼女に、くどくどとお説教をされている。グレンが何かを反論しようとすると、女豹は担いでいた身の丈よりも大きな棍棒を振りかざし、己が息子を威圧する。
そんな母にはさすがのグレンも太刀打ちできないようで……
その様子には、若干いい気味だなとエリノアは思った。
──それはさておき。
寝台の上のブレアは特に顔色が悪いということもなく、エリノアは心底ホッと安堵した。
傷の手当てでもと、部屋を出ようとすると、ヴォルフガングに止められる。怪訝に思って眉をひそめて見ていると、王子のかたわらに老将が立ち、相変わらず聞き取れないほど小さな声で何やらモゴモゴと口を動かしている。と、思ったら……
彼の皺だらけの手が、ブレアの傷口にかざされると……傷はみるみる治癒していき、終いには跡形もなく消えてしまった。
その不思議な光景にはエリノアも驚いた。
「……魔、法……?」
つぶやくと、ヴォルフガングが頷く。
「そうだ。メイナード殿は最も長く陛下の傍に仕えていて、様々な魔術に長けておいでだ」
「そ、そうなんですか……?」
こんなによろよろで今にも倒れてしまいそうなのに、とエリノアは目を見はる。
「じゃあさっき言ってた、王子の記憶も本当に……?」
半信半疑ながらもエリノアが問うと、老将は頷く。
「ただ、消せるのは記憶だけだそうだぞ」
生真面目そうな表情でヴォルフガングが言った。
「だけ? どういうこと……?」
「メイナード殿が習得している忘却術は、対象に起こった出来事の記憶は消す事が出来る。だが、そこから生まれた感情までは消す事が出来ない。つまり、今回のことでお前がそやつに不審に思われていれば、その感情はそのまま記憶が消えた後も残ることになる」
え……と、エリノアが声を漏らす。
「ということは、王子は私の無礼を忘れても、私は無礼なセクハラ娘として悪感情を抱かれて、このお方に嫌われる……?」
「嫌われるかどうかは知らん。だが、我ら魔物と通じているのかという疑念は消えても、感じた不信感は残るだろう」
それを聞いたエリノアは思わず黙りこむ。
「……」
「どうした? 嫌なのか? しかしこの場合それが最善なのではないか?」
怪訝そうに問うてくるヴォルフガングに、エリノアは一寸の間を置いて、首を振った。
「ううん。大丈夫……そうして貰いましょう。……それが一番ことが穏便に済むわ……」
エリノアは己の胸に手を置いた。そうして横たわるブレアの顔を見ると、何故だか少し悲しかった……
そして、こってりコーネリアグレースに絞られたグレンと共に、ブレアを王宮に戻したエリノアは、その後、もう一度一人で侍女頭の部屋へ行った。
今度はちゃんと侍女頭がそこに居て。
エリノアと話をした侍女頭は、何故王子がエリノアと引き合わせて欲しいと言ってきたのかをとても不思議そうだった。が、……彼女自身は何もブレアから聞かされていない様子で。ひとまず遅刻も王子に言いつけられた用事をこなしていたのだという名目で、エリノアは侍女頭に叱られるのを免れた。
その後は普段通りに夕方まで仕事に勤しみ。そして終業後、グレンと合流したエリノアはやっとのことで帰路に就いたのであった。
その道すがら、母にエリノアの警護を任されたグレンがぶつぶつとぼやくのである。母怖し、と。
「よりによって陛下命の母上と、人間界に侵攻するより陛下とのんびり茶でも飲んでいたい……とかほざく老将が同時に来るなんて……ついてない。もっと禍々しい配下が増えて欲しかったんですがねえ」
嘆く黒猫にエリノアは素っ気ない。
「何言ってんのよ。おかげで助かったわよ。不敬罪に問われなくてもすむし、ついでに私が聖剣抜いた件の記憶も消してもらえたし。はー……本当に良かった。これで上級侍女職を諦めないですむ……お給金、嬉しい……」
エリノアはそう言い、ほこほこした顔で給金を収めている鞄を撫で、それに、と続ける。
「あなたはとりあえずブラッドリーを守るために配下が欲しかったんでしょ? おじいさんは……まあ、確かに強そうではないし、逆に介護が必要そうにも見えるけど……、あなたのママン、相当強そうじゃない。迫力から言えば、断トツで」
それを聞いたグレンはげっそりとため息をつく。そして思った。確かに強いけどさ、と。
……姉上分かってるんですか? あなた今日から……あの二人とも同居しないといけないんですよ。あのギラギラした私の母上とも。
「………」
グレンは生暖かい瞳でエリノアを見ている。
エリノアがその事に気がつくのはもう少し後の事。




