71 足の向かう先
見上げると、傍の王宮の建物の上に黒い猫の婦人の姿。婦人の髪や服は多少乱れていたが、それでも彼女は愛用の(どうやら夫をぶっ飛ばしたらしき)金棒を肩に担ぎ、エリノアに一礼する。
「お待たせいたしましたエリノア様。このコーネリアグレースが、我が夫を献上いたしますわ」
えっという顔をしたエリノアの足元で、その献上品は、もそり……と、首だけを動かして。
「⁉︎」
「おやぁ……? ほぅほぅ、これが女神の勇者か……? 想像より……いささか小さいな……?」
地面にめりこんでいた灰色の物体──グレゴールは、土まみれの顔で、エリノアを好奇心に満ちた目で見る。──と、その下。グレゴールの背中と地面との境から、呻き声。
「っ! っちょ、ちょっと父様! お、重いっ!」
「ん? お……? なんだコーラではないか……オヌシそんなところで何をしておるのだ?」
「っ何をじゃないわよ! 早くっどいて!」
コーラが金切声を上げると、すぐさま上からしらっとした声が降ってくる。
「だめよ。グレッグ、その跳ねっ返り娘はそのまま捕まえておいて。その辺にカレンもいるはずだわ。あとで縛り上げておくのよ」
「! 母様!」
コーネリアグレースの言葉にコーラが牙を剥いて怒る。しかし婦人は素知らぬ顔である。
「母様! 魔王様のご命令に叛くの⁉︎」
「あーらあらあら、ほほほ。そんな鬼みたいな顔しないで可愛いコーラ♡ でも今は親子の感動の再会をしている場合じゃないの。また後でね」
コーネリアグレースは、夫の背中の下の娘を適当にあしらって、一っ飛びにエリノアの傍まで跳躍する。
「よ! ……と、やれやれ」
「コーネリアさん!」
「かーさま!」
着地した途端、マリーが婦人の身体に張り付く。婦人はまずはマリーの毛並みの埃を払って。それからエリノアを見る。
「おおマリー、お姉様たちは相変わらず二人ともおてんばよねぇ。それで……こちらの状況は? 早く行かねば陛下にクラウスが殺されますよ? 娘らはあたくしが押さえますからエリノア様は──」
早く王の元へ行ってくださいと促す婦人に。途端──エリノアが苦しそうな顔をする。
「っ」
「⁉︎ エリノア様⁉︎ どうなさったの⁉︎」
血の気の引いたエリノアの顔に婦人は戸惑って。困惑した視線がヴォルフガングを見る。魔将が重い口調でマリーの報告の内容を語ると……婦人は悲痛な顔で息を吞み、即座にその場に膝を打ちつけるように平伏した。
「──申し訳ありませんエリノア様! 娘たちの愚行はあたくしの責任です!」
「ち、違うの……そうじゃない、そうじゃなくて……」
エリノアは、地面に頭を擦り付けるように土下座した婦人を、涙を堪えながら止める。頭の中はぐちゃぐちゃだったが、それでもまだなんとか冷静にならなければという気持ちがあって、エリノアは吐露する。
「私……今すぐブラッドリーを止めたい……止めなくちゃ……だけどっ……」
そうしなければ、きっとブラッドリーは王子クラウスや側室妃ビクトリアを害してしまう。王城にも被害が広がり、現在治療中のリードだって、術を施してくれているメイナードだって危険だ。
──けれども、ブレアの顔が脳裏に浮かぶと耐えていた涙がハラハラと頬に伝った。泣くもんかと思っていた。でも、無理だった。いったいあの人の身にどんな災難が降りかかったのかと想像すだけで、立っているのがやっと。今すぐ地に伏して、泣き叫びたい衝動を何とか堪える。
エリノアは、「私……」と、唇を戦慄かせて訴える。
「……ブレア様の安否も確かめなければ……もう……もう足が一歩だって動けそうにない……」
ごめんなさいごめんなさいと繰り返しながら、エリノアは拳を握る。弟もリードもメイナードも、そして国も大事だ。しかし……ブレアが死んでしまったなどと言われると──……絶望感で目の前が真っ暗になる思いだった。悲壮なエリノアの視線が彼の人を探すように、王宮の庭を彷徨った。
(ブレア様……)
あの静かで高潔な瞳をした青年が、もうこの世にいないなどと。
「そんなはず……」
あるわけないよねと、エリノアの顔がそっと寄り添ってきた小さなテオティルに向く。
「エリノア様……」
小さなテオティルは、震える娘の腕に寄り添い。そんな二人を見て、ヴォルフガングとコーネリアグレースが視線を交わした。聖剣の形状の異変を見て、婦人にもエリノアの苦しい胸の内が分かったようだった。婦人は静かに言う。
「……ですが……陛下がクラウスを殺してしまえば……お終いですよエリノア様……」
「っ分かってる……分かってるんです……」
エリノアは奥歯を噛み締める。魔王性が高まるなどと、そんな話はなくとも。ブラッドリーがクラウスを手にかけてしまえば、もう自分たち姉弟が、今まで通りではいられなくなるだろうことは容易く想像がついた。弟は放って置けない。可愛い唯一の弟を憎しみの中から救い出したい。リードやメイナードだって救わねば。
「──っ」
エリノアの瞳から堰を切ったように涙が溢れた。喉からは嗚咽が漏れる。
(…………行かなくちゃ……)
心では、この場から魂が剥ぎ取られそうなほどに、ブレアの元へ行きたいと願っている。が──
エリノアは、今は、弟の暴走を止めることが先だと、それが、聖剣を預かった自分が成すべきことなのだと分かっていた。王宮中に響き渡る人々の悲鳴。そこここに上がる黒煙と炎。勇者として、姉としても。責任と道理が、エリノアの重い足を動かした。
(ブレア様は……きっと生きておられる)
心が裂かれるように痛かった。どうか無事でいてくださいと全身全霊で祈って。エリノアは、倒れそうな自分を奮い立たせた。
──と、その時。
エリノアの肩を後ろから温かく支えるものがあった。
「──ぁ……」
顔を上げると──白い獣の顔。……ヴォルフガングである。
魔将は静かな眼差しで、涙で濡れたエリノアの顔を見下ろした。不安と絶望、責任感と愛情が痛々しく荒らしていった娘の顔面は、哀れなほどにひどい有り様である。支えた肩は華奢で、今にも重圧に倒れてしまいそうなのに。しかしそれでも屈しようとしない背を──魔将は押した。
「……行け。エリノア、お前はブレアのもとへ」
「──ぇ……?」
と、傍でコーネリアグレースも頷いていた。
「そうね……仕方ありませんわ。我々でもなんとか陛下の足止めくらいにはなるでしょう。──グレッグ! あなたはコーラたちをしっかり捕まえておいて頂戴! 武具は取り上げるのよ!」
振り返った婦人が金棒を手に、未だ娘を敷いたままの夫に言いつけている。それを困惑の目で見ていたエリノアを、婦人はまた振り返って。婦人は、普段と何ら変わらぬ調子で笑った。
「エリノア様、陛下は我らに任せてブレアのところへお行きください。でも──あたくしが羽虫を始末したくなる前にはお戻りになってね?」
ほほほと物騒なことを言う婦人に、「でも……」と首を振ろうとすると。その前にヴォルフガングが渋い顔でコーネリアグレースにやめろと言って、それから魔将はエリノアを見る。
「だが、こいつが言う通り、早めには戻れよ……。悔しいが、今の陛下には、お前以外の声が届くとは思えん。ブレアの安否を確かめるまでは我らが死ぬ気で陛下をお止めしておくが……あのお方は我らを従える存在。服従者の我らは長くは持たんぞ……」
ヴォルフガングは重く言うと、エリノアの隣のテオティルに目配せする。エリノアは焦った。
「だ、だけど……!」
それは弟を溺愛する彼らに、弟に直接的に刃向かわせてしまうということなのではないか。そう案じたエリノアはヴォルフガングの腕を引き留めようとするが──魔将は煩わしそうに吠える。
「うるさい! お前はさっさとブレアの生死を見届けてこい! そのような有様では魔王様どころか小物の魔物ですら止められぬわ! ──おい聖剣! さっさと行け!」
魔将の怒鳴り声に、テオティルが頷く。エリノアが驚き、口を開ける。
「で──」
も、と、その言葉が終わる前に。エリノアは、テオティルの転送魔法によりその場からかき消えた。
それを見届けた魔物二人はため息をつく。コーネリアグレースは金棒を肩に担ぎ直して。
「やれやれ──あの状態の陛下にどれだけあたくしたちの声が届くやら……下手したら…………」
そこでコーネリアグレースは言葉を切って。そしてフッと笑った。
「……ま、子の犯した罪の償いはしなければね」
彼女にチラリと横目で視線を送られたコーラがまた怒鳴る。
「まさか──本当に王に楯突く気なの⁉︎ 正気⁉︎ 消されてしまうわよ⁉︎」
信じられないと母に怒鳴る娘に。だが、婦人もヴォルフガングも静かにその顔を見た。
「……お前たちには分からん」
「こちらで王と共に過ごした者にしか分からぬのです。王と、あのお方と、お二人が住まうこの地がどれだけ大切なのかは……」
二人の魔王のしもべはそう言い残し、彼らの王の元へ向かった。




