70 エリノアの精神と聖剣
ブレアが──
ブレアが──と、泣く幼い声が遠くに聞こえた。
呆然と見下ろすと、腕の中に小さな身体を見つけ、ああ、そうだったマリーちゃんだわと思った。傍で心配そうにこちらを見ているヴォルフガングの顔が見えた。いつの間に手放していたのか、足元には聖剣が落ちていて、それが霞のように消えたかと思うと、慌てたようなテオティルがエリノアの目の前に現れる。
だが、急速に自分の身体と感覚とが切り離されてしまったようだった。これまで──リードの危機や、メイナードの窮地、弟の暴走と……随分と色んなものに耐えてここまで来た。だが──
(…………ブレア様……)
その報せには、とどめを刺された思いだった。張り詰めていたものがプッツリと切れてしまったように、何もかもがぼんやりとして。周囲の者たちが必死にかけてくる声が、全然耳に入ってこない。何も分からなかった。
頭の中で、マリーの言葉が反響している。わんわんと響くその声を聞いていると、その度に身体が揺さぶられるように震えた。だんだん呼吸が早く、短くなっていった。マリーの声と、自分の荒い呼吸音が重なって、それはだんだん大きくなって、終いには聞いていられないほどに大きくなった。
不意に足がよろめいて。だが、地に膝がつく前に、それは何かに止められる。
「おい! 大丈夫か⁉︎」
ぎゅっと握られた腕の感覚で、やっと耳に声が届いた。ヴォルフガングだった。
焦ったような犬の顔。必死に呼びかけられてやっと、エリノアは、喉から声を絞り出した。
「ヴォッ、ルフ、ガング……ッ」
「!」
真っ青な顔で息苦しそうに見上げてくる娘は、荒く吐き出すだけの呼吸をしている。
それを見た魔将はすぐに、苦しそうに胸を押さえいるエリノアの傍らへ屈みこむと、その背に大きな手を乗せた。
「落ち着け、大丈夫だ……ゆっくり息を吐け」
それは、今までのエリノアに対する魔将の態度からすると、信じられないくらいに優しい口調だった。呼吸の乱れたエリノアに、その正しいリズムを教えるように。縮こまった背中をヴォルフガングの手が軽く、ゆっくりと打つ。
「少しだけ吐くのを長くしろ、そう、そうだ」
「っ、」
と、涙ぐんだエリノアが喘ぎながら彼を呼んだ。
「っ、っ、ヴォル、ふ、ブレア、さ……っ」
悲痛な顔だった。苦しんでいてもなお、今はその者の安否のことしか考えられぬのだろう。その心情は、これまで散々王宮に潜りこんで、見ているほうが恥ずかしくなるような二人の様子をずっと監視してきた魔将にもよく分かった。ヴォルフガングは、ぜいぜいと肩を上下させて苦しむエリノアの横顔を見つめながら、静かな眼差しできっぱりと諭す。
「……エリノア。やつの生も死も。お前自身が見届けるべきだ。その為に、今はまずは自分が己の足で立て」
「っ、」
口調は強かったが、その中には励ましがこめられていた。娘はくしゃりと顔を歪めて。涙をこぼしながらも、背中を撫でてくれる魔将の手の動きに合わせるようにして、一生懸命にゆっくりと息を吐く。
苦しげでも、泣いていても、言われた通り懸命に呼吸を整えようとする顔を、ヴォルフガングも奥歯を噛んで見守っている。
──いつの間に泣き止んだのか──エリノアの腕の中にいたマリーも無言でエリノアを見上げ、その頬をチロリと舐めた。
その小さな温かさにも助けられ、なんとか呼吸は落ち着いてきて。エリノアは、やっと顔を上げる。まだ苦しさはあるが、行かなければと強く思った。と、そこへテオティルの声。
「主人様……」
「だい、丈夫、大丈夫よ、テ……」
心配そうに覗きこんでくる彼の声にそう応じて、テオの顔を見たエリノアは。その瞬間ギョッとした。
「…………テオ……?」
「主人様……」
悲しそうなテオティルの声。それは確かにテオティルのものだったが……
そこにいたのは──一人の少年。
いや、顔は明らかにテオティルなのである。だが、背丈はいつも三分の二ほど。ブラッドリーよりも幼い顔の少年が、そこに所在なさげに立っていた。
「…………テ、オ、なの……?」
エリノアが目を瞠る。少年は心配そうに彼女を見ていたが──自分を見て驚いた顔をする主人に気がつき、慌てて「大丈夫です」と首を横に振る。
「これはその……多分すぐに戻りますから! それより、大丈夫ですか? もう苦しくはないですか?」
「う、うん……」
小さくなってしまったテオティルに戸惑いながらも。エリノアは、彼やヴォルフガングの手を借りながら立ち上がった。テオティルの異変も気にはなったが、今は、マリーの報せの真偽を確かめること以外にはとても頭がまわらなかった。エリノアは、地面に降りていたマリーを震える声で呼ぶ。
「マ、マリーちゃん……ブレア様は……ほ、本当に……っ」
そこでエリノアは言葉をつかえさせた。その先は恐ろしくてとても言葉に出せなかった。すると代わりにヴォルフガングが子猫に詳しい話をしろと促す。小さな子猫の頭はしょんぼりと頷いて。
「ブレアがやられたのは──……」
と、子猫の顔が王宮の方向を向いた、その時。
問いに答えるマリーの顔に、皆が注目した瞬間に、彼女たちから離れた場所でガッと何かが地面を蹴る音がした。あっと思った時には、エリノアの目の前で白刃が煌めいていた。──が、その光は間髪入れず聖剣の細い片手が払い除ける。
「──おやめなさい。お前に勝ち目はありませんよ」
テオティルの言葉に舌打ちをしたのは──コーラだった。
曲剣を手に、地面の上で体勢を整え直した娘は、鼻を鳴らしてエリノアの前に立つ少年を嘲笑った。
「は! その有様でよくそんな虚勢が張れるわね」
コーラの視線は、テオティルの頭から爪先までをジロジロと眺める。縮んでしまった聖剣の化身が、愉快で堪らないらしい。
「もうやめろコーラ!」
「はぁ? 何言ってるのヴォルフガング。こんなチャンス逃すわけないでしょ。……知ってるわよ……聖剣の強さも、勇者の力も、すべては勇者の精神に左右される。……感じるわ……その勇者の力、今、すっごく弱ってる」
「!」
指さされてエリノアが動揺を見せる。
「テオ、わ、私……」
「いいえ」
困惑して己の手を見下ろすエリノアに、少年はにっこりと微笑む。
「大丈夫です主人様。主人様なら……きっとすぐに元に戻ります」
しかしコーラは、「……そうかしらねぇ……」と、目を細め、唇の端を持ち上げる。
「今ならアンタも折れるかもしれないわ。……あのブレアとかいう男……どうやら殺しておいてよかったみたいね」
「っ」
コーラの残酷な言葉にエリノアが息を吞む。一気に強張った娘の真っ青な顔に、コーラは更に追い討ちをかける。
「私たちの炎は触れると瘴気に蝕まれるの。ふふ、でも安心して? 直撃だったから一瞬で燃え尽きて骨すら残っていないはずよ。苦しむ暇はなかったでしょ」
ま、消し炭くらいなら残ってるかもねと笑う魔物娘に、ヴォルフガングが牙を剥いて怒鳴る。
「コーラ! 貴様やめろ!」
しかし遅かった。コーラの口から出たブレアの名に、エリノアは再び動揺する。
きっと生きていると信じたいのに、コーラの言葉は胸に深く突き刺さった。悲しさと怒りでどうにかなってしまいそうだ。そうエリノアが再び喘いだ瞬間──目の前の少年の背が、またひとまわり小さくなった……。
「⁉︎」
それを見たヴォルフガングがエリノアの腕を引く。
「おい! エリノアそれ以上惑わされるな! 力を失うぞ!」
魔将は慌てたようにエリノアの耳を塞いだが──その、彼の注意が逸れた一瞬の隙に、コーラが駆け出していた。
「!」
「女神の剣など! 砕け散ればいい!」
その瞬間、辺りにゴキゴキと気味の悪い音が鳴り響く。曲剣を握った娘の腕先だけが、異形のものへ変化していた。跳び上がった娘の黒く筋張った長く大きな手が、曲剣を振りかざし、テオティルに踊りかかる。
「⁉︎ っテオ!」
エリノアがハッとして叫ぶ。が、刃を振り下ろされながらも、テオティルは何故か冷たい目のまま。剣を避けるような素振りすら見せなかった。エリノアはその少年の顔に迫る残忍な刃に悲鳴をあげて──……
「はい、そこまでぇ‼︎」
「⁉︎」
「っ! ぎゃん!」
「え⁉︎ ⁉︎ っ!」
──コーラの剣がテオティルの顔を捉えるその直前。突然、場に上空から何かが凄まじい勢いで落ちてきた。その衝撃で地面が揺れて、辺りには爆風と共に砂煙が舞った。エリノアは顔面に迫ってきた砂の嵐に、咄嗟に顔を背けて目を閉じる。
「な……テ、テオ⁉︎」
ヴォルフガングの背中に庇われながらも、エリノアは砂埃の中にテオティルを探す。と、もうもうと立ち登る粉塵の中に、小さな背中。エリノアはホッとした。どうやら怪我はないようだ。
テオティルは、キョトンとした顔で、己の傍に落ちてきた何かを見下ろしている。彼の視線の先には……何か──鼠色のもっさりした物体が。
「⁉︎ な……何⁉︎」
まさか新手の敵なのかと。エリノアはテオティルの元へ駆け寄ろうとヴォルフガングの腕を抜け出す……が──
そこへ、間延びした声。
「おーう……けほっ、いやいやいや……まったく……細君とはどうしてかくも強いのだろうか……ほ、ほほ、まったく歯が立たぬ、やぁれやれ」
「ふんっ! 当たり前よ! あたくしを誰だと思っているの⁉︎」
高らかな女の声を聞いて、ハッとしたエリノアが顔を歪める。
「っ、コーネリアさん!」




