68 大杖のカレンとコーラ
「──ブラッド!」
「っいかん!」
声の限りに叫んだエリノアは。しかし次の瞬間、彼女を乗せたヴォルフガングの大跳躍によって、一瞬弟の姿を見失う。白い獣は強靭な四肢を使って思い切り地を蹴った。
「っ⁉︎」
ガッという硬い音ともに、身体にかかった圧に、たまらず魔将の背中につかまると──目の前を青黒い火球が二つ交差するように通り過ぎていった。顔をかすっていった熱さにエリノアの身がすくむ。──が、その瞳は弟の背中を離さなかった。
「ッブラッド!」
……と、そこへ残念そうな誰かの声。
「あーん、外しちゃった」
「ちょっとぉ、避けないでくれる裏切り者」
「⁉︎」
驚いて前方を見ると、いってしまうブラッドリーの手前に女が二人。
足元にまで届こうかという黒髪に、飾りの多い額冠。瓜二つの顔をこちらに向けて。一人はヴォルフガングを睨んでいた。大きな杖を持っていて、それがエリノアたちに向けられているところを見ると──先程の攻撃は彼女たちによるもののようだった。と、裏切り者と呼ばれたヴォルフガングが牙を剥いて唸る。
「いきなり何をする! お前たち、邪魔をする気か!」
「はぁ? 邪魔なのはアンタなんですけど」
「なんなのよ、女神の勇者なんか連れてきて……」
忌々しそうに睨みつけてくる娘たちに、エリノアは戸惑った。彼女たちに阻まれた向こう側では、ブラッドリーらしき影はクラウスを追っていってしまった。彼女たちはどうやらヴォルフガングの知り合いらしいが、それよりも今は弟が気がかりだった。
「ヴォ、ヴォルフ! ブラッドが……!」
「分かっている!」
エリノアを乗せた白犬はブラッドリーの後を追おうとする、と──その行く手を娘たちがふさぐ。
「「行かせないわよ……」」
「カレン! コーラ!」
大杖を交差させ進路をふさぐ娘たちに、ヴォルフガングがイライラと怒鳴った。が、娘たちは真っ赤な唇でニヤリと笑う。
「陛下は人間の血を得なきゃ」
「そうすれば、きっとこの世界とも決別して魔界に戻っておいでになる」
娘たちの言葉にエリノアがギョッとした。
「な、何を言って──」
まるで心臓を握られたような心地だった。──愛弟との別離。それはエリノアが最も恐れることの一つである。動揺するエリノアに、娘たちは畳みかけるように言う。その瞳にはどこか嫉妬の色がにじむ。
「あらだって、もともとあたしたちの王よ。早くお戻りいただかないと」
「そうそう。せっかく復活なさったんだものねぇ。女神には千年前のお返しをして、人間たちも滅ぼさなきゃ」
それが魔王っていうものでしょうと言う娘たちに、血の気の引いていたエリノアの顔がカッと熱くなった。
「違う! あの子は──私の弟よ!」
魔王ではあるかもしれない。誰かの主人であるのかもしれない。だけど、その前に、今、ブラッドリーは自分の弟である。それだけは、譲れなかった。
「あの子が本当に自分から望むんじゃなければ……私は絶対にあの子をどこにもやらない!」
強い瞳で双子を睨むと、すると対する娘らの目の色も変わる。表情が怒りに強ばり、二対の瞳は釣り上がった。あっと思った時には美しかった顔が黒ずみ、獣の顔となる。
「──違うわ、アンタは女神が作った枷でしょう!」
「小賢しい……女神の道具ごときが……こいつがいるから魔王様があたしたちのところに戻っておいでにならない……!」
忌々しげな言葉には殺気が混じっていた。牙を剥き、今にも飛びかかかってきそうな異形の娘たちの様子に、エリノアは恐れを感じたが──去っていった弟のことを思い出しそれをグッと堪える。弟が破壊していった王城内からは、今も遠く、近く、多くの悲鳴が聞こえていて。同僚たち、騎士たち、王族の人々それに。
(──ブレア様……!)
皆無事なのだろうかと考えると、焦燥感に胸が焼かれた。
エリノアは、今、自分が彼らの先頭に立ち、災いの最前線にいるのだと分かっていた。自分が弟と魔物たちを止めなければ、この国にはさらに甚大な被害が出るだろう。
(でも──こんな私が……止められる?)
隣国では聖剣を使うのにもあんなに苦労した。それでも止めなくてはならないのは分かっている。──けれども。苦く思い出されるのは、先程のブラッドリーの後ろ姿。
(ブラッド……私の声が届いていないみたいだった……)
こんなことは初めてだった。彼は、エリノアが呼ぶと、どんな時も必ず彼女の言葉に耳を傾けた。それは彼が魔王となる前も今も変わらない……はずだった。しかし……。
先程のブラッドリーは、エリノアの声を聞いて手を止めたものの、彼女のほうを振り返ることはなかった……。顔を見せもせず、何かに取り憑かれたようにクラウスの背だけを見て。去っていった弟の──心から愛しい己の弟の様子を目の当たりにして、この娘に動揺するなというほうが難しかった。
その不安にめざとく感づいたのが魔物の娘たち。エリノアの胸に浮かんだ負の感情を、揃いの顔でニヤリと笑う。
「そうよ、アンタの声なんか魔王様には届かないわ」
「アンタに魔王様を繋ぎ止める資格があるとでも? 女神の手先のくせに……もとよりアンタは魔王様の敵なのよ」
図々しいわねぇと鼻で笑い、娘たちはさらにエリノアの不安を煽ろうと囁きかける。そうだわと手を叩いたかと思うと、今度は猫撫で声でエリノアに説く。
「ねぇ、もしそれが嫌だと言うのなら……今すぐ女神の剣を折りなさいな」
「え……」
エリノアの瞳がギョッとした。娘たちは空を滑るような動きでエリノアたちの傍らにやってきて、驚く娘を両側から覗きこみ、耳元で囁いた。
「アンタにだったらできるはず。女神と決別するって言うんだったら、ここを通してあげてもいいわ。なんならアタシたちが魔王様のところに連れていってあげてもいい」
「そうねぇ……一応今生では魔王様の姉として生まれたんですものねぇ? 可愛い弟を失いたくはないわよね? 聖剣を放棄して、魔王様に忠誠を誓うんなら……味方だと認めてあげてもいいわ。ね、そうなさいよ」
歓迎するわと機嫌を取るような声。──だが──よく考えてねと言いながら……エリノアを覗きこんだ後ろで、双子たちの杖を持った片腕が、ゆっくりとその頭上に掲げられていく。エリノアの頭に狙いをつけた杖の先端には静かに青黒い炎が生まれ──双子がニヤリと口の端を持ち上げた──その時。
エリノアが跨っていたヴォルフガングが獣人態に姿を変えた。魔将は素早く娘たちの大杖を弾くと、エリノアを抱いて跳躍し、娘たちから距離を取る。炎は明後日の方向へ飛んでいき、娘たちが凶悪な顔で舌打ちを鳴らした。
「何するのヴォルフガング!」
「アンタ本当に裏切る気なの⁉︎」
獣の顔で威嚇してくる娘たちに。しかしヴォルフガングは動じない。
「貴様ら……この者に手出しをしてみろ。陛下はお許しにならぬぞ……!」
身体の芯に響くような、力強い一喝だった。その声に、一瞬不安に駆られていたエリノアもハッとした。
(──いけない、しっかりしなきゃ!)
惑わされてはならないとエリノア。不安に立ち止まってもいられない。自分がやらねば誰がブラッドリーを止められるというのだ。リードの為だとはいえ……ここでもしブラッドリーがクラウスの命を奪うようなことがあればリードはどうなるだろう。それをあとで彼が知ってしまったら、どんなに苦しむか分からない。
(そうよ、メイナードさんも助けなきゃ……!)
エリノアは、心の中でヴォルフガングに感謝しながら、娘たちに向き直った。
だが娘たちはヴォルフガングの叱責にも聞く耳を持たない。肩をすくめてせせら笑う。
「はぁ、何よ、すっかり飼い慣らされて本物の犬みたい」
「同じ犬なら陛下の犬であればいいものを……勇者の犬に成り下がるなんて!」
「ま、大丈夫よコーラ。陛下が人間の血を得れば、きっと魔王の性が強まって今生の情は薄まるわ。勇者なんてそれから始末すればいいだけのこと。魔王様の庇護がなければこんなやつ、弱そうだもの」
簡単よと姉妹を宥める娘の、聞き捨てならない言葉にエリノアが再び顔色を変える。
「⁉︎ それは……どういうこと⁉︎」
問うと、カレンと呼ばれたほうの娘が、エリノアを横目で見てニヤリと笑う。
「ふふ、あの方は悠久の時を魔王として生きておいでなのよ? その膨大な記憶の前に、人として生きた今生の記憶など……大海に落とされた一滴のようなもの。一瞬にも満たない、すぐに消えてしまうでしょうよ」
「!」
愕然とするエリノアの顔を笑いながら、娘は続ける。
「陛下は今、人に対する怒りに燃えてどんどん憎しみの力を増しておいでだし……この国、今いい感じに悪意と恐怖に満ちていて、これなら陛下はますます有利よ」
人間の負の感情は魔王の力を強くする、と娘。片割れも同意する。
「ホントね、永すぎてうんざりしたけれど……千年、人間界侵攻に間を置いてよかったみたい。魔王様の脅威を忘れた人間どもは、祈ることもおざなりにしてるのね。すっかり女神に対する信仰心も低下させてる……ホント、現金なものよ。これなら……この王国はすぐにでも滅ぼせるわ」
「……!」
クスクスと軽く笑い合う二人に──エリノアは、沸々とした怒りを感じていた。
ここに、どれだけの人が生活していると思っているのだ。──自分たち姉弟のように、慎ましく日々を懸命に暮らし、祈る暇もない人々だって、きっと大勢いるはずで──そんな人々の暮らしを守ろうと、宮廷で誠実に働く人だっているのに。
(……ブレア様……)
金の髪の主人の顔を思い出したエリノアは、娘たちを睨んだ。何が簡単なのだと喉の奥から声を絞り出す。
「……そんなこと……させない!」
「っ! おい!」
エリノアはヴォルフガングの腕から飛び出すと、娘たちを突破しようと駆け出した。それを見てヴォルフガングは慌て、双子は笑った。
──やれやれ、小物が……。
そういう笑い方だった……。
向かってくるエリノアに、娘たちや冷ややかに、余裕の表情で杖を向ける。が──……
エリノアの緑色の瞳は──それを冴え冴えと見た。
「──テオ!」
『──ええ』
「「⁉︎」」
名を呼ぶと応じる声があって。エリノアの手の中に降り注ぐ光のように燦然と現れた聖剣に、娘たちがギョッと杖を引いて後退った。
エリノアは、聖剣を手に宣言する。
「退いてくれないなら──斬る!」
その目には迷いはすでになく、炎が燃える。
──エリノアは、人を斬ったことはない。──当然だ。エリノアは侍女であって剣士ではない。
構え方だってきっと全然なっていない。それに体力だって、隣国で力を使い果たしたばかり。聖剣は羽のように軽く、そのおかげで持ち上げることはできているが……本当は、握力が戻っていないのか、手は小刻みに震えて、今にも地面に取り落としてしまいそうだった。
──だけど。
「っ!」
エリノアは、無茶苦茶な握り方でもがっちりと聖剣の柄を握る。ブラッドリーのもとへ辿り着くためならば。彼を止めるためならば。──取り戻すためならば!
その想いが決意を固くした。エリノアは娘たちを強く睨む。
「──女神様! 御加護を!」




