28 恐怖の黒豹
もし、彼が一番怒りを感じるとしたら。それは姉に何かがあった時──それ以外にはない。
この時の感情は……ブラッドリー自身も、戸惑いを感じるほどの強い怒りだった。
これまでは、様々な理不尽に対して、ブラッドリーはずっと我慢をして生きていた。
人よりも病弱な身体。寝台から離れることも外出する事もままならない自分。そしてそこに向けられる、他人からの理不尽な風あたり。
哀れんで手を貸してくれる者もいる。だが、現実には病原菌などと言われて忌避されることの方が多かった。
それでも彼はずっと我慢しなければならなかった。
どんな理不尽に晒されても、病弱な身では寝台の上でただ耐えるしか方法はない。
それにもし彼が己の人生を嘆けば、支え続けてくれている姉を悲しませるのだとブラッドリーにはよく分かっていた。
そんなことは出来ない。
姉のエリノアが、己のせいでずっと重圧を背負って来たことは、彼にもよく分かっていたから。
──家が没落する以前から、トワイン家の次期当主となるべきだったブラッドリーは、生来健康体であったことなど一度もなかった。
当時、彼を診ていた医師からも早々にそう長くは生きられないだろうと宣告されていて。
それゆえ伯爵は、家を存続させるためには、長女であるエリノアに爵位を継がせるしかないと考えていた。
この国では、親の爵位はまず男の長子に行くことが定められてはいるが、女子がそれを受け継ぐことも可とされている。
その為にと伯爵は、早い内からエリノアに厳しい教育を施し始める。読み書きから、領地経営や社交界での振舞い方まで。女である以上、淑女としての嗜みも欠かすことは出来なかった。
だが残念なことに、元々奔放な性格のエリノアは、座学の類いがとにかく苦手で。明らかに、それらはあまり彼女の肌のあうものではなかったのだが……
父がつれてきた教師達は、毎日息つく間もなく姉にそれを課す。それは彼女にとって苦痛の日々だったに違いない。
けれども当時は将軍の側近として働いていた父はとても忙しかった。
早くに母を亡くし、本来なら外で働いている父に代わり、家の中を取り仕切るはずの存在を欠いていたトワイン家では、ブラッドリー以外は誰も、幼いエリノアが受ける苦痛には気がつかなかった。
そして結局は──姉の抱える重圧に気がついたとしても、病床につくブラッドリーには姉を支える事はできなかった。日に日に姉が疲弊した様子を募らせていっても、姉のためにブラッドリーが出来る事は何もなかったのだ……
……それが……ずっとずっと、悔しかった。
でも、もう違うと、ブラッドリーは思った。
するとそうだと応じる声が聞こえる。
──もう我慢しなくてもいい。
──私はもう、ひ弱なブラッドリーではない。
──理不尽を打ち砕くことも、姉を守ることもできるはずだ。怒りを抑えることはない。
声に誘われるようにして、怒りはどんどん酷くなる。
「……私の姉に、お前は何をしたんだ……?」
自らの口から発せられた言葉を、ブラッドリーは、どこか自分の声ではないようだ、と思った。
視界がやけに赤暗くて、怒りは冴え冴えと感じるのに、何故か眠りに落ちていくように頭が鈍くなっていく。
自分の中にいる、自分と感覚を共にする誰かがひどく荒ぶっている。……ブラッドリーはどこか、置いてきぼりにされたように激しい怒りの中に包まれていた。
その誰かはブラッドリーと同じく強く姉を愛していたが、感情の苛烈さが彼とはまるで別物だった。
優しい世界そのものとして姉に親愛を向ける己とは違い……“誰か”は、世界を一面焼き払ってでも、そこに姉さえいればいいと言う極端で危うい情を抱えている。
──その危うさは今──怒りとなって、姉と共に突然表れた男、ブレアに向けられていた。
……このままでは駄目だ、そう思うのに。
その“誰か”の意思はひ弱な彼が太刀打ちするには強大過ぎて。
ブラッドリーは恐れた。このままでは、自分という存在は、この“誰か”の苛烈さに呑み込まれ、かき消されてしまうのでは、と。
ブラッドリーの視界は徐々に黒く闇色に塗りつぶされていく。──もう、姉の姿すらも、朧気にしか見えなくて。
──
──消える
──姉さん……
微かに口を動かした、その感触すらも遠く感じ──……
そこへ──斬り込むように声が届く。
「──ブラッド!!」
──まるで闇の底に、さっと光が差し込んだかのようだった。
その声に、ハッとして。闇が祓われたように、ブラッドリーの意識が明確になる。
すると──グレンに引き留めさせていたはずの姉の顔が目の前にあって。泣きそうな緑色の瞳が見えた。
姉は己の両頬を挟んで必死で自分に呼びかけていた。叫んだ拍子に涙が散って、ブラッドリーの痩せた頬に落ちた。
「……姉さん……」
「しっかりして、乱暴なことをしては駄目よ!」
「あ……」
気がつくと、空中にブレアが吊り上げられていた。苦悶に満ちたブレアの顔に驚くが、同時に、それを己がやったのだと言う確信もあった。
そう察した瞬間、ブレアが床の上に落ちる。
糸が切れたように床に転がったブレアが咳き込んでいるのを見て、エリノアは無事だったかと、ホッとしたように息を落とし……呆然と立ち尽くす弟の顔をもう一度覗き込んだ。
「ご、めんなさい姉さん……僕はまた……」
頭を抱えて俯いたブラッドリーの頭をエリノアはそっと撫でる。
「いいから今は落ち着いて……ブレア様はね、私にひどいことした訳じゃないわ……どちらかと言うと私がセクハラしちゃったと言うか……と、とにかく、落ち着いて。ね?」
「……」
きちんと説明するからと真剣な顔で言う姉に、ブラッドリーは無言で頷く。
「……ああ、ブレア様の様子も見てこないと……すみません、おじいさん。悪いんだけどブラッド見てて下さいね」
エリノアが誰かに話しかけて。それに「御意」と答える声があった。
「…………おじい……さん……?」
不思議に思ったブラッドリーが顔を上げる。と、姉が離れていくのと入れ替わりで、彼の傍にぬっと何かが現れた。
「陛、下……」
「お、前は……」
傍に迫って来た──その老人に、ブラッドリーは瞳を瞬かせる。
それは立っているのが不思議なほどに年老いた老人だった。頭には毛がなく、瞳は開いているのか閉じているのかも定かではない。杖を突いた手はぷるぷると震えていて、今にも倒れてしまいそうに弱々しい。裾の長い官服のようなものを着ていて、その様はまるで仙人か何かのようだった。
老人はぷるぷる震えながら頭を下げ、か細い声で言った。
「老将メイナード……御前に参上致しました……」
「爺……?」
と、ブラッドリーが呟きかけた時、ひぃいいっ!? と、高い叫び声が聞こえた。
「なな、何、なんで……」
わなわなと、部屋の隅に追い詰められているのは……
グレンだった。
その前に、ズドンと大きな何者かが仁王立ちしている。そのするどい碧眼は、爛々とそこで怯えている黒豹を見下ろしていた。
「……グレン……?」
「な、な、は……母上……」
グレンがびくびく耳を倒しながらそう答える。と、その碧眼の主はぎらりと目を細めて彼を睨む。
「そうですグレン。あたくしです。お前の愛しい愛しいママンです」
ズドンと大きなその──ふくよか過ぎる黒い女豹は、グレンを睨み下ろし頷いた。そのひたりと睨む瞳の冷たさに──先程までは飄々としていた黒豹が声を上擦らせてうろたえている。
「な、なんで? え、もしかして……怒ってるの?」
すると、女豹婦人は、なんで? と、ただでさえつり気味の瞳を吊り上げる。
「お前……先日こちらへの道が繋がった時、あたくしを押し退けてこちらに来ましたね?」
「っ!?」
女豹はぶるぶる怒りに震えながら己の頭を指差した。そこには何やら毛並みの乱れた様子が見て取れる。
「見て御覧なさい、ここを。これはね、お前が踏んで行った足型です。あんまり腹が立ったので、毛づくろいせずにそのままにしておきました。お前に見せてやろうと思って」
「え…………えっとぉ……気のせいじゃない……? わ、私が母上を踏むなんて、そんな、あるわけないよぉ」
グレンがそう言うと、女豹婦人は目を細めて息子を睨む。
「あら……? ママンが言っていることが間違いだって言うの? ママンがもう齢二千を超えたからってボケたとでも思っているの?」
「や、そ、そんなことは……」
母のド迫力に段々とグレンの言葉が小さくなっていくが、母は追及をやめない。
「お前は……あたくしが、このあたくしが、どれだけ陛下との再会を楽しみにしていたか分かっていたでしょう? それなのに……それなのにお前と来たら、あろう事か、このあたくしを踏みつけ、押し退けてこちらに来た。この、あたくしを、です」
「……だ、だって……凄く陛下にお会いしたくて……」
しかし途端に女豹婦人はそれを「お黙り!」と切り捨てた。その轟く声にグレンの身体が飛び上がる。
「復活した陛下のご尊顔を初めに見るという喜びを、お前はこのママンから奪ったのですよ! 万死に値します!」
「っひ!?」
──と、母の形相にグレンが縮み上がった時、ポツリと声がかかる。
「……コーネリア」
──その途端の婦人の豹変ぶりには目を見張るものがあった。
女豹はその巨体に似合わぬ身軽さで身を返すと、声の主、ブラッドリーの傍に飛んでいく。冷酷そうに見えた瞳からは棘が抜け、溢れんばかりの熱愛に輝ききっていた……
それをブレアの傍で目撃したエリノアが目を丸くしている。
「我が君! そうですあたくしです! 陛下の乳母、忠実なる僕、コーネリアグレース、並み居る屈強な将どもを退けて、今陛下のお傍に参りましたよ!!」
「……久しぶり」
ブラッドリーがそう言った瞬間、女豹はゴロニャンと目尻を下げ、彼を豊満な腕の中に閉じ込める。
「ああ、可愛い陛下! うちのお調子者の息子がきっと粗相をしたでしょう? キツくキツく締め上げておきますからね!」
「……」
部屋の隅でグレンがずしんと項垂れている。その傍では老将が「ふぇ、ふぇ馬鹿じゃのう」と、ぷるぷるしながら笑っている。
──そんな魔物たちの様子を見て、エリノアは。なんだか微妙そうな顔をしていた。
「……なんか凄いのが増えてしまった……」
……ド迫力である。
奇天烈な話で…すみません(‐∀‐;;
ローランド坊ちゃんといい、私は太った獣様が好きなんだろうか…好きなんだろうな…




