63 蛮行の魔将と
駆け出そうとするエリノアを、婦人が追いかけるように呼び止めた。
「エリノア様、それとお耳に入れるべきことが……!」
「え?」
「陛下が魔界から呼び寄せた魔物たちのことです。あの者らはとにかく陛下に従うはず。今はまだクラウスを探しているようですが……止めなければいずれ、暴虐の限りを尽くしますわ」
「っ!」
青ざめるエリノアに、婦人は「ただ」と続ける。
「その中に……どうやらあたくしどもの身内がおるようです」
「ご身内……? コーネリアさんの……?」
戸惑ったように見返すと、婦人が「はい」と頷く。
「あの者たちを味方につけられれば……状況は一気に変わります。説得はあたくしが。自宅は離れても大丈夫なはず」
婦人は、間違っても魔王の側近メイナードに襲いかかるような者は、魔王の配下にはいないと断言した。が、そこでエリノアがハッと心配そうな顔をする。──そういえばマリーたち姉妹の姿が見えないことに気がついた。
「……あの……お子さんたちは⁉︎」
「娘たちは──出払っているのです」
すっかり落ち着いた顔のコーネリアグレースは、マリーたち三姉妹は現在婦人の指示で、それぞれエリノアの義姉ルーシー、リードの両親、それにブレアを守りに行ったと答えた。それを聞いて、エリノアが顔を歪める。
「っあ、ありがとうございますコーネリアさん……ありがとうっ」
皆、エリノアにとってはかけがえのない存在である。婦人の配慮は涙が出るほど嬉しかった。エリノアは彼女の手をぎゅっと握って。しかし婦人は申し訳なさそうな顔をする。
「ええ……でも娘たちの力がどこまで通用するか……。それに、グレンはダメですわ……あの子は陛下が真実命じれば、あたくしの命令など聞きません。もとよりあの子は陛下には“魔王”としての振る舞いを望んでいた」
──ただ、それも少し変わりはじめていたように思えたのだけれど、と……婦人は密かにため息をつく。
エリノアは、つい先程まで自分が抱いていた黒猫の姿を思い出していた。
「グレン……」
後悔が胸に押し寄せる。こんなことになるのなら、あの時もっとしっかり抱き止めておくべきだった。いや、止めても無駄だったかもしれないが……。悲しげにその名をつぶやくエリノアの隣で、しかし婦人は潔い。それが自分の息子のことであるにも関わらず、あるいは息子だからこそなのか……。きっぱり気を取り直した婦人は、腕を掲げ、どこからともなく愛用の金棒を取り出した。エプロン姿の肩に、ズンッと力強く担いだ金棒の、勇ましきこと……。
「ま、ご心配なく。あの子にどこかで出くわしたら、あたくしがきっちりぶん殴って止めておきます。それより……」
婦人は、エリノアの後ろについてくるヴォルフガングに少し顔を傾けて尋ねる。「あなたはどうするの?」と。
問われた魔将はギクリと眉間のシワを深めた。触れられたくないところに触れられた、もしくは、明らかにしたくなかったというふうに。魔将はコーネリアグレースを睨むが、婦人はその顔をふんと撥ね付けるように鼻を鳴らす。
「あら大事なことよ。ここで頼れる者をはっきりさせておかなくては、いざとなった時、忠犬根性丸出しのあなたに陛下愛しで裏切られては大変だもの」
「……⁉︎」
「あなたみたいな男が一番使いづらいのよねぇ……どっち付かずでフラフラするくらいなら言って? 今すぐ邪魔できないようにここでトドメを刺すから」
言って、鼻先に金棒を突きつけてくる婦人にヴォルフガングは怯み──ついといったふうにエリノアを見てしまい──しまったという顔をした。
だが、その顔を見上げるエリノアの顔は、静かだった。
「いいのコーネリアさん……ヴォルフも……いいのよ。ここからはあの子の姉として、私が」
「っ、お、おい!」
口元だけで笑って。大丈夫という言うように頷き、エリノアはそのまま駆け出して行った。去り際に見せた決意の眼差しが、ヴォルフガングの胸を突く。
「──テオ! 行こう!」
呼ばれた聖剣は微笑み、ふっと空気に溶けるように姿を消した。
『……並走いたします』
声だけが、風を切るように走るエリノアの耳元についてくる。
その遠ざかる背を見て──時々、ふらつきを堪えるような足の踏ん張りを見て──。
「……ええぃっ!」
悔しそうに呻きながら魔将は獣の姿に変化した。白犬が逞しい四肢で思い切り地面を蹴ると、その身はあっという間にエリノアに追いついて──
「っぅひ⁉︎」
突然、後ろから股下に何かが突進してきて。スカートごと足をすくい上げられるように持ち上げられたエリノアが目を白黒させる。身体が傾いて慌てたエリノアは、現れた何かに無我夢中で掴まった。と──……気がつくと、エリノアはヴォルフガングの背中に跨っていた。
「ぇ……、……ちょ、あの……いくらなんでもあんまりなのでは…………」
こんな時ではあるが……乙女の股下にいきなり頭を突っ込んでくるという蛮行に、つい苦情が出るが──そんな娘にヴォルフガングは振り返って「黙れ」と唸る。
「貴様のとろさにいちいち付き合う気はないぞ! しっかり掴まっていろ!」
「…………」
吠えるような言葉を叩きつけられたが……エリノアは、その意図を感じ取り、嬉しくて。礼を言う代わりに獣の背中をそっと撫でる。次の瞬間、猛進するヴォルフガングの周りに魔法陣が現れた。
「渡るぞ! 振り落とされるな!」
忠告に、エリノアはぎゅっとその背を掴む。転送術の陣をくぐりながら──目を閉じたエリノアの胸中に、弟の顔が思い浮かぶ。怒り、嘆き苦しむ緑色の瞳の少年の姿に、エリノアは胸が痛む。だが、グッと奥歯を噛んだ。これより先はもう、弟をこの腕に連れ戻すまでは絶対に泣くもんかと固く誓って。エリノアは前を向く。
「……待ってて、ブラッド……すぐに行くから!」




