62 分かち合う
嘘ですと悲鳴が上がった。
「だって……あの子がリードの命を危険に晒すなんてこと、するわけが……」
そんなこと考えられないことだった。ブラッドリーがリードをどれだけ大切に思っていることか。それを一番知っているのはエリノアだ。魔王となってから、確かに弟は時折残酷な面を覗かせるようになった。それでも。リードを見上げる弟の瞳は以前と同じまま。一見暗く見える瞳の中に、純粋な憧れをキラキラと輝かせていた。
しかし狼狽するエリノアに婦人は言うのだ。「ええ。ですからことは深刻なのです」と。
残念ながらとコーネリアグレース。
「おそらく……陛下はもういつもの陛下ではないのです」
「ど──どういうことですか……?」
エリノアの額に汗が滲む。それなのに緊張した指先はとても冷え切っていた。
婦人はそんなエリノアの顔をじっと見て、淡々とした口調で言った。
「……それを説明するためには、まず、メイナードたちのことからお話ししておいたほうがよさそうですね……」
途端エリノアがどうしてと言うように、悲壮な顔をした。早くブラッドリーのことが知りたかった。弟が心配心配で。今彼がどんな状態に陥っているのをすぐにでも聞きたいのに。が……
どうやらそれは、エリノアもすべてを知っておくべきというコーネリアグレースなりの配慮のようで。婦人はエリノアを落ち着かせようとするように、言葉を慎重に選びながら、感情を抑えた口調で語る。
──内容はこうだった。
メイナードという魔王の側近は、そもそもは王の力を注がれて育った大木の化身であること。それは本当に果てしないような時間──ブラッドリーがブラッドリーとなる前、更にダスディン王となる以前から。魔王が女神との争いに備え、ずっとその身に魔力を蓄えさせていたということ。
婦人は、ゆえにエリノアは、絶対に彼を癒そうとしてはならないと言った。彼は魔王の魔力そのものと言っても過言ではなく、エリノアの聖なる力とは真逆の存在。エリノアの力は彼にとっては癒しとはなりえず、むしろ弱った彼にとっては毒となりうると。
また、彼の中にいるリードについても、今は干渉しないほうが賢明と説明される。人間であるリードの傷はエリノアにも癒すことは可能だが……現在進行中のメイナードの術に、エリノアが真逆の力で干渉するのはとても危険であるということ。
まだ力の扱いに慣れぬエリノアがうまく癒しを施せるのかが確実でないならば、ここはこのままメイナードに任せ、エリノアにはブラッドリーを止めに向かってもらいたいと婦人は言った。これには同意する声が。
「私もそれがいいと思います」
「テオ!」
外に出てきたテオティルは、エリノアの隣に並ぶと王宮のほうへ顔を向け、何かを感じ取ろうとするように目を閉じる。
「……魔王の怒りが激しい。おまけにまた新たに配下の魔物を呼び出した様子。王都に被害を出さぬためにも早く止めたほうがいいかと」
「⁉︎」
新たな魔物と聞いてエリノアが驚いた顔をする。コーネリアグレースも苦い顔をした。
「陛下は……怒りに駆られるがあまり、その後ろで起こっていることにお気づきでない。もしくは……怒りに吞みこまれて……もう……我を忘れておいでなのかと……」
無理もないことですと苦しそうに続ける婦人の青い瞳が鋭利に光り、その中に張り詰めた怒りを見て、エリノアが戸惑う。
「コーネリアさん……?」
「……エリノア様、よく聞いてください」
硬い声にエリノアが緊張を高める。婦人はエリノアの前に回りこむと、彼女の両手を強く握る。その顔は、エリノアがはじめて見るような苦しげな顔つきで……婦人は忌々しげに吐き出すように、言った。
「……リードちゃんを傷つけた者……それは──過去にあなた方のお父上を死に至らしめた者と同一なのです」
「……、……な……」
その告白を聞いた瞬間、エリノアは、婦人の青い瞳を呆然と見入った。
ここまでも──ここにくるまで散々驚愕させられてきたエリノアではあったが……その報せには、心にとどめを刺される思いだった。声が掠れて、知らぬ間に涙が頬に落ちていた。
「……い、ま……な、なんて、おっしゃいました……?」
こわばった顔がひきつって、まるで笑うような表情になってしまった。いや、実際「そんな馬鹿な」と思うことが多すぎて。
自分の腕にすがりながら、歪な顔で見上げてくる娘に、婦人は苦い顔で。その口から──今件が起こってしまった理由が語られる。
リードを襲った賊は第三王子クラウスの手の者であるらしいこと。その者たちは、直前に起きた王都の火災にも関わっていること。その火災はブラッドリーが鎮火させたこと。
そしてと、婦人は吐き捨てるように言う。そのすべてがおそらく、この国の王位継承権をめぐる第三王子クラウスの、兄王子たちを陥れるための策謀だろうと。
謀に自分を利用しようとやってきたのだろうと聞いた娘の顔には深い苦しみが生まれた。更に婦人が、リードがブラッドリーを救おうとして刺されたことと、その時弟が、彼女の姿であったことを告げると、その苦悩はより深くなる。エリノアは、歪む顔を両手で覆った。
「…………リード……っ」
「これだけのものを突きつけられて、お若く、力にあふれた陛下が黙っていられるわけがありません」
婦人の目は、真っ直ぐに瓦礫の向こうの王宮を睨んでいる。
「……本当ならば……このまま愚者らには報いを受けさせたいところです……あろうことか、陛下の大切にしているものに手を出したのですから……!」
婦人の瞳には怒りの炎が燃えている。
「……」
エリノアは、もう言葉もなかった。途方もなく悲しくて、悔しくて、苦しくて。
どうしてあの人々は、自分たちをそっとしておいてくれないのだろうか。王都の隅で、こんなにも、地道に、懸命に生きているというのに。エリノアは胸が苦しくなって天を仰いだ。まるで自分の人生から、少しずつ大切なものを削り取られて行くようだ。胸の奥に、言いようのない憤りが湧く。天を仰いでいるはずなのに、目の前が真っ暗で、何も見えなかった。思わず、エリノアは奥歯を噛んで──
「⁉︎」
──だが、その瞬間のことだった。エリノアの瞳が憎しみに染まろうとした時。彼女のすぐ横で唐突に何かが噴き上がる。ギョッとしたエリノアがその名を呼ぶ。
「っコーネリアさん⁉︎」
突然傍で黒い火柱を燃え上がらせたのは、コーネリアグレースだった。婦人は黒い毛並みを炎で揺らし、その中で荒い息を吐いている。炎の中には怪しい青い光が彼女の呼吸に合わせて煌めいていた。婦人の瞳は吊り上がり悪鬼の形相で、絞り出される声は呪詛のように轟いている。
「蟻にも等しい者が我らが王に喰らいつくとは! 払い除けられるのは当然のこと……滅ぼされたとて文句は言えぬ!」
「!」
瞬間ドスンッと周囲の空気が重くなった。婦人の炎は収まらず、こうこうと燃え盛り続けている。今にも第三王子がいるであろう王宮に飛んでいってしまいそうな婦人の様子に……エリノアは驚きながらも──察した。
──それはそうだ。冷静に見えても、やはり彼女も怒っているのだ。とてもとても。ブラッドリーを溺愛する彼女なら無理もない。それなのに──彼女も、ここまで耐えてくれていたのだ。きっと……ブラッドリーのためだけではなく、エリノアやリードのためにも。
それが分かったエリノアの眉がへにゃりと歪む。どうしてだか、身体がふっと怒りのこわばりから解放されていた。
「……コーネリアさぁん……」
エリノアは泣きそうになりながら手を伸ばした。炎を背に恐ろしい顔で怒る婦人の顔に臆することもなく手を伸ばし、耳の傍にそっと触れる。と、その部分だけ、炎が慌てて逃げるように消えて。それを見て、エリノアが泣き笑いのように破顔した。それでも婦人の怒りは収まらぬのか、身体はあちこちが隆起し毛皮の下で何かが蠢くようにゴキゴキと不気味な音が鳴っている。
──だが……怖くはなかった。
それどころか一緒になって怒ってくれることがありがたくて。それが、自分の怒りを少し引き受けてくれているような気がしたのだ。
ふと、振り返ると、背後にはテオティルと、そしてヴォルフガングが腕組みをしてこちらを見ている。彼らを見ると、絶望感に心許なかった足元に、ふっと足場ができたようなそんな心地になって。また少し、気持ちがいくらか楽になった。
エリノアは、婦人に手を添えたまま、顔を、上げた。
視線の先には、いくつもの瓦礫の向こうに王宮が。そこに、クラウスたちと、それを狙うブラッドリー、そして……ブレアもきっといるはずである。
──深呼吸を一つ。
「……ブラッドを、止めなくちゃ……」
憎しみや、絶望感に囚われている場合ではない。
はっきりとつぶやくと、隣で婦人の背から炎が消えた。周りの空気も元に戻り、婦人は激昂を押し殺すような荒い息を吐きながら、エリノアに応じる。
「──ええ。蟻野郎は許せませんが……陛下の幸せのためには……どうやらその蟻らを守らねばならぬようです……。あの方みずからに、ご自身の幸せを壊させるわけには……いかぬのですから」
「……はい」
エリノアは、まだ頬に残っていた涙を手で擦るようにぬぐう。
──あんな人たちのために、足を鈍らせてたまるか。私のすべては──大切な人たちのためにあるんだから。




