61 老将とリード
不思議な物体は、少しずつ少しずつ弱っていっているように見えた。
萎れゆく葉を見たエリノアは、どうしてだか胸が突かれるように悲しくて。つい物体に向けて手を伸ばそうと腕を持ち上げる──……が。
それを後ろから止める者があった。驚いて振り返ると、後ろでヴォルフガングが苦い顔をしてエリノアの腕をつかんでいる。
「……今はこの方に触れぬほうがいい。気持ちは分かるが……双方の為にならん。お前には癒せぬ人だ」
「え……?」
不安そうな娘の顔がどういう意味だと魔将を見上げる。だが、魔将はそれには答えずコーネリアグレースへ視線を送った。
「……おい……あれは──……メイナード殿、だな……? しかし……なぜここまで弱っておられる?」
何があったと説明を求めるヴォルフガングの傍でエリノアが目を見開いた。
「メ、イナード、さ、ん……? これが……?」
思わずまさかとつぶやくが……ヴォルフガングはそうだと言うように、わずかに視線を下げた。
エリノアは戸惑った。どう見ても、それは人のようにも魔物のようにも見えないが……ヴォルフガングの口振りからすると、その植物の絡んだ大岩のような物体そのものが、メイナード本人であるということのようだった。
と、コーネリアグレースも険しい顔で頷く。
「そう……そうなのですエリノア様。これは守りの態勢に入ったメイナード──と、」
言いかけて、コーネリアグレースはそこで一旦言葉を切った。不安げに、エリノアを見る目には逡巡が滲み、しかし黙っているわけにはいかないのだと観念するように。婦人はため息混じりに言葉の続きを告白した。
「……それと…………リードちゃん、なのです」
「……、……、……え?」
エリノアは、一瞬コーネリアグレースが何を言っているのかが分からなかった。
この場に、その名が出てきたことがよほど思いがけなかったのか……戸惑い、立ち尽くしていた。メイナードであるという物体へ視線を移し、それからもう一度婦人を見て。途方に暮れた顔をする。待ってくださいとエリノア。
「いや……聖剣が人の形になったりするんだから、魔物のメイナードさんの正体が摩訶不思議なものもおかしくはないっていうか……でも……リード……? え? メイナードさんが守りの態勢って……リードがあの中にいるってことですか⁉︎」
確かに物体は大きく、もし中が空洞であるとすれば、人が一人くらいなら中に横たわれるだろう。でも、何故と、不安そうな顔をするエリノアに。婦人は落ち着いて聞いてくださいねと重い口調で念を押す。ただ、そう言う彼女自身のその言葉の端々にも拭いきれない焦りが滲んでいた。いつもはっきりとものを言う婦人の、どう伝えればと迷うような口振りには……エリノアは、自分の足もとに次第に冷たい風が忍びよってきているような、そんな薄寒い不安を感じた。
「……コーネリアさん……?」
エリノアは婦人の傍に歩みより、その顔を見上げた。目が合うと、婦人がやっと重い口を開く。
「実は……先ほどリードちゃんが……賊に襲われました」
「ぞ……」
と、漏らしたエリノアの言葉は途中で消え、顔色がサッと変わる。エリノアは絶句して。それから喘ぐように「なんで……」とつぶやいた。
コーネリアグレースの様子から、リードに起こった出来事がけして楽観できない事態だと察したのだろう。断罪直前の罪人のように怯えた眼差しを向けてくる娘に、婦人は憐れみを覚えたが……。つらくとも、隠すことはできない。その深刻さを彼女には分かってもらわなければならなかった。
今、彼女の協力を取り付けられなければ、コーネリアグレースたちにはもはや、この姉とただ共にありたいという王のささやかな願いを守る術がなくなってしまう。
しかし──と婦人は不安に思う。それを目の当たりにして、彼女の弟は我を忘れるほどに怒り狂った。果たして……姉のほうはどう受け止めるのだろうか……。
婦人は急く気持ちを抑えながら、その緑玉の瞳をじっと探るように覗き、慎重な口ぶりでことの次第を語りはじめる……。
「……リードちゃんは……賊に鋭利な刃物で深傷を負わされ、刺されどころもとても悪かったのです。出血が多く……それは……ほぼ……即死状態であったと言っても間違いではありません」
「⁉︎」
その瞬間。聞いていた娘の身体が針金のようにつっぱった。見る見る顔面からは血の気が失われて、大きく目を見開いたまま強ばった表情は、凍りついたように動かなくなる。
エリノアは、まずはそんなバカなと思って。けれども身体はわなわなと震え出していて。
この時エリノアの身を支配していたのは、父が死んだ時に感じたのと同じ絶望感だった。悲しみが蘇ってきて、目の前が真っ暗になった。父亡きあとずっと姉弟を支えてくれた彼は、もはや彼女たちにとっては肉親の父と同じくらいに大事な存在である。その彼が何故……と、思うと……エリノアは胸を突くような悲しさと、激しい憤りに襲われて──……
しかし、その怒りに鋭い声が差し込まれる。
「待って! エリノア様待って! まだ──話には続きがあります!」
「ぇ……?」
悲憤の泥に沈もうとするエリノアを引き留めるような叫びに、緑の瞳がハッとする。気がつくと、己の手に婦人の、柔らかな毛で覆われた温かな手が重ねられていた。その手は、割れそうに震えながらも、固く握りしめられた彼女の手を強く包みこんでいた。婦人は呆然とした娘を真っ直ぐに見る。
「リードちゃんはまだ大丈夫です……! まだ!」
正気に戻れと言うように、強い眼差しで見つめられたエリノアの瞳が戸惑いに揺れる。
「……だっ、て……即死って……」
掠れるように言うと、更にグッと強く手を握られた。婦人は早口で言う。
「ええ、確かにそう申しました。実際彼は一度死にかけたと思います。でも、駆けつけたメイナードがその場でリードちゃんの時を止めたのです!」
「…………へ……?」
「お忘れですか? メイナードは一時であれば時間を止める魔術を使えます」
エリノアが、あっという顔をする。婦人は彼女の手を握ったまま、横目で物体を見て続けた。
「あの者は、死の危機に瀕したリードちゃんの時を止め、現在あの中で治療中なのです。魂の分離が行われる前にメイナードが彼の肉体を修復できれば、リードちゃんはきっと死は免れるはず」
婦人の言葉にエリノアの瞳からぽろりと涙がこぼれた。と、同時に娘の全身からふっと力が抜けて、よろめいた身体をヴォルフガングとテオティルが慌てて支える。二人に両脇から支えられたエリノアは、縋るような目を婦人に向けた。
「……助かる……リードは、助かる……ん、です、よね……?」
「……」
示された希望をはっきりと肯定して欲しくて。……だが、婦人は頷かなかった。その沈黙に、エリノアの顔に再び怯えが浮かぶ。と、婦人が重く言った。
「……その為には、メイナードがリードちゃんを救おうとするのを邪魔する者を止めなければなりません……」
「邪魔、する者……?」
エリノアに眉間にシワが寄る。
誰がそんなひどいことをと言いたげな娘に、婦人は一瞬黙りこみ。それからエリノアを手招く。
「エリノア様、ちょっとこちらへ……」
「?」
コーネリアグレースはそのまま玄関のほうへ行ってしまった。彼女に呼ばれたエリノアは戸惑った。先程感じた嫌な予感が、まだ、続いている。これからさらに過酷なことを婦人から知らされそうで怖かった。しかし、と、エリノアは物体に目をやった。物体は未だ萎れ続けている。おそらくそれは、彼らを救うための“何か”。そんな気がした。
エリノアは、支えてくれていた二人に礼を言い自分の足で立つと、腹にグッと力をこめて急いで婦人を追った。疲労したエリノアの足はその短い距離を歩くだけでもふらついたが、そんなことに構っている余裕はなかった。
婦人は玄関の木戸の前に立っていた。かしこまった様子でエリノアを待ち、彼女がやって来たのを見ると、口を開く。
「……先程の物体……メイナードですが、力が抜け出て行っているのがお分かりになりましたか?」
神妙な口調で問われ、エリノアはすぐに答える。
「葉が萎れて……それに煙のようなものが天井に向かって流れていました。もしかして……あれが“邪魔する者”の、仕業なんですか……?」
真っ直ぐに婦人を見てそう言うと、思いのほかしっかりした受け答えに安堵したのか、婦人がホッとしたような顔で頷く。
「左様です。先程説明しましたように、メイナードはリードちゃんの時を止めて治療を行っています。しかし、そのメイナードの魔力を奪おうとする者がいるためにメイナードは弱っている。もし、メイナードが治療を終える前に力尽きるようなことがあれば、リードちゃんはおろか、メイナードも共に死ぬやも……」
婦人の沈んだ口調にエリノアがぐっと奥歯を噛んだ。物体の葉が縮むように消滅していくさまを見て、そんな気はしていた。コーネリアグレースは「そうならぬ為には」と、硬い表情で重く続ける。
「エリノア様に、その者を止めていただかなければならないのです……」
その言葉にエリノアは跳びつくように返す。なぜ私が、なんてことは思いもしなかった。
「分かりました、私にできることならなんでもやります!」
隣国で消耗した身体はまだ頼りないが、他でもないリードやメイナードを生かす為である。
(何がなんでもやらなくちゃ……)
焦るように決意すると緊張で手が震えた。しかし──ふと、疑問が浮かぶ。
「あれ……で、も……?」
ふと、いったい自分は誰を止めればいいのだろうと疑問に思う。“邪魔をする者”とは、いったい誰のことなのだろうか。
一瞬、昔父の死に関わり、今回、密かに王太子を謀ったクラウスらの顔が思い浮かぶが……彼らは魔物たちの存在を知らぬはず。それに人である彼らに魔物の力を奪おうとするなんてことができるとは思えない。となると……
「え? コーネリアさん……私は……いったい誰を止めればいいんですか……?」
嫌な予感がして尋ねると。再び婦人は無言になって。それから彼女は、固く閉じた玄関扉のドアノブに、そっと手を添えた。
「……エリノア様に止めていただきたいのは……あの方……」
悲しむような婦人の顔に、エリノアが怪訝そうな顔をする。
(あの、“方”?)
敬うような言葉には違和感を覚えた。が、エリノアはとにかくコーネリアグレースの言葉を待った。魔物のことはエリノアには何も分からない。力を奪われているというメイナードに、自分が何をしてやればいいのかを知るために、彼女は婦人の導きを待って──
コーネリアグレースが押し開ける扉の先をじっと見つめていたエリノアは……そこにゆっくりと明らかになっていく外部の様子に、息を吞む……。
「──え…………?」
トワイン家のその扉の向こうは、小さな広場になっていて、周りには民家が数軒立っている。──はずが……
あるはずの民家が二軒ほど消えている。その代わりにあったのは瓦礫の山。
更にその奥の家も、そのまた向こうの建物も崩れているようで。いつもなら、エリノアの家の玄関からはいくつもの建物に阻まれ、見えるはずのない遠い王宮が、真っ直ぐそこから見えるようになっていた。
まるで……何かとてつもなく大きなものが、そこを破壊して通って行ったように、町が、家々が壊されている。
「……な──にこれ……」
暗い空に立ち登る煙を見て、遠くに聞こえる幾重もの悲鳴を聞いて、呆然と、家の外によろよろと数歩出たエリノア。の、その背に婦人が告げる。
「この王都を破壊し、今まさにメイナードから力を取り戻そうとしているのは、他でもない……」
ため息に途切れた言葉に、エリノアが振り返る。婦人の顔に浮かぶ苦悩を見て、動悸が早くなった。まさかという思いに息を吞むエリノアを、真っ直ぐに見て、コーネリアグレースが言った。
「──……ブラッドリー陛下です……」
その静かな言葉に、エリノアの瞳は驚愕に見開かれた。




