59 曇天に輝く紫紺の輪
轟音を聞き、そこに駆けつけたブレアがまず目にしたのは、暗い空の下、もうもうと土煙を上げながら崩落して行く宮廷の屋根だった。
思わず唖然と目を瞠る。上層階の一角が崩れ落ちた建物からは、中にいたであろう人々が、次々と悲鳴を上げながら飛び出して来た。
「これは……いったい何があった⁉︎」
そこで呆然としていた衛兵にブレアが鋭く尋ねると。衛兵は、まだ彼自身も目撃したものが理解出来ぬという眼差しのまま、彼を見る。
「わ、分かりません……空から何かが降ってきて……それが宮廷の屋上に着地した瞬間建物が……崩壊、しました……」
「空から……?」
「あ、あれです……」
表情を険しくしたブレアに衛兵は指で示そうとする。が……彼もやっとことの重大さに気がつきはじめたのか、次第に指が小刻みに震えはじめていた。その震える指の示す方を睨むように見たブレアは。立ち登る土煙の中に蠢く大きな影を見つけた。
「あれは……」
ブレアの声に戸惑いが混じる。日頃、常に冷静であろうとする彼も、その奇妙なものを見て流石に咄嗟の判断に窮したようだった。しかしそれでも事態を見極めようとさらに目を凝らすと、彼の瞳にその全容が映る。
瓦礫の中に、大きな人影。
距離があり分かりづらいが、その上背はブレアたちよりも倍は大きいように見えた。全身が深い闇の色。遠目に見ると黒装束と黒いマントを纏っているようにも見える。……が、そうではなかった。よくよく見ると、その表面は全ての光を拒絶するように黒い。頭部らしき場所には爛々とした目のようなものがかろうじて見えるが……まさに影そのものが動き回っているかのようだった。
マントのように見えたものは、その肩口から足元にかけて絶えず流れ落ちている黒い煙のようなもの。風に流され上へ上へと舞い上がっていく土煙とは違い……重く垂れ落ちていくようなそれはまるで泥のようだった……。
彼らが唖然と見守る先で、不意に影が苛立ったように腕を振った。黒い拳は傍でかろうじて崩壊を免れていた壁に叩きつけられて。途端、その宮廷の壁は脆く砕け散る。辺りには大きな破壊音が轟き、衝撃で幾らかの瓦礫が建物の下へ落下する。
それを見ていた者たちは皆愕然とした。国の政治の中枢として、極めて頑丈に造られているはずの宮廷の一部が……彼らの誇りでもあるその由緒ある建築物が。あっけなく、一瞬にして破壊されたことに、集まった者たちは皆恐れを抱き慄いた。が、それはあまりにも現実離れした光景に思えて。皆、呆けたように、ただただ崩れ行く宮廷を見つめるほかなかった。
──と……その背に鋭い声が放られる。
「退避せよ!」
「!」
その声に、立ち尽くしていた人々の身体が跳ねる。ハッとして振り返ると、第二王子ブレアが彼らを見ていた。
「今すぐ非戦闘員は宮廷外へ避難を! 冷静に行動せよ!」
命じる王子の声は険しかった。が……表情はいつも通りだった。相変わらずの硬い無表情。普段なら、それを怖がる女官たちもいたが……この時ばかりはいつもと変わらぬ彼の調子に皆が救われた。動じぬブレアの様子を見て自分を取り戻した者たちは、怯えながらも彼の言う通り、努めて冷静に。助け合いながら避難を開始した。場に残った衛兵たちは、皆ブレアのもとに集まった。
そこへ、ソルが駆けつけてきた。
「ブレア様! こ、これはいったい何事で……⁉︎」
待避する文官や女官たちを神経質そうな顔でかき分けてやって来た書記官は、崩壊した塔を見上げて顔をこわばらせる。……どうやらブレアと同じ執務室にいたはずが、あまりに足が遅く今ごろ到着したらしいソル・バークレム。その腕をブレアが掴む。機敏さはないが、オリバーたちが国に帰還していない今、この場で彼以上に信頼できるものはいなかった。
「ソル、今すぐタガートに──」
「っ⁉︎ ブレア様!」
「っ⁉︎」
ブレアが伝令を命じようとした瞬間。ソルが彼の言葉を鋭い声で遮った。目の前でさっと青ざめた書記官の顔に、急ぎ後ろを振り返ると──ソルが見ている先、瓦礫と化した宮廷の上で、あの影が天に吠えつくように咆哮を上げた。
辺りには耳を突くような不快な声が響き渡り、空気が震え、地が揺れた。ブレアは耳を押さえて顔を顰め、ソルは呻いて地面に片膝をつく。彼らの周りに残った衛兵達も、皆苦しげに身を折り、傍で目を回して倒れこんだ兵をブレアが咄嗟に支える。
「だ──」
大丈夫かと、青白い顔で倒れた衛兵に声をかけようとした瞬間。彼らの頭上が一瞬まばゆく輝いた。
「⁉︎」
反射的に空を振り仰ぐと、そのブレアの顔が怪しい紫紺に照らされる。
「な、んだ……?」
ブレアの眉間に深いシワがよった。
上空に、いくつもの、不可解な光。
今や深夜かと見紛うほどに暗くなった空の上、星の代わりに浮かぶ怪しい輝き。唐突に現れたそれらを見ながら──ブレアはどこかで、まるで……咆哮に招かれたようだと思った。
光ははじめ、ごく小さな粒のような大きさだった。それが次第に大きくなり……輪のように広がって……。宮廷の上空に奇怪な輪がいくつも現れる。輪の中に覗く深い深い闇の色は、まるでそこだけ空を切り取って穴を開けたかのようだった。その一つを険しい顔で注視していたブレアは、次の瞬間思わず目を疑った。
──輪の中から、何かがこちらを見返している……。
ギョロリと動く一対の瑠璃色の目玉と目が合って。威圧的なその輝きに唖然としていると……
左上空から甲高い笑い声。目玉の輪とは別の輪の中から、何かが弾けるように飛び出した。
「⁉︎」
「な、なんですかあれは……⁉︎」
笑い声がブレアらの頭上を通り過ぎていく。目で追うと、小さい塊のようなものが四つ。連続して影に向かって一目散に飛んで行った。ブレアは咄嗟に片腕で支えたままの衛兵の腰元の剣を引き抜き、身構えた。と、同時に輪の中からは次々と何者かが飛び出して来る。
……大柄な獣、甲冑の大男、大蛇のようなもの。切長の目の同じ顔をした美しい娘が二人……
皆、空中で嬉々として身を翻しながら、あの影に向かって飛んで行く。
ソルがうわずった声で言った。
「な……なんですか……あの者たちは……」
とても人のようには見えませんと青い顔で漏らすソルが、まさか……と掠れる声を吞む。書記官の頭の中には、今はもう伝承の中にしか存在しないとされる忌むべきものたちのことが思い起こされる。瞳には恐れがよぎり……が、それを制止するようにブレアが言う。
「ソル、冷静に。我らは国民と国王陛下たちを守らねばならぬ」
硬い声で叱咤するように言うと、ソルの目がハッとした。ブレアにもあれが何かは分からなかったが……その解明よりも今急がれるのは、まず大切なものたちを守ること。宮廷に攻撃を加えられたからには友好的な存在ではないことだけは明らか。相手がなんであれ、それが敵であるのならばやることは変わらない。
ブレアは支えていた衛兵をそこにいた別の衛兵に預けると、ソルに短く指示を出す。
「陛下たちは近衛と宮外へ。タガートに報せ、非戦闘員の退避を急がせろ。私は……」
ブレアは手に握った衛兵の剣を硬く握りしめ、瓦礫と化した宮廷の上で吼える影を睨む。
「衛兵たちを率いてあれに対処する……!」
「………………あーあ……」
建物の縁で足をぶらぶらさせていた彼は、暗い空へ昇っていく土煙を見つめながらつぶやいた。
静かで冷淡な眼差しは階下の騒ぎへ戻り、その騒々しさにため息が溢れる。目を閉じれば懐かしい空気が辺りに感じられたが……嬉しくはなかった。
「……今度はちょっと違う展開になるのかと思ったんだけどな……」
言葉には小さな落胆があった。脳裏には、隣国領地へ置いてきた、口うるさくて、面倒くさくて仕方ない娘の顔が思い浮かぶ。
「……ふん、ザマーミロ……」
への字口からはいつものように憎まれ口が溢れたが、魔物はちっとも楽しそうではない。
あの者の傍であれば、乳兄弟である彼の王はいつも安らいだ表情をしていたというのに。結局は、こうして破壊の道を進むことになるのか。
「……ま、別にいいけどね。魔王ってそういうものだもんね。……ああだけど、このままじゃメイナード殿が枯れちゃうなぁ……」
どうやら怒りに我を忘れた王は昔の力を取り戻そうと、それを預けていた老将からどんどん力を奪い取っている。グレンの青い瞳には、空気中を渡っていく禍々しい力の帯が見えていた。むしり取るような、荒々しいこんな取り上げ方では……王の膝元で、永き時、彼の力を与えられ種から育てられた類まれな魔将も無事では済むまい。
だが、グレンは、肩をすくめて立ち上がる。
「まあ……あの人はもともとその為の存在か……」
転生を繰り返す王が、女神との争いに備えた魔力の預かり人。元よりその力は王のもの。それを王がどう扱おうとも自由である。
「……どうせ私たちは陛下に従うだけ」
それが魔王というものであり、彼の配下である自分たちの役目である。
そのまま彼らを呼ぶ王の声に応じて階下に飛び降りようとしたグレンは。……しかし一瞬、だけどと、足を止める。
少しだけ……その悠久のしがらみから外れたっていいなと思いはじめていたのだ。あの……幸せそうに寄り添い合う姉弟を見て。
王は、魔界にあった時よりも明らかに自分たちを見る目が穏やかになった。
たとえそれが憎き天界の仕向けたことであっても。そんな平穏さも、たまには。
「……姉上をからかうの、面白かったのにな……」
そんなふうにつぶやきながら──宮廷の上で荒れ狂う魔王を見つめながら──そこに集結していく同胞たちを見つめがら……グレンはふと少し首を傾ける。
「……憎むから戦いが始まるのかな……それとも戦い続けるから憎いのかな……?」
ちょっとだけそんなことを考えて、しかし。耳元にわんわんと響く王の声に再度呼ばれたグレンは、ま、いっかと、ふよんとしっぽを揺らした。
考えても仕方ない。王は復讐を望んでいる。彼の望みを叶えることが彼らの存在意義である。
「さて、行きますか」
グレンは今度こそ建物から飛び降りて、彼の王の呼び声に応じた。
お読みいただきありがとうございます。
ソルは……足遅いので人選どうかなとは思ったんですが…まあお使いくらいなら……




