58 魔将の耳に届く声
「あはは大丈夫大丈夫! 人間なんて能天気なんですから」
そう言って、グレンはケラケラ笑う。
「どうせあいつら理解できないことは、そのうち勝手に『女神様の御加護だ!』とか、『天の奇跡!』とか言ってそれらしい理由をつけてくれますよ、心配ありません」
と、その言葉を聞いて、聖剣は不思議そうな顔をする。
「? どうしてですか? それは真実です。だってエリノア様がお力を振るったおかげであの者達は無事再会したのですから……」
それは女神の慈愛とも言えると反論するテオティルに、グレンは思い切り舌を出した。
「うっさい聖剣! ふん、とにかく、人間は奇跡が好きですから。そうやってなんでも都合よく片付けてくれますって、ね?」
皮肉を混ぜたようなグレンの言葉に。エリノアはまだ涙も乾ききらぬ顔で困惑の表情を作った。
あのあと。すぐに目を覚ましたオリバー達と王太子との再会の様子を見て。涙脆いエリノアは、ついつい感涙に咽び泣いてしまったわけだが……
本当にあの乱暴な諸々で大丈夫だったのか。正直かなり後始末が不安である。
確かに人間には、グレンの言うように、自分たちでは計り知れない出来事を天の采配とすることが多々ある。だが……エリノアの印象では、オリバーはかなりそういった面では冷めている。現実主義者とでもいうのだろうか……ブレアの利にならぬことは、女神の力だろうと疑ってきそうな気さえする。あの騎士にそんな誤魔化しはきくのだろうかとエリノアは不安だった。自分がかなり隠し事をするというスキルにおいて、かなりチョロい部類だと分かっているゆえに。
しかし、そんなエリノアの不安を察してくれないのが彼ら魔物達である。白黒の魔物らは、けろりとして「一体何が問題なんだ」と口を揃える。
「要は、お前の関与が明るみに出ない形で、王太子と騎士を救出し、仲間の部隊と合流させればよかったのだろう?」
「そ、そうなんだけど……」
「もう姉上ったら心配性なんだからぁ! 誰も疑いやしませんって。そんなに心配なら後であのオリバーってやつの記憶だけメイナード殿にいじって貰えば大丈夫ですよ! 幸い今は王太子や仲間の負傷を見て、怒りで姉上のことは忘れているみたいですし……はい万事解決! そろそろ家に帰りましょうよぉ、もう疲れましたよぉ、ねぇー姉上ぇ」
「え」
木の上にいたグレンが急に目の前に舞い降りて、エリノアが驚いた顔をする。と、ヴォルフガングの肩にきれいに着地した黒猫は、ニンマリ笑い、驚くエリノアの頬に頭で圧をかけた。
「ぅ……ちょ……」
ぐりぐりぐいぐい遠慮なしで頭を擦り付けられエリノアが苦しそう(迷惑そう)な顔をする。
「ねぇ〜帰りましょうよぉ、ねぇねぇ姉上ったらぁ〜」
「や、やめ……っ」
猫撫で声で言いながら、ゴスゴスと頬に頭突いてくる黒猫。押し戻してもめげないしつこすぎる猛攻に、ついにエリノアが音を上げた。
「ぅ……わ、わかった! わかったから!」
「う?」
もう勘弁してと言うように、エリノアは黒猫を両脇からすくい上げて持ち上げた。やっと頭突きから解放されると、娘はがっくりと俯いて、はぁ、と、大きくため息をこぼした。グレンがキョトンとエリノアの顔を見上げる。ぶら下げられて、その辺にでも降ろされるのかと思えば……何故か娘の腕の中に収められたからだった。
「? 姉上?」
グレンが不思議そうに問う。すると彼女を背追っているヴォルフガングも、隣の木の枝に座っていたテオティルも、なんだなんだとエリノアを見つめる。
「エリノア様?」
「何を戯れているんだお前達は……」
三対の瞳がエリノアを見る。と、複雑そうな顔をしていた娘は、すんっと鼻を鳴らし、それから表情をスッと改めて彼らを見た。
「──ヴォルフガング、グレン、テオ。三人とも、今日は本当にありがとう」
頭を下げて礼を言うと、三名がそれぞれ虚を突かれたような顔をした。その少し間の抜けた表情にどこかでほっとしながら。エリノアは泣き過ぎて赤くなった目を細め、顔をくしゃりと歪めて笑いながら続ける。
やり方は乱暴だったが、それでも目的が達せられたのは、人智を超えた彼らの力あってこそ。
「女神様のお力を預かる勇者だとはいえ、私一人では……きっと何もできなかった。あなた達がいてくれたおかげで王太子様が無事にご帰還できるわ」
言いながら、エリノアは抱えていたグレンを嬉しそうに抱きすくめ、その艶やかな毛並みに優しく頬を寄せる。娘の幸せそうな感謝がよほど予想外だったのか。黒猫は彼にしては珍しく、少しどうしていいのか分からないという顔をした。
「本当に、ありがとう」
実感のこもった礼に。グレンも、ヴォルフガングも、戸惑ったような素振りを見せる。テオティルは、そんな彼らの様子を嬉しそうに眺めていた。
エリノアは、グレンを抱きしめながら、本当に嬉しくてたまらなかった。
まだ事を起こした者達に罪を問う作業が残っているが、少なくとも、実の兄が確かに生きているという確証は、必ずブレアの心労を軽くするに違いない。
(……本当に良かった……)
これできっと何もかもうまく行くに違いない──そう、思った。
──と。エリノアに幸せそうに抱きしめられていた黒猫は、しばしぽかんとエリノアの嬉しそうな顔を眺めていたが……ふと、そんな自分を、聖剣がにこやかに見ていることに気がついた。その瞬間ハッとしたグレンは、慌ててエリノアの腕の中で手足をバタつかせる。
「ちょ、や、やめてくださいよ! もう!」
「あ……ご、ごめん窮屈だった?」
自分の腕の中でもがく黒猫に、エリノアが腕の力を緩める。と、グレンは、申し訳なさそうな娘の顔に、気まずそうに鼻頭にシワを寄せて。口を尖らせてブツクサ言う。
「……そうじゃありませんけど……もう……あんたは本当に──……!」
……と──その時のことだった。
気恥ずかしげなグレンの前足が、間近にあるエリノアの頬を押した、その瞬間。
グレンの青い瞳が、唐突に一点を見てギョッと固まった。
「──っ」
「? グレン?」
不自然に言葉を切った黒猫にエリノアが怪訝そうな顔をする。覗きこむと、グレンの目はどこか遠くを見ている。まるで突然こことは別のところへ意識が引き寄せられたような……強ばった顔は驚きと戸惑いに満ちていた。
全身を硬くして、呼吸すら忘れたように動かなくなった黒猫に、エリノアも次第に不安に駆られていく。
「どうしたの? グレン⁉︎」
「ぐ……」
「……え?」
目を見開いたまま硬直したグレンを見ていたエリノアは、呻く声に気がついて顔を上げる。と、大きな肩越しに、自分を背負っている魔将が、背を折って苦悶の表情を浮かべているのが見えた。
「ヴォルフ⁉︎」
「こ、れは……」
苦しげなヴォルフガングの横顔を、エリノアが覗きこんだ……一瞬。エリノアの腕の中から、ふっと柔らかい感触が消える。グレンが──いなくなっていた。
「──え? グレン⁉︎」
エリノアは目を見開いた。
「ど、どうしたの、どこへ……いったい何事⁉︎」
戸惑って辺りを忙しなく見回していると、緊張した声でテオティルが彼女を呼ぶ。
「エリノア様こちらへ──」
「テオ?」
テオティルは、苦しむ魔将を見てエリノアを渡すように促すが、しかしヴォルフガングはそうはしなかった。魔将は、何かを耐えるような顔をしたまま、エリノアを支える腕に力をこめた。そのことに気がついたエリノアは不安そうにその顔を見る。
「ヴォルフ……あなた具合が悪いの? それなら私は大丈夫だから手を離していいのよ?」
消えたグレンのことも心配だったが、ヴォルフガングのこの苦しみようも放っては置けなかった。ヴォルフガングの背中はひどく強ばっている。申し出ても自分を離そうとしない魔将に困惑し、エリノアは、ひとまず彼の背中を撫でさする。すると魔将は、しばしそのまま背を震わせていたが──数回荒く呼吸をしたあとに、つぶやいた。
「──陛下が──……」
「……え……?」
「陛下が、我らを──いや、魔物を呼び寄せようとなさっている……」
どこか苦い顔で言ったヴォルフガングの言葉に、エリノアがぽかんとする。──意味が、分からなかった。
「ブラッドリーが……? あなた達を……? な、ぜ……」
言いながら、エリノアの顔には徐々に不安が滲んでいく。まだ何も分からない。だが、苦しそうなヴォルフガングや、先程のグレンの緊迫した様子を思い出すと……一言一言発するたびに、心臓が、冷たく冷えていくような気がした。
「ま、さか……あの子の身に、何か……」
青白い顔色で目を瞠った娘に、ヴォルフガングは重い声で、分からぬと返す。
「陛下の御身は力にあふれているようだ、が、どうやら──……ただ事ではない……陛下の激しい、強大な怒りを感じる……」
「い、怒り……?」
「…………」
動揺したように、何故とつぶやく娘の声を聞きながら、魔将は空を見上げた。夜が開けはじめていた天空が、いつの間にか暗く、分厚い雲に覆われている。ヴォルフガングの耳にはわんわんと響くような主君の叫びがきこえていた。怒り狂い、我を忘れたように叫ばれる呪わしい言葉の数々に、魔将は愕然とした。
「ヴォ、ヴォルフ、ブラッドは……」
魔将の様子から、事態がただ事ではないと悟ったらしいエリノアの顔は、すでに紙のように白い。震える声で問いかけてくる娘を、固い表情で見て、ヴォルフガングは、ためらいのあと、低い声で告げる。
「……、……、……陛下は我らに……」
ヴォルフガングの黒い瞳が、怯えを滲ませるエリノアの瞳を真っ直ぐに見た。
「人の世界を、蹂躙せよと命じている」
「…………は……?」
その言葉に──エリノアは、呆然と言葉を失った。




