55 ある種の奇跡
──少し時は巻き戻る。
その時、かの戦場はシンと静まりかえっていた。
騎士も兵士も、そして黒づくめでその城門を襲った賊──に扮したクライノートの戦士たちも。皆、戦闘中にも関わらず、誰もが戦う気力を消失させてその場に立ち尽くしていた。
彼らの傍には、視線を少し動かしさえすれば、互いの敵の姿が映る。まだ、戦闘は勝敗を決していない。戦うべきである。それぞれに、戦うべき理由や、義務や責任があるのだから。
……だというのに。
誰もが感じていた。何故か、不自然なほどに自分たちの心が穏やかだということを。
皆、戦闘に身を投じ、気持ちが高揚しきっていたはずなのに……どうしてだか、今はもう敵に向かう闘志が湧かない。止めどなく心からサラサラと流れ落ちていくのだ。
しかしそれは、戦う意思が萎えたというのとも、意気地が挫けたということともまた違った。心はとにかく平穏さで満たされていた。理性では戦わねばならぬと分かるのだが、感情がどうにものどかに傾いて、戦闘意欲がついてこない。彼らはただ呆然とその光景に見入っていた。
そんな中で──彼がその呪縛から早々に抜け出せたのは、単に──免疫があったからに他ならない。その──箱女──エリノアの、奇行に。
「…………」
いったいどうなってるんだとオリバーは信じられない思いでそこに立っていた。
プラテリア北城門前。仲間の騎士たちを救出する間、賊に扮し、敵の注意を引きつける任務にあたっていた彼は、その奇妙な光景に戸惑う。
周囲の敵も味方も、つい先ほどまでは命すら取り合おうという剣幕であったはずが──今は互いに向け合っていた剣を下ろし。まるで同胞同士のように肩を並べ、突然現れたその──『危険』な木箱を頭に被り、意味不明の踊り?を踊り狂う女に見入っている。
──その会話が──こちらだ。
「……なんだ、あれは?」
「さあ……」
「プラテリアの戦技か何かなのか? 随分奇怪だが……」
「戦技? あのような間抜けな奇行が我らのか? おいおいやめてくれ、はははは」
「⁉︎ ⁉︎」
仲間と敵兵のその会話を耳にして、オリバーが唖然としている。
しかし……そんな光景は、何もそこだけではないのだ。周囲を見回すとそこここで、味方と敵兵とが肩を並べ、呆れた表情で箱女を笑っている。敵地のど真ん中、敵味方が戦意を失いのんきにひとところを眺めている様子は、異様としか言いようがなかった……。
「ど、どうなってやがる……」
オリバーは意味が分からず狼狽えた。が、部隊長として味方の命を預かる身としては、このままここで呆然としているわけにもいかない。
生暖かい顔で女を見ている味方一人の腕を引き、半ば引きずるようにして後ろ向きに後退する。他の仲間たちにも、指で輪を作り後退の合図である指笛を鳴らしたが……しかし誰もこちらを見ない。敵も、彼が共に逃げようとする味方ですら。
「おいおいおい……嘘だろ……勘弁してくれよ……」
騎士は困惑しつつ、周囲が注目しているものを苦々しく見た。
女は、まだそこで奇行を繰り返している。
頭にはもちろんデンジャー木箱。城門前の橋の袂の石畳の上で、剣を天に掲げては……下ろして。地団駄を踏み、時々落ち込んだように呻き……再び剣を天に掲げる。その繰り返しだ。
箱の中に覆い隠され素顔が見えないだけに……そこここに焚かれた灯りに照らされる娘の姿は不気味そのものだった。彼女が着ている素朴なワンピースすら奇怪に映る始末。
だがしかし。もしそれだけならば、オリバーとてきっと彼女を放っておいただろう。どこにでも変わった人間はいるものだ。理解し難いが、今はそんなことに気を取られているべき時ではない。この城のどこかに囚われているだろう仲間を救い出し、王太子リステアードを探し、彼の弟君であるブレアの元に無事帰還させること。それこそが自分たちの使命だと──分かっているだろうに。そこでのんきに敵兵と談笑している仲間たちが分からずオリバーは困惑する。仲間たちはけして無責任な質ではない。仲間のことも、王子たちのことも大切に思っているはずだ。……だというのになぜ──と考えて。騎士はハッと女を見る。
この普通でない周りの雰囲気。
「ま、さか……呪いか何かの類……か……?」
そう考えると納得できる気がした。
こんな大事な任務中に、敵味方両者が同時に戦意を喪失するなど普通ではない。
はじめは戦士たちももう少し緊張感のある顔をしていたのだ。しかし、箱女の奇行が繰り返されるたびに、だんだん彼らの様子がおかしくなっていった。実はオリバー自身も、次第に己の中の戦意が削がれていることに気がついていた。なんてこったとオリバー。どんな術なのかは知らないが、敵地での任務中に戦意喪失など。それほど恐ろしいことはない。
「くそっ」
オリバーは掴んでいた味方の腕を離し、剣の柄を握りしめる。
味方のことを考えれば、あの奇怪な箱女をこのままにはしておけなかった。この不可思議な現象がここでの一時的なものならばいい。だが、この状態がもし永遠に続くものならばどうだろうか。敵兵と戦うことを忘れた者が戦士として生きていけるとも思えない。とにかくこのまま味方を訳の分からないものに晒しているわけにはいかないと、オリバーは女を止めるために走った。
相手は女だが、あのような立派な剣を手にしている以上、こちらも用心するには越したことがない。もしそれが本当に何かの術であるのならば、彼女は魔法使いである可能性もある。抵抗されればなんとしてでも取り押さえるつもりで、オリバーは女に声をかけた。
「おいアンタ!」
しかし箱女は集中しているのか、向かってくるオリバーに視線を向けることすらしなかった。オリバーが傍に来ても、肩をいからせたまま、ブルブル震える手で固く剣を握りしめている。(※心の中でのんきなテオとキレ気味に会話中)
オリバーはその様子に一瞬眉間にシワを寄せ。ひとまずその呪いめいた奇怪な動きをやめさせるべきだと考えた。握っていた剣を利き手ではないほうの手に持ち直し。空いた右手で箱女の手首を掴もうと、手を持ち上げて──……
と、その時だった。
女が箱の中で大きな声で「あ!」と、叫んだ。
「⁉︎」
突然の声に警戒してオリバーが手を引く。と──
「わ、分かった! こうだわ!」
「──え?」
その合点が入ったと明るい声を聞いて──オリバーが顔を怪訝に顰める。どこか──記憶にある声だった。
そのことに気がついたオリバーのダークブラウンの瞳がまるく見開かれる。
「え……? おい、お前まさか──」
唖然とした騎士は一瞬戸惑って。しかしそんなわけがないと。一拍の硬直ののち、慌てたように彼の手が女の木箱に伸びた。自分の感じた、その信じられない直感を確かめようとするように……オリバーは女の木箱を持ち上げ──……
その瞬間。
箱の女が頭を上げた。まるでこれが最後とでも言わんばかりに。どこかキレ気味に、右足をドンッと一歩前に出し、細い腕が渾身の力で剣を天に突き上げた。
と──……
「っ!」
突然剣が輝いた。
「な、」
先程の白雷と同じ輝きが再び周囲を埋め尽くして。オリバーは、唐突な眩さに、たまらず持ち上げかけていた女の木箱から手を放す。箱はどこかへ転げ落ちて、光の海に消えていった……。
……目が眩む直前。オリバーは見た。
彼に背を向けていた女が、どこかに落ちてしまった箱に驚いて。彼女が慌てたように頭を押さえた時──その両手の甲に……どこかで見た覚えのある印が輝いていたのを。
(あ、れは……)
しかし彼がそれがなんなのかを悟る前に。視界は完全に光に覆われてしまった。
女どころか、味方も敵も。足元の地面さえも見えない中で……ただ、光は暖かで。包まれていると、どうしようもなく瞼が重く──耐えきれなかった。
(や、めろ……こんなところで眠る、なん、て……に、んむ……が……ブ、レア……さ…………)
主人や仲間に申し訳ないと最後までもがいたが──勝てなかった。
そうして眠りの中に叩き落とされながら……オリバーは──
最後の時、朧げに……
光の中で黒髪の女が自分を振り返って──その緑色の瞳と視線があったような、気がした……。
お読みいただきありがとうございます。都合によりチェックは後ほど。
エリノアは……のちに結局最後は気合いだったと言ったとか……言わなかったとか……




