54 大切な青年
遠慮がちに“エリノア”の無事を確かめたあと。リードは本当に心からほっとしたという顔をした。
柔らかく微笑む目元は少し赤くなっていて、眉尻は八の字を描くように下がっていた。苦笑に隠すように細く深くこぼされるため息に──“エリノア”は──いや……“エリノアの姿をしたブラッドリー”は、笑みを張り付かせた顔の裏で、大ダメージを受けていた。
「お前たち二人が無事でよかった」
「…………っ……」
実感のこもった声でそう言われるたびに、何故かリードの隣を歩く“エリノア”が、無言で何かを堪え、わずかに腰を折る。──どうやら、とっても痛いらしい。胃が。
「…………(ぐ……)」
罪悪感由来の胃痛を密かに耐える少年の横で、何も知らないリードは心底安堵したような顔で微笑んでいる。
それを見ると、さすがにブラッドリーも心が痛むわけだ。彼が心配している姉の中身が、実は弟の方だなんて。リードが真心から自分たち姉弟を案じてくれているだけに……自分が姉のふりをして彼を騙し、安心させるなんて。なんだかとてもやってはいけないことのような気がした。彼がエリノアを本気で好きでいてくれただけに。──今、そのエリノアが、魔物を引き連れて、遠方で途方もない無茶をしているだけに!
(ぅっ……)
“エリノアなブラッドリー”はたまらず両手で顔を覆った。
「ごめんっ! 本当にごめんなさい! リードッ!」
「? 何が?」
叫ぶとリードがキョトンと彼を見る。
「どうしたんだよ?」
「ぅう……」
しかし、詳細を語ることのできない“エリノアなブラッドリー”が、今リードに言えるのは、謝罪の言葉だけだった。
リードはとても怪訝そうで。そんな彼の顔にはまだ黒い煤がついていて……。せめてそれを拭いてやりたいと思いもするのだが……姉の姿では、ためらいがあった。
姉とリードは、ブラッドリーが望む関係にはならなかった。しかしリードがエリノアを想っていたのは間違いがない。二人のそんな微妙な関係に、偽物である自分が無遠慮に何かの石を投じるわけにはいかない。
微妙だろうが、彼が望んだ通りの形ではなかろうが、それはエリノアとリードの二人が築いてきた大切な関係性である。リードはずっと一途にエリノアを想い続け、やっとのことでそれを打ち明けたのだろうし、姉も悩みながら答えを出したに違いない。──そこへきて──自分が無遠慮にも、エリノアの姿でリードに馴れ馴れしくして彼らを惑わせては気の毒ではないか。
そう考えると──以前の自分の行動が思い出されてなおのこと気が重くなった。以前はエリノアに化けさせたグレンをリードに差し向けたりもした。今考えると、とても幼稚な手である。
(……う、……僕はいったいどうしたら……)
もういっそ、すべての真実を話し、全面的に赦しを乞いたいくらいである。本当のことを話さねば、リードには何を謝られているのかすら分からないのだから。
(……それに……)
ブラッドリーは先程彼に言われた暖かい言葉を思い出す。
──ありがとう、ブラッド
不思議なことだが……リードは、王都の火災を密かに鎮めたブラッドリーの力を、なんとなく感じ取ったようだった。
それでも彼は、深くは追求せずにおいてくれて……。ただ、ブラッドリーは。本当は……理解して欲しいのだ。この懐の深い兄貴分に自分たちのことを。
しかしそこまで考えてブラッドリーはうつむく。
(……いや、だめだ。姉さんとの約束もあるし……そんなことしたらリードを混乱させる。余計に心配もさせるかもしれない……それに……)
ブラッドリーはエリノア姿のまま、ぎゅっと手を握りしめた。
いくら彼の懐が深くても、まさか己の弟分が、よりによって魔王だなんてことまでは思っていないはず。もしそうだと彼が知って、自分を見るこの目が恐怖に染まったら──そう考えるとやはり少年は二の足を踏む。
(……この大きな賭けに出るには、リードは……大切すぎる……)
失う可能性があるのなら、それが例え小さな可能性でも、怖いのである。
リードについて歩く娘の足取りは、とぼとぼと沈んでいる。表情も暗く、ふとそのことに気がついたリードが心配そうに彼女の顔を覗きこんだ。
「どうした? 大丈夫か? 顔色が……」
そう言って。リードは思わずなのか、“エリノア”の顔色をよく見ようと彼女の頬にかかった髪を指で避けて──そこでハッとして、彼は狼狽えるように手を引いた。
「あ、ごめんつい…………」
「…………」
なんとも申し訳なさそうに離れて行き、気まずそうに赤面して謝る兄貴分を見て……ブラッドリーは内心で呻く。
(──僕こそ──ごめん……僕でごめんねリード……)
なんの疑いもなく自分を姉だと思い、気をつかっているリードを見ると、本当に気まずくて、居た堪れなかった。あまりの申し訳なさに胸がえぐられる。
(……なぜ、こんなことに……)
頭の中は、リードに対する謝罪の言葉でいっぱいだ。彼にとっては、街の火災などよりも、こっちの方がよほど大問題なのである。
と、恥ずかしそうに目を泳がせていたリードが言った。
「さ、さて、じゃあ家に帰って、仕事の前にちょっと休むか。お前もブラッドのところに帰らなきゃな」
「あ、リ、リード……あ、あのね、後でブラッドリーが行くからね? いつも以上に仕事頑張るって言ってたからね⁉︎」
“エリノアなブラッドリー”は贖罪と決意をこめて、必死にそう言った。と、リードはキョトンと瞬く。
「? あいついつも、それ以上ないくらいすごく頑張ってるぞ?」
「……っ」
「品出しも丁寧で正確だし、品物の梱包も上達した。一生懸命でやる気もあるし……兄貴分としても鼻が高いんだ」
嬉しそうに返されて。少し驚いた“エリノアなブラッドリー”の足が、つい固定されたように立ち止まる。半分は、自分をちゃんと見ていてくれたことにとても胸を打たれたから。が──半分は──
(…………リ、リードの慈愛が……心苦しすぎる……)
ブラッドリーは、本当に途方に暮れた。愛情深く接されるたびに、胸と胃がキリキリ痛む。
どうすれば、このとてつもなく優しい青年に贖うことができるのだろうか。
あとはもう──魔王的権力で世界を貢ぐくらいしか思いつかないのだが……。
(──いや、それはさすがに……。それを喜ぶようなリードじゃないしな……)
ではどうしようと。娘姿の少年が、立ち止まって真剣に考えこんでいると……
その間に少し先に行ってしまったリードが振り返って。苦笑いを浮かべながら彼に「どうしたんだ?」と声をかけた。
「エリノア、帰ろう。ブラッドが待ってるぞ!」
呼ばれてハッとしたブラッドリーは慌てて姉の姿で走り出す。
最近姉に化けることが増えたせいで慣れてきたスカートを少し走りやすいようにつまんで。微笑みながら手招いてくれる青年のほうへ。名を呼び返すと、その彼がにっこりと笑って。その笑顔がやはり嬉しくて。ブラッドリーは、やれやれと自分を思う。まるで飼い主に懐いた子犬のようである。この自分が──と、思いつつ。リードが相手では仕方ないかという諦めも感じていた。自分のところに行こうと言ってくれる彼を、魔王としてのプライドを保つために、軽んじる気になどとてもなれない。
本当は、こんな彼には絶対に、自分が一番愛する姉と縁を結んで欲しかった。だが、そうでないのなら……人間界と魔界、そして天界でも。世界中をひっくり返してでも、彼を幸せにする何かを探し出さなければと、そう思った。
決意して、よしと拳を握ってから顔を上げた“エリノアなブラッドリー”は、青年を見上げる。
待っていてくれた兄貴分が彼を見て微笑む。
「エリ──」
と、青年の声が途中で切れた。自分を迎えた青年が、ふと何かに気を取られるような表情をして。空色の瞳が自分の背後を見て──突然強ばった。
「──え……?」
その瞬間、周囲にあった雑多な人の気配のうちの一つが、何故か自分に近づいてくるのを感じた。
覚えのない気配に、ブラッドリーは素早く身を翻し、その、リードが見ていたものを見た。
“エリノアなブラッドリー”の眉間がピクリと動く。
──男だった。
こちらに向かってくる、男、の右手には──短剣が握られていた。
(……なんだ……?)
ブラッドリーは怪訝に男を睨んだ。その乱入者は、顔を覆面で隠していたが──開いた隙間から、充血した目元だけが爛々と覗いていた。呼吸も荒く、どこか、追い詰められたような怯えが目の奥に見えた。
なんだこいつはとブラッドリーは目を細める。と、覆面の向こうから、くぐもった低い声が聞こえた。
「エリノア・トワイン……お前だけは!」
「…………」
死に物狂いという声を絞り、こちらへ向かって地を蹴った男に、ブラッドリーは冷めた目を向ける。
……誰だか知らないが……なんという滑稽さだと思った。運命に見放されているとしか思えない。
この自分に向かって、あろうことか姉の名を呼び捨てにして向かってくるなど。死にたいとしか思えなかった。
ああだけどとブラッドリー。リードの前だ、姉の姿で殺すわけにはいかないな、と、そう思い……なぁに、弾き飛ばしでもしてやれば終わりだと。何一つ、問題だとは思わなかった。羽虫でも始末するかの如く、愚かな人間に制裁を加えようと彼は腕を動かした。──時──
「エリノア!」
「!」
突然ぐんっと身が大きく後ろに引かれた。驚いて、引かれたほうへ目を向けると──流れていく景色の中に、悲痛な顔のリードが見えた。
……ブラッドリーは考え及んでいなかった。
……危機を危機とも感じぬ強さを持っていたことで。暴漢をアリがごときと捉えていたことで。その前に立つ“エリノア”を見た時、青年がどう行動してしまうだろうかということを──少年は。
「リ────」
彼が唖然としている間に、リードは渾身の力で“エリノア”に掴みかかった男から彼女の身体をもぎ取った。そしてそのまま自分より小さなその背を背後へ押しやって──……
……次の瞬間、ドスッという鈍い音が聞こえた。
「………………え……?」
思いがけず、突き飛ばされるように後ろに追いやられた“エリノア”は──地面に一度手をついて、それから呆然と振り返る。するとその目に飛びこんできたのは──……
「──え」
誰かの──……横たわる、姿……。
一瞬、頭が真っ白になっていた。息を吞んだきり、身体が硬直したように動かない。目撃したものが現実のものと、受け止めきれなかった。
「──リー……ド……?」
声が、掠れる。それが、どこか遠くに、聞こえて……。身体は、グラグラと、揺れていた。
地面に倒れていたのは──……彼の兄貴分だった。
と、低い声が吐き捨てられる。
「……邪魔を、するからだ……」
誰ともしれぬその男は、“彼女”の目の前で、ぐったりした青年の腹から一気に短剣を引き抜いた。血が飛んで。忌々しげに舌打ちをする。
赤く染まった短剣を手に、男はリードの身体の下に広がりゆく血溜まりを踏んで、“彼女”のほうへやってきた。
傷つけた青年のことなど振り返りもせずに、標的の前に立った男は、ゆっくりその頭を見下ろした。細い肩は小刻みに震えているのに、目は見開いたまま。動かない“エリノア”を上から見下ろして、笑う。
「手間をかけさせやがって……」
男にしてみれば、散々不可解なことに苦労させられた挙句の、やっとの成果だった。王族たちの無茶な命令に苦しめられ、成果が出ぬことに焦ったが、これでやっと解放される。──すでに精神的に追い詰められていた男は、その為の小さな犠牲など、もうどうでもよくなっていた。
短剣を持つのとは反対側の男の手が、娘の襟首を乱暴に掴む。
「さぁ、エリノア・トワイン大人しく来い。クラウス様がお待ちだ!」
忌々しげにそう言って。娘を無理やり引っ張り上げようとした、──瞬間のことだった。
蒼白の顔で呆然と青年を見ていた娘が──カクリと力が抜けたように首を後ろへ倒す。
「! おい何をやって──」
と、男が顔を顰めた瞬間。娘の瞳孔の開いた瞳が、ぎょろりと男を捉えた。その表情の異様さに一瞬男が怯む。──だが、遅かった。娘がぽっかり口を開けた……かと思うと。あたりには強烈な音波が広がった。嘆き叫ぶ悲鳴のような、攻撃的に、高く長く続く声は、王都の町へ反響し続け──その瞬間に、男の肉体は消し飛んでいた……。
──建物が崩れ落ちる音がする。
破壊の響きに耐えられなかったのか、周囲ではいくつもの家屋が音を立てて割れていた。
けれども。そんな音などブラッドリーの耳には届いていなかった。
乱入者を一瞬にして葬り去ったブラッドリーは、震えながら、フラフラと這うようにして、目の前でピクリとも動かない青年の元へと急いだ。もう術など保っていられなくて。姿は少年のものに戻っていた。
「リ……リー、ド……?」
恐ろしくて声が戦慄く。怯えるような顔で、青年の顔を覗きこむ。──と、ピッタリと閉じられた瞳が見える。傷口を見て、そこから止めどなく鮮血が流れ出てくるのを見て、ブラッドリーの顔が悲壮に歪む。リードの身体に飛びつくように傍らに膝を突き、震えながら懸命に傷口を押さえる。少年の口から──再び溢れかえるような悲しみと憤りのこめられた怒号が絞り出され、夜明けの王都を揺るがした。
魔王の咆哮に空気が震え、地が揺れた。どこからともなく暗雲が生まれ、天からの光を遮るように、空を覆い尽くす。
──王の声は、配下たちを召集している。
咽び泣くような憎しみの声に、まず応じたのはメイナードだった。
現れた老将は、君主の様子に気がつくと、絶句して。しかし──彼が鬼のような形相で傷口を押さえるリードを見ると、老将はおおよそのあらましを理解したらしい。王が命じる前に深々とこうべを垂れた。
「承りました……命に代えましても」
老将はそう固く誓い、そして頭を上げた。
──だがその時もうそこに、ブラッドリーはいなかった。そこには消えた王の憎しみに満ちた気配の残穢だけが残されている。
メイナードが苦悶の表情を浮かべた。
だが、足元で今にも生命の火を失いそうな青年のことを考えると、主君を追いかけるような余裕が彼にはなかった。この青年をこのまま失えば、事態はより最悪のものとなるだろう。
(……こうなってしまえば……あとはもう仲間達の個々の判断に委ねるしかあるまい……)
魔王の召集は、世界の果てまでも届く。──隣国にとて。
老将は、リードに向かって杖を振るう。




