51 黒い嵐に潜むもの
「──リード!」
「お……」
声に呼ばれた青年が振り返って。彼は自分めがけて走ってくる黒髪の少年を見ると、ホッとしたように表情を緩めた。手を持ち上げて、煤で汚れた顔を破顔させる。
「ブラッド! 大丈夫だったか?」
辿り着くよりも先に駆け寄られて。ブラッドリーは安堵するよりも先に、うっと身を引く。リードはやってきた少年を捕まえると、早速忙しなく弟分の身体の点検をはじめた。まず前面の全体を見て、側面にまわり、今度は反対側。
「え……ちょっ……リード……」
「いや、怪我してたら大変だろ? 大丈夫か? 煙とか吸わなかっただろうな? 気分は悪くないか?」
「ええ……」
矢継ぎ早に問われたブラッドリーはちょっと唖然としている。自分のほうがよっぽど煤だらけで疲れているだろうに……ご丁寧に背中側にまで回って少年の無事を確かめようとする彼に、ブラッドリーが呆れを滲ませた。
「(こういうとこホント姉さんとそっくりだよ……)も、もういいったら……ボロボロなのはリードのほうじゃないか……」
ブラッドリーが言う通り、少年の身なりは綺麗でほとんど乱れもない。どうやら気恥ずかしそうに言う彼の言葉がその通りだと納得すると、リードはやっと少し肩から力を抜いた。
「よかった……」
安堵した青年を見て、ブラッドリーのほうでも安堵して。しかし煤だらけのままの兄貴分の顔を見て慌てたブラッドリーは、ポケットからハンカチを取り出す。
「あ、リード、ほら早く顔拭いて! 火傷もしたんでしょう? 手当もしにいかなきゃ」
苦く笑う兄貴分にそれを差し出して──……しかし、リードは何故かそれを受け取ろうとはしなかった。
「?」
いつの間にか、持ち上がっていた青年の口の端が真一文字に戻っている。真剣に、じっと弟分の顔を見下ろしたまま何かを考えこむような空色の瞳に、ブラッドリーが不思議そうな顔をした。
「リード? どうしたの?」
しかし青年から返事はなく……そんな彼の黒い鼻の頭を見て痺れを切らした少年は、とうとう自分でリードの顔を拭きはじめた。──と、やっとリードが口を開く。
「……ありがとう」
「え? 何? どうしたの、これくらいで──」
ブラッドリーは怪訝そうに眉間を顰めながらリードの顔の煤をとり続ける。自分は散々念入りにブラッドリーの身体の点検などしておいて、自分は少し顔を拭われただけで礼とは。ついため息が出る。この青年は、本当に人が良すぎるなと思った少年魔王は、感じた呆れをそのまま顔に出した。
だが、そんな少年の表情を見て、リードがまた苦笑した。
「いや、そうじゃなくて」
「え?」
笑って否定するリードに、ブラッドリーが不思議そうな顔をする。と、リードは、「うーん」ともらしながら、少しもどかしげな顔で腕を組んだ。──彼の中でも、説明がつかないと思っていて。ただ、彼が感じたことをそのままに説明してやればいいということでもない気がして。
「……ただ、なんとなく……言っておきたいと思ったんだ……」
静かな声音でつぶやいて。少し瞳を伏せたリードは、複雑そうに笑い、ブラッドリーに視線を戻す。
──黒い暴風に吞まれた時。リードは過ぎ去っていく風の中に、ほんの一瞬だけ、かすかに香りのようなものを感じた。荒々しい風に紛れ隠れるような──慣れ親しんだ香りのような、気配のような。まさに今──目の前でぽかんとこちらを見上げている彼から感じる、自分を案じる気持ちと同様の。彼がずっと大切にしてきた少年の、気配。
「…………」
リードは口の端を持ち上げて、親愛なる弟分に微笑んだ。
「ありがとう、ブラッド」
説明がつかないし、他になんと言えばいいのか分からない。
けれども別に理由や根拠などの難しいことがなくても、何故だか自分はすでに確信してしまっていて。だから、では今、少年と自分の間に必要なものは何かといえば……それは、感謝だけだった。
「ありがとうな」
「……」
にっこりと向けられる愛情深い眼差しに、ブラッドリーは戸惑った。
リードは、すべてを理解しわけでも、知ったわけでもないはずなのに……まるで彼が火災を鎮めたことを分かっているかのようだった。それでも『なぜ?』『どうやって?』と、追求するでもなく、いつものようにすっきりと晴れやかに笑う青年に、ブラッドリーは驚き、ただただ目を瞠る。
──周囲では、女神を称える声が高らかに上がっている。その中で、けれども目の前の青年だけは、ブラッドリーを見ていた。
「……っ」
急につんと目頭が熱くなって、少年は思わず唇を噛んで横を向いた。
善行を施したいと思ったわけでもないから、はなから誰かの感謝など期待してもいなかった。ただリードが無事であればそれでよかった。それなのに、ブラッドリーの正体も力も、何も知らないリードが、自分のやったことを分かってくれたことが驚きであり、そして追及もせず、ただ、変わらぬ親愛を向けてくれることに言葉にならぬ喜びを感じた。
ブラッドリーは、少し俯いて。黒髪の影に自分の表情を隠しながら言う。
「えっと……その、そうだ、み、みんな無事だからね!」
「あ……」
「おじさんは教会前の火事場にいたし、おばさんは家に……あと姉さんは──」
──と。言ってしまった瞬間、ブラッドリーはハッとした。
動揺して、今は言わぬほうが、自分たちにとっては都合がよかったことをつい口走ってしまった。
案の定……彼がそう言った瞬間、リードの顔色が変わる。
「あ……そうだよ……エリノアは!? お前、合流できたのか!?」
エリノアはどこだと心配そうな顔で両腕を取られたブラッドリーは、心底やってしまったと思った。
姉は今、配下たちと共に隣国へ行っている。そもそも火災にはあっていないわけだが、それをリードに言うわけにはいかない。
「あ、え、えっと……えっと、姉さんはね、あの……あっちに……」
苦し紛れについ適当に指で示すと──リードは迷いなくそちらへ駆けようとする。
「行くぞブラッド! あ、走れるか? 背負うか?」
「い、いやいい……いい、けど、ちょ、待ってリード……!」
真剣な顔で一目散に走って行こうとする兄貴分にブラッドリーが慌てる。このままでは、エリノアが本当は王都にいないことがバレてしまうではないか。
(ぅ……まずい……どうしたら……)
リードを追いかけながら苦悩していると──脳裏にぴょこんっと小さなコーネリアグレースが現れる。
(!)
『ほほほ、もう方法は一つしかないのでは? 愛情深ぁいリードちゃんは、絶対に“エリノア様”を見ないことには納得しませんわよぉ〜♪ うふ♡』
想像上のコーネリアグレースはニマニマ笑いながら踊り狂う。ブラッドリーは顔を歪めた。
「ぐ……!」
現在彼の元には姉はおろか、配下も出払っていて皆不在。
──そう、彼以外は。
お読みいただきありがとうございます。
ちょっと時間がありませんので、チェックはまた後ほど。
ブクマやご感想、ご評価いただいた方に感謝いたします!




