50 運命の分かれ目
赤々とした炎は空を明るく照らしていた。茜色の火の粉は高く空に舞い、リードたち町民の懸命な抵抗を嘲笑うように、火はどんどん大きくなっていた。
未明に起きた王都の火災。同時多発的にさまざまなところで火の手が上がり、リードたちはひたすら炎にあらがっていた。
逃げ遅れた者を探しながら、やってきた騎士団や兵たちと協力し、少しでも炎が広がらぬよう消火に駆ける。
いくつかの火事場を回ったせいで全身汗と煤塗れ。あまりにも逃げ惑う町民が多すぎて、いつの間にか父親ともはぐれてしまった。しかしなお炎は勢いを増すばかり。リードは己の無力感と闘いながら、奥歯を噛んで自分を叱咤する。
(しっかりしろ! 今できる最善のことをすればいいんだ!)
父も探したかったが、今は町の消火を優先させた。父はまだまだ気力も十分な年頃だ。体力もあり、自分の身を守ることはできるはず。ここは自分たち家族にとっても思い出深い大切な町。今目の前で燃えているのは、リードの店の常連客の家だった。この辺りの町民たちは、そう簡単に家を立て直しできるほど余裕のある者たちばかりでないことをリードはよく承知していた。このまま炎に喰らわせてやるわけにはいかなかった。
「っ!」
民家の壁を這いあがろうとする炎に、手持ちの水を思い切り浴びせ──リードは一瞬空を見た。強風に煽られて、火の粉が方々に散っていくのが見えた。青年の煤だらけの顔が苦しげに歪む。
(せめて風が止んでくれたら──)
時に自然は無情で。今日に限って王都は風が強かった。このままでは、炎の勢いが増すばかりか……次々に新しい火元が生まれてしまう。
何か打つ手は無いのか──……
そう──彼がグッと拳を強く握りしめた時のことだった。
彼の背後で、突然悲鳴が上がる。
「!」
なんだあれはと叫ぶ声を耳にして。リードは弾かれたように声のほうへ視線を走らせる──と。周りにいた者たちが、驚愕した様子でどこか遠くを見つめている。目の前ではまだ民家が燃え盛っているというのに、彼らは炎から顔を背け、震える指を持ち上げて──。その示す方向を振り返ったリードは……目を見開いて言葉を失った。
「な、」
彼らが唖然と見つめる王都の景色の中を──何か巨大なものがこちらに向かってうねり寄せていた。
「け、むり……? 嵐……!?」
まだ薄暗い空を背に、黒々とした大きな煙のようなものが連なる山脈のように広がって、それがこちらに向けて雪崩れるように迫って来るのだ。分厚い煙の波は、すべてを巻き込むように猛烈な勢いで前転し、町を次々吞みこんでいく。その凄まじい光景を目の当たりにし──リードばかりでなく、町民も、ともに消火に当たっていた兵士たちまでもが足をすくませ立ち尽くした。
「な、んだ、あれ……」
とても現実の光景とは思えなかった。
あまりの事態に誰もがどうしていいのか分からないという困惑を見せた──が──……次の瞬間、どこかで悲鳴が上がる。それが人々をハッとさせ、途端、彼らは慌てて一斉に逃げ出した。皆、顔に恐怖を張りつかせている。が──その時黒煙の波はすでに彼らの目前にまで迫っていた。
リードも咄嗟に一歩後退ったが──どこかでもう手遅れだということも分かっていた。
見上げるほどに高く、分厚い正体不明の漆黒の嵐。その猛烈な勢いは、人が走った程度で逃れられるような速さでは、明らかに、ない。
それは夜明けに白む世界を、もう一度夜に引きずりこもうとするように。リードの視界もあっという間に暗闇に覆われてしまう。人も、建物も、炎も……何もかもがあっけなく煙に囚われて。王都は暗闇に包まれた。
「──く……!」
襲ってきた黒煙に吞みこまれたリードは、身の側面を凄まじい勢いで駆け抜けていく風圧に翻弄される。
(っなんだ、この嵐は……っ)
リードは、暴風の中不安に駆られた。火災に加えて嵐など……皆、無事なのだろうか。
町にいる客たち、両親、それにブラッドリーとエリノア……
(……エリノア……!)
咄嗟に、脳裏にその姿が思い浮かぶと焦燥感が倍増した。
ブラッドリーは、彼女は『先に避難した』と言っていたが、本当に大丈夫だったのだろうか。騒ぎが起きて以降、彼はまだエリノアの顔を見ていない。それだけに、不安は募る。
(ブラッドリーは……もうエリノアと合流できたのか……)
あの互いに想い合う姉弟が──こんな非常時にもし離れ離れだとしたら、どれだけ心を痛め合うのだろう。
「っ」
行かなくては。青年は暴風に行く手を阻まれながらも、なんとか前へ足を押し進めた。心に浮かぶ者たちの無事を確かめたい。その一念が心を占めていた。
しかしその時──……
リードはふっと、風の最中でハッとする。
(──え……?)
一瞬何かを感じ──しかし瞬く間に駆け抜けていくその感覚を追って、慌てて振り返ったリードは──
後ろを振り返った瞬間。周囲の闇がさっと晴れていくのを目撃した。
「──は……? ……ぁ、れ……?」
それは、本当に瞬きする間の出来事だった。
視界を埋めていた闇が消え、吹きつけていた風圧がぴたり止まり、身体が急に解放された。リードは唖然と瞳を見開く。あとに残ったのは、なんの変哲もない──町の光景。火災の跡が痛ましくはあるが……先程まで彼らを襲っていた黒煙の嵐など、どこにも見当たらなかった。
リードは思わずぽかんとする。──ところどころで頭を抱えうずくまっていた人々も同じような顔をしていた。
「……な──んだったんだ今のは……」
うわ言のように言ってから──彼らは困惑した顔を見合わせる。だが、何も分からなかった。仕方なしに彼らはひとまず立ち上がり、互いに大丈夫かと声を掛け合って──と、そこで多くの者がハッと何かに気がついた。
彼らは、自分たちがついさっきまで……不気味な黒い嵐に襲われる前、いったい何をしていたのかを思い出し、その異変に気がついた。
「あ……れ……?」
リードは呆然と町を見渡した。
立ち並んだ家々。炎に焼かれたその残骸と、さまざまなものが焼けた匂い。だが──
「…………おい……」
リードの隣で知らない顔の兵士がポツリとつぶやく。
「火は……どこへ……?」
兵士は困惑に揺らぐ瞳で彼を見る。──だが……リードにそれが答えられようはずもなかった。
──驚いたことに……
あれほどリードたち町民を苦しめていた炎が、嵐と共に消え去っていた。
それどころか、町の方々から上っていた煙も、もう視界のどこにも見つけられない。まるで──先程の黒い嵐が、炎も煙も、すべて町からさらって行ってくれたかのようで──思いがけない不思議な顛末に、辺りがしんと静まり返る。
──と、どこかで誰かが声を上げる。
奇跡だ! と。
第一声を上げた男は、これは女神様のご加護に違いないと興奮した様子で喜んでいる。するとそれを皮切りに、あちらこちらから歓声が上がった。天に向かって声高に感謝する声が次々に相次ぎ、町は歓喜に沸いた。
「…………」
そんな歓声をどこか遠くに聞きながら、リードは一人立ち尽くしていた。透き通った瞳を夜明けの空に向け、その唇がぽつりとつぶやく。
「…………女神、様……?」
「……ふん」
町の時計塔の上。レンガの上に座ったブラッドリーは、火の消えた町をじっと見下ろしていた。人間たちの歓声と安堵の声を、鬱陶しそうに聞きながら。面白くなさそうに鼻を鳴らし、遠くに見える女神神殿を鋭い瞳で睨みつけている。その肩で、彼よりもムッとしてまるく膨らんでいるのは、子猫のマリーだった。
「にんげん、おんしらず! めがみなんかたたえて……なんてやつら! まおうさまにカンシャしろ!」
「……どうでもいいよ、そんなこと」
彼が面白くないのは、人々が彼の代わりに女神を称えていることではなく……自身が人のために力を使わさせられたことだった。自分の選択とはいえ、リードたち以外の人間たちを助けるために自分が労働したのだと思うとうんざりした。ブラッドリーはもう一度鼻を鳴らし、問う。
「それで……賊は?」
問うと、地上を威嚇するようにプリプリしていたマリーが、ブラッドリーを見てニタリと笑う。牙を見せた笑みはとても残忍に見えた。
「いま、かーさまとマールたちが、いたぶってあそんでます」
「……ほどほどにして奴らの目的を聞き出すように伝えてこい。……僕はリードのところへ行ってくる」
「はぁーい」
ブラッドリーが命じると、マリーは少し残念そうに返事をしてポンッと跳び、素早く町へ消えていった。それを無言で見送ったブラッドリーも──直後、塔の上から身を躍らせた。ただの少年の顔を装って、市中に紛れ込む魔王は……人の賊など、コーネリアグレースたちに任せておけば十分。
──そう、思っていた。
当然だ。彼らは魔族で、彼は魔王なのだから。天の神とも渡り合おうという彼らが、非力な人間など。取るに足らない存在と考えても仕方がない。しかし……
この軽んじは、のちに彼らの未来を大きく変える。




