41 灯り
こんこんと深い闇の底に沈められているかのようだった。
時折苦痛を感じて意識が浮上すると、喉が焼けつくように痛いのだと気がついて。リステアードは思い出す。
自分が、二つ下の弟に謀られたのだということを。
(クラウス……)
それは失望というよりも、諦めの感情と言ったほうがよかった。昔から、クラウスとは見ているものが違うのだと、薄々分かっていた。
彼と自分とは、はっきりと進む道が分たれたのだ。
古から、頂点を欲するものたちは星の数ほどいて、多くの争いをこの世にもたらしてきた。それぞれに、それぞれの正義や理由があるのだから、ある意味それは仕方のないことなのだろう。
けれどと、リステアード。
祖国のことを思えば。このようなやり方で王座を手に入れようとするものに、彼が父から預かる、王太子という責任を、それを理解しないものに渡すわけにはいかない。クラウスが国を任せられるような男であれば、また話は違うが──対話もなく、暴力と権力で姑息に奪おうとする彼のやり方を、王太子として、リステアードは許すわけにはいかなかった。
(──帰らなければ)
しかし、そうは思うものの。何やら薬を嗅がされ続けたせいか、意識がひどく朦朧としていた。なんとか開いた瞳に映るものはそう多くはない。石の壁、格子の入った窓は小さく昼間でも室内は暗かった。反対側には重そうな鉄の扉。そして彼が横たわる寝台が一つきり。それだけだった。
ここには灯りの類も何もない。きっと……ずっと眠らされたままの今の彼には必要ないということなのだろう。
その灯りがここに持ち込まれるのは、兵の見回りの時だけだった。
どうやら敵は、定期的にリステアードの薬を継ぎ足しにきているらしい。
見回りの兵は、彼が目を覚ましているのに気がつくと、何かを染み込ませたらしい布で彼の鼻と口を覆った。するとリステアードは吸い込まれるように眠りに落ちてしまい、すぐに何も分からなくなる。──ずっとそれの繰り返し。
おそらくまたいずれ敵兵はここに現れて、再び彼の意識を封じていくのだろう。その前に、なんとか脱出できないだろうかとリステアード。だが、そうは思うものの、身体は重く、目を開け続けていることすらも億劫だった。
潰された喉は痛み、声を出し、助けを呼ぶことも難しい。──まあ、こんなところで声を上げたとしても、きっと周りにいるのは敵ばかりなのだろうが。
そう思うと、リステアードは、こんな状況にも関わらず思わず笑いたい心持ちになった。
万事休す。もはやこのまま手すら満足に動かせぬまま、クラウスに敗北してしまうのか。
けれども脳裏には、両親や弟、ハリエットたちの姿が思い浮かんだ。
きっと皆悲しんでいるだろうと思うと、申し訳なさに心が痛む。同時に諦めてはならないという想いが強くなるが……身体は心と分断されたように動かず。かろうじて、指先がかすかに持ち上がっただけだった。
(……重い……)
しかしリステアードは朦朧としながらも、諦めず指先を動かし続けた。
根気よく動かせば、この凍りついたような身体も、徐々に動くようになるかもしれない。リステアードは懸命に指先を持ち上げようと力をこめて──
──と、その時。
うっすらと開けた目の隙間に、暗闇の中、小さな明かりが近づいてくるのを感じた。
ああ、と、リステアードの心に絶望が広がる。
また見回りの兵が薬の継ぎ足しにやって来たのだ。このままでは彼は、再び強制的な眠りの中に落とされてしまう。
もしかしたら……そのまま命を取られ、もう二度と目覚めることはできないのかもしれない。そう思うと──リステアードの精神は、深い悲しみと虚しさに満たされた。
(申し訳ありません父上、母上。……すまないブレア、……ハリエット……)
石のように転がされたまま、何もできぬ自分が悔しくて。親しい人たちに別れの挨拶のような謝罪をする。
──と、やってきた見張りはいよいよ彼に近づいてきたようで。覗きこまれるような気配があった。
「──つらいですか?」
「──……」
その声を耳にして。リステアードは何を今更と呆れた。この状況を見て、いったいこの兵はどういうつもりでそれを聞くのだろうか。とはいえ、彼は動くことも返事を返すこともできない。ぼんやりと、この兵は自分をあざ笑うつもりなのだろうかと考えていると声が降ってくる。
「おや、そうではありませんよ」
心外そうな声だった。
「私が君に危害など、そんなわけがありません」
肩をすくめたような気配があった。声からはなぜか敵意が感じられず、そして驚くほどに緊張感がなかった。それに──相手はまるで、リステアードの心の中を読んだような言葉を発する。
怪訝に思って、リステアードは相手を見ようとしたが。やはり瞼は非常に重く、満足に開かない視界では、相手の顔を見ることはできなかった。
と、額にひんやりとした感触が降りてくる。
(──?)
リステアードはなんだろうと不思議に思った。いつもなら、見回りの兵たちは、横たわる彼には何も言わない。ただ機械的に、嗅ぐと思わずむせてしまいそうな、甘ったるい毒々しい香りのする布で、彼の鼻と口元を問答無用で押さえつける。が──
やってきた何者かは、王太子の額に触れたまま、こんなことを漏らす。
「可哀想に……気力体力共にひどく衰えていますね……」
憐れむような穏やかな声は、まるで肉親に向けられるもののように慈悲深い。
「もうすぐ助けが来ますからね。ここに、私たちの勇者がおいでなのですよ」
あ──でも、助けに遣わされる者は別の者ですからね? 間違っちゃいけません、と、言いながら。声の主はよしよしとリステアードの額をなでる。その場所がひどく暖かかった。
「──きっと、私たちの勇者が君たち兄弟が望む明るい未来を守ってくれる」
だから心配しないでと、声はまるで子供を宥めるように言う。
おかしなことに──その言葉を聞いていると、なぜだかリステアードはひどく安堵した。
どうしてなのかは分からない。だが、リステアードの耳には、その初めて聞くはずの声が、昔から知る親しき者の声のように感じられた。不思議な安堵感に、身の内から、緊張が流れ落ちるように消えて行くのを感じた──……
「──あ……」
リステアードは、ハッとして目を開ける。
唐突に、意識がはっきりとしていた。
一瞬状況が掴めず。彼は寝台のうえで呆然と天井を見回した。──そして気がつく。あれほど持ち上げるのがつらかった瞼が、今は軽く、何事もなかったかのように大きく開いていた。
「え……?」
そのことに気がついたリステアードは、驚き、寝台のうえに飛び起きた。
「あ──」
そして今度は別の異変に気がついて、青年は寝台の上で己の喉元に手を当てる。
──声が出る。
あれほど痛かった喉も、痛みの痕跡すらない。
「……何故……」
呆然とつぶいてから。そういえば傍に見回りの兵が来ていたことを思い出して、リステアードは慌てて周囲を見回した。
簡素な石造の部屋。しかし……そこには誰の姿もない。
リステアードは、唖然とする。
確かについさっきまで、傍で誰かが語りかけてくれていたはずなのだが……
「……夢……?」
ふと、リステアードは、声の主の言葉を思い出して、それを声に出してなぞってみる。
「……ここに……私たちの勇者……が……おられる?」
それはいったいどういう意味なのだろうか。声は、確かに勇者から助けが遣わされたというようなことを言っていた。
「──……女神の聖剣の、勇者……?」
彼は考えようと、顎に指をかけて──。
だが。その時そこへ、ドタドタと賑やかな音が聞こえてきた。それと共に、複数の叫び声。
「王太子殿下! 殿下待ってください!」
「殿下! 俺たちです! ブレア様配下の──!」
「ばっか! あんまり大声で言うと敵に見つかっちゃうだろ!」
静かにしろ! と、だみ声が怒っている。
その声に覚えのあったリステアードは驚いて目をまるくして、声のするほう──鉄の扉へ視線を向ける。
「あ、の声は……」
つぶやいて腰を浮かせた瞬間、入り口の扉が弾き飛ばされるように開いて。そこから見慣れた顔の騎士たちが数人雪崩れこんで来た。
「! 殿下!」
「や、やっと追いついた!」
「お、前たち……トマス・ケルル、ザック・ウィリアムズ、か……?」
男たち自身が持ちこんできた松明に照らされた顔を見てリステアードが唖然と問うと。目の前の騎士たちは、まるい瞳を王太子に向けて──瞬間、その瞳からダッと大量の涙を溢れさせたのだった。
「…………よかった」
無事、騎士たちと王太子が合流できたのを見て。王太子が捕らえられていた部屋の外で、エリノアがホッと息をついた。
視線の先では、寝台に座った王太子に向かって、騎士たちが縋るようにして泣いている。
咽び泣く騎士たちの姿に、エリノアは思わずもらい泣きしてしまって。それを見て、肩の上の小鳥がやれやれとため息をこぼす。
「おい、お前まで泣くな……」
「だ、だって……騎士様たちのお姿を見ると……」
眉尻を下げた娘は、鼻をすすりながら苦しそうな顔で騎士たちを見る。
彼女たちがたどり着いた時、王太子のいた部屋の中はとても暗かった。だが今は、乗りこんでいった騎士たちが、ここに来る途中廊下で手に入れた松明の炎が、室内を照らし、彼らの姿をくっきりと暗闇に浮かび上がらせている。
その──騎士たちの背中に──生々しい傷跡。
「──拷問の跡だな」
ヴォルフガングが冷静につぶやいたのを聞いて、エリノアがグッと何かを堪える。
鞭で激しく打たれたような赤い血の滲むミミズ腫れ。手足には縛られたような痕。肩にはひどい怪我をしている。そんな彼らが、殴られたような青黒い打撲痕の残る顔で、王太子にすがりつきおんおん泣いているのを見ると。エリノアは、とてもではないが涙を堪えることはできなかった。
──それにエリノアたちが気がついたのは、彼らが真っ暗な牢獄の中から出たあとのことだった。
ヴォルフガングの魔法で誘導され、鉄格子の向こうの王太子に気がついた騎士たち。
彼らは一瞬愕然として。あれほど動かなかったのが嘘のように──慌ててその場に立ち上がり、全員で牢の扉に体当たりを喰らわせた。事前に鍵を壊されていた扉は当然あっけなく開き、しかしそんな違和感になど気がつく余裕もなく。騎士たちはそのまま転がるように部屋を出て行った。
そうしてやっと牢から出て行った彼らを見たエリノアは。ホッとするよりも先に──息を吞んだ。
獄舎の灯りの下に晒された、騎士たちの身体の、あまりにひどい怪我──……
それを見たエリノアは、思わず咄嗟に物陰から飛び出して、彼らに駆け寄ろうとしたが──それは変化を解いたヴォルフガングが抱きすくめて止めた。
──気がつかなかった。牢獄の中があまりに暗かったせいで。
「──捕虜となるということは、まあ、ああいうことだな。……だが、おそらく肩や拳の傷は拷問でできたものではなく、奴ら自身が扉を破ろうとしてできたもののようだな……」
牢獄の扉が内側から歪んでいたとヴォルフガングに聞かされ──エリノアは奥歯を噛む。
──彼らは、のんきに歌っていただけではなかったのだ……。
痛めつけられながらも、牢獄を出ようと試みて。しかしそれが出来なかった。そのうえで、ああして歌っていたのだと知ると、エリノアは悲しくて。
「騎士様たちのご苦労も知らず……散々のんきだなんて思ってしまって、も、申し訳ない……っ」
悔やむように声を絞り出すと、ヴォルフガングが大きな手でエリノアの頬をにゅっとつまむ。
「そろそろ泣きやめ。……我らはまだ、奴らがここから脱出する露払いをしてやらねばならん」
城は落としたが、城下にも敵はいる。そろそろその連中も城の異変に気がつくだろうという魔将の言葉に、エリノアは頭を縦に振る。
「……うん、うん、分かってる」
エリノアは涙を拭いた。
「……あんなことをする人たちに、王太子様と騎士様たちのご帰還の邪魔はさせられないわ……」
絶対に、あの方たちを無事にブレア様の元へ戻してみせるとエリノアは、固く決意した。
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