37 魔王が愛について考える時、猫たちは議論する。
──愛とはなんだろう
ブレアと話したあと、ブラッドリーは一人考えた。
力こそがすべてという魔界に生まれて、その常識の中で長い時を過ごした。
愛情などちっぽけな感情だと取り合ってこなかったが。でも、現在。人の肉体の中に魂が宿った今。姉のそれが気になって仕方ない自分がいる。
覚醒した頃、昔の自分、いわゆる魔王的思考にすべてを呑みこまれそうになった。
けれども人として過ごすうちに“ブラッドリー”の心の中には、エリノアとの絆が育ち固く根を張っていた。その絆は強く、“ダスディン王”として長い時間、魔界で権勢を振るった魔王の精神をもってしても、彼の中から姉の存在を追い出すことはできなかった。
──分かっている。
ダスディンも姉が好きなのだ。
だから、僕たちは、共存を望んだ。
姉と一緒にいたかったから。
(これが──愛?)
ブラッドリーは自分の胸を手で押さえながら大人びた顔つきで思考に沈む。
魔王として他者を力でねじ伏せ圧倒するのは楽しかった。彼の元に集った魔物たちが、皆ひれ伏すのを見るのは爽快だ。グレンがたびたび誘うように、魔王らしく人の世界を壊すのも悪くはない。
──けれども。
姉のことを考えると、強大な力を振るった過去に戻りたいとは少しも思わない。
今心惹かれるのは、もっと小さなこと。
姉の傍にいるために仕事を覚え、姉のために雑務をこなし汗を流すほうが楽しかった。
小さな力でも、自分が成したことで姉が喜んでくれる。誰かに勝たなくても、健やかに過ごす姿を見せるだけで姉は感涙して暖かく抱きしめてくれた。
そのぬくもりのためなら、魔力など捨てても構わないとさえ思う。ちっとも惜しく感じない。
ブラッドリーは、これが愛なのではないだろうかと考えた。
姉の愛情が己に響き、それが自分を奮わせて。今度は自分が姉を支える力をつけようと懸命になる。それが一つも苦労とは感じない、これこそが。
(……じゃあ……)
ブラッドリーは、ふと先ほど相対した男の顔を思い出す。あの男もそうなのだろうかと。
穏やかに姉が好きだと言った、鮮やかな見た目に反して静かな泉の水面のような瞳をしたあの男。その顔を思い出すと、姉のことを考えて緩んでいたブラッドリーの表情が途端に曇る。
(姉さんを評価してくれたのは嬉しい。──でも……あいつが姉さんのことを話すとすごくイライラする……)
好きか嫌いかでいうと嫌いである。
──ただと、ブラッドリーは口を結んだまま息をついた。夕暮れの空を見上げると、何故か気分が少しさっぱりしている。その空を見つめながらブラッドリーは思った。
(……もう、あの男をリードと比べるのはやめよう)
比べることに意味はないと気が付いた。リードはリード。あいつはあいつ。嫌いだと感じるのは、姉を取られそうだと感じているからに他ならない。
直接話してみて。あの男が、彼が心底憎む“王族”クラウスとは違い、そう悪い人間ではないとは分かった。
リードとブレア。二人を並べてどっちがいいかなんて、外野の人間が言ったって余計な口出しだ。それはリードにも失礼な気がした。
(それに……姉さんは……誰かと比べて、選んで、愛情を注ぐ相手を決めるようなことはしない……)
ふっと少年の瞳が伏せられて、地面に凪いだ色の視線が向けられた。
きっと姉は。
──きっと……ただ、惹かれたんだろう、あの穏やかな灰褐色の瞳の男に。
「……っ………………」
「……陛下?」
ずっと沈黙しながら歩いていた主君が、不意に苦しそうに胸を押さえて立ち止まったのを見て。後ろを歩いていた猫姿のコーネリアグレースが地面から少年の顔を見上げる。──ちなみに、帰宅中のブラッドリーはまだエリノアの姿をしている。
「大丈夫ですか? お疲れになりました?」
「いや──大丈夫」
ブラッドリーはジリジリと痛む胸から手を離して、猫婦人を安心させるように笑み、再び正面を向く。
──己の中で、まるでダスディン王が暴れているようだった。そんなことは許さないと、姉が自分から離れていくことなど絶対にあってはならないと暴君がブラッドリーの心の中で怒り狂っている。
こういう現象はたまに起こる。前世と今世。混ざり合った魔王と少年の人格は、もうほとんど同化しているが、彼が悲しみを感じたり腹を立てたりした時は、こうして彼の中で“魔王性”がより強くなる。
そういう時、言いようのない苦痛が身を襲う。まるで、自分の中の魔王が無理矢理ブラッドリーを押しのけて表に出ようとしてるようだった。剥ぎ取られるような痛みを堪えて、ブラッドリーは歩きはじめる。
(──いや、大丈夫、そう、まだ大丈夫だ)
こういった時は、姉のことを考えれば次第にダスディンも落ち着き大人しくなっていくのだ。
しかし、それでも苦痛はあって。少年はコーネリアグレースたちに気付かれないように奥歯を噛みながら進む。
ブラッドリーは普段通りに歩き、けれども。元乳母の勘か。それでも何かを感じたらしい婦人が慌ててブラッドリーを横から追い越して不安そうに彼の顔を見上げる。
「陛下? どうなさったの? 胸がお痛みになるの?」
三匹の子猫を背中に乗せた婦人は、心配そうな顔でブラッドリーに尋ねるが、少年は首を振り、誤魔化すように言った。
「……そうじゃなくて……うん、ただ……姉さんのことを考えていただけ」
少年のつぶやくような言葉を聞いて、コーネリアグレースは「ああ」と頷く。婦人は先程、彼とブレアの対決を見ていた。少年にも思うところがあって当然と納得したらしい。ブラッドリーは続ける。
「……僕が……姉さんには、あいつじゃなく、リードと愛し合って欲しいと思うのって、ただのわがままなのかな……」
「あら」
これは誤魔化しではなく、本心からの問いだった。夕日に照らされた少年の顔は諦めに似た寂しさが浮かんでいて。それを見たコーネリアグレースはガラス玉のような瞳をキョトンと見開く。彼女の背中ではマリーたちが顔を見合わせていた。
「はーん……」
婦人は少し考えて、主君に言う。
「あたくしはわがままだとは思いませんわ」
「そ……う?」
猫婦人がつんと澄ました顔で言うと、少し意外そうな目でエリノア姿のブラッドリーが彼女を見下ろす。そりゃあそうですよと婦人はしっぽをくねらせた。
「実際リードちゃんは素晴らしい青年です。もし、マリーたちがもう少し成長速度が早ければ娘たち誰かの婿に欲しいくらいです。あ、上の娘たちでもいいですわね。あれだけの常識人を婿にすれば、娘たちも少しは真っ当になるかも──ま、身内からすると、そりゃあ、料理上手で商売上手、誠実で優しいリードちゃんは、絶対に娘を大事にしてくれることが目に見えているんですもの。逃し難い逸材です」
当然。といった口ぶりで言う猫婦人に、ブラッドリーはホッとしたのか盛大に息を吐く。
「だ、よねぇ……」
「そうですよ。当たり前です。だから……別に陛下がわがままかどうかなんて悩む必要はありません。そもそも何が“わがままか”なんて、実に曖昧です。それぞれの価値観で変わるものですから。自分の責任が取れる範囲でならば、陛下も気のすむまでリードちゃんをゴリ押ししたっていいんですのよ」
「…………」
婦人が断言すると、ブラッドリーは黙りこんでまた考える素振りを見せる。と、そんな彼の肩に、婦人はヒョイっと軽く跳び、着地する。
「でも──」
婦人は知性の滲む青い瞳で主に微笑みかける。
「それでも陛下はエリノア様の選択権までは奪ってはなりません。陛下は陛下の導き出した考えで行動すれば、それでようございます。でも、エリノア様もエリノア様で、悩み、考え、選択し、懸命に行動なさっているのですから、それだけはご理解なさいませ」
「………………うん」
婦人に姉を尊重しなさいと諭されたブラッドリーは顔を上げ──婦人の言う“尊重”も愛のうちなのかななどと思いながら──遠くの空を見つめた。
茜色の空に濃紺の夜が混じりゆく時間。夕日に照らされた雲が薔薇色に輝いていた。
──昔は、夕日を見てもまるで血のような色だとしか思わなかった。
けれども、今は。
──きれいだね、ブラッド……!
かつて共に夕空を見た時、そう言いながら自分を振り返った姉の、嬉しそうな顔しか思い浮かばなかった。
そしてそれは、彼をとてつもなく幸せな気持ちにしてくれる。
「……ありがとうコーネリア」
少年は、寂しげに、けれどもどこか晴れやかに微笑んで肩の上の婦人を見る。
「……お前たちがこちらに来てくれてよかったよ」
「あら、おほほ」
「愛情って難しいね……やっぱり僕ってグレンが言う通り、ちょっと……シスコンてやつなのかなぁ……」
「あ、らぁ……今頃ぉ……? ちょっとあたくし絶句しますわぁ……むしろその言葉に収まりますぅ?」
「……まおうさま、いまなんていった?」
「“ちょっと”、だって」
「“ちょっと”? “じゅうど(※重度)”……じゃなくて?」
ブラッドリーのため息混じりの発言は、コーネリアグレース背上の子猫たちの間に議論を引き起こした。その母猫も心底呆れたという目でブラッドリーを見ている。が……
そんなことには意を介さず。彼は少しだけ。……砂つぶ程度、ミジンコレベルのささやかさだけどと少々悔しく感じつつ、思った。
──ブレアと、話をしてみてよかったな。
寂しかったし悔しかったが、でも。少しだけ自分の道が見えたような気がした。
お読みいただきありがとうございます。
今回はただの……少年魔王のシスコン回です。笑
新しく令嬢もののラブコメ「悪役令嬢に…向いてない!〜」も更新中です。こちらもぜひ気楽に覗きにきていただければ嬉しいです( ´ ▽ ` )




