24 決意、姉弟対抗戦
──姉が侍女を辞める。
ブラッドリーは始め、彼女が何を言っているのかが分からなかった。
いや、彼自身、それを望んでいたこともある。だが──……その脳裏に思い出されるのは──少しだけ前のこと。
まだ彼が魔王となる以前。姉の何度目かの上級侍女試験の合格発表の日の光景だ。
やっと侍女の試験に受かったと、飛び上がって喜んでいたエリノア。苦労の末にやっと手にした免状を大切そうに握り締めた手。弾けるような満面の笑みで天を仰ぎ、喜んでいた姉の、その泣き笑いの顔は、今でもブラッドリーの心の中に刻みこまれている。当時はまだブラッドリーの身体は病に冒されたままであったが、それでも、それは姉弟にとって、とても幸せな記憶であった。
──それ、なの……に。
「…………⁉︎」
突然冷や水を浴びせられたような衝撃。うろたえた少年の額からは一気に汗が噴き出した。
姉が自分からそんなことを言うなんて思いもよらなかった。滴り落ちる自分の汗を感じながら、愕然と姉の顔を見る。
だが──
そこにあったのは、覚悟を決めたような、落ち着きはらった姉の姿だった。
「──っ」
なんで、と、感情的になりかけて。ブラッドリーはその言葉をぐっと飲みこんだ。
自分にはそれをどうこう言う権利はない。
彼は知っている。姉がどれだけ苦労してその仕事を手に入れたのか。
やっと十代になったという子供が、どうやって病気の弟を抱え、大人の世界に飛びこんだのか。
令嬢育ちの姉が、それまで自分たちを守っていた父の庇護を失い、多くの財を毟り取られ、空になった手を見下ろしてどんな絶望を味わったのか。そこから姉が、どうやって強くなっていったのか。
もうそういった苦労からは解放されて欲しくて、仕事を辞めてほしいと思うこともある。だが、そうして彼女がやっとつかんだ“職”という大切な寄る辺を、彼女自身が手放すと言うとは。驚き過ぎて、言葉もない。
(……いや、でもだからこそ、姉さんにとってもその決断は軽くない……)
姉がそれを軽々しい気持ちで言っているのではないことは目を見れば分かる。
しかし。
頭ではそう分かっていても、どうしても冷静ではいられなかった。ブラッドリーは立ち尽くし。そんな弟を見て、エリノアが申し訳なさそうな顔をした。だが、その瞳はやはり冷静で。すでに道を見つけた者の目をしていた。
「ひとまず落ち着いてブラッド。ちゃんと説明するから」
姉は「あのね」と話を切り出した。
「まずはごめんなさい。家計に関わることなのに、一人で勝手に決めてしまって」
そう言って姉はぺこりと頭を下げる。
「そ、んなことは……」
「ヴォルフガングにもね、先にあなたに報告しないように頼みこんだの。自分の口から説明したかったから」
そう言うエリノアの、首と結われた髪の間に隠れるようにして、しおしおと萎れた顔の小鳥が主人に瞳を向けている。姉はそんな小鳥に手を伸ばし、そっと両手で包みこむように柔らかく持ち上げ、手のひらの中で労わるようにその羽毛を撫でていた。その伏せた目の中に、悲しみが見えた気がして──ブラッドリーが焦る。
「あ……あんなに頑張って勤めていたのに、その職を離れようっていう理由は何⁉︎ ……王太子が失脚して、王宮内が混乱しているから辞めたい……というわけではないよね……?」
王太子の失脚は、エリノアの主人、ブレアの陣営にも影響を及ぼす。
しかも王太子が廃位を迫られているということは、このままではいずれ次の王太子を選ぶ争いもはじまるということ。エリノアの主人である第二王子ブレアは、確実にその渦中に立たされるだろう。周囲の者たちにも危険が及ばないとは、言い切れない。
ブラッドリーは、本当なら、エリノアにはそんな職場から早々に離れてほしい。けれども姉は、きっとブレアの傍を離れるとは言わないだろうと覚悟してもいた。
相手が魔物と分かっていても、こうして弱っていれば手を差し伸べてしまう姉の性分を考えると、その危険を厭い職場を離れたいなどと言い出すとは考え難かった。
それなのに。その姉が、自身でそこを離れると言う。
戸惑いの滲む目で姉を見ると、姉はそうじゃないのと首を振る。
──ブラッドリーにとって誤算だったのは……エリノアが、彼の想像以上に勇しかった、と、いうことである。
「あのね……あの日……王太子様と聖剣の騒動が起こった日、私はその時王宮にいたでしょう? ……侍女として」
「う、うん……」
頷くと、姉はため息をつく。悔しそうに。
「だけど、私、なんにもできなかった」
エリノアの視線が、テーブルの上でヴォルフガングを包んでいる彼女の両手に落ちる。溢されたため息には憤りが滲んでいた。小鳥もどこか心配そうにその顔を見上げている。
「……王宮はずっとバタバタしていたの。宮廷のほうもきっと、事態を解決しようと皆さん奔走されていたはず」
それなのに──と、エリノア。
「私は……侍女として、ブレア様のお部屋であの方を待っていた。ただ、待っていた、それだけ」
“出来るだけいつも通りの仕事をして、ブレア様がいつお戻りになっても寛げるようにしておこう”
それがブレアの侍女たちの間で申し合わせたことで、エリノアも懸命にその言葉に従った。
だけど、とエリノアは視線をあげる。
「それはもっともなことで。それが仕事で。私の大切な職務で……でも……昨日は私、それしか出来ないことがつらかった」
エリノアの声と、ヴォルフガングを包みこむ両手が震えて。ブラッドリーは思わず姉の手に自分の手を添えた。
──エリノアはあの時。本当ならすぐにでもブレアの傍に飛んで行きたかった。
しかし、できなかった。混乱した王宮では、使用人たちはひとまず持ち場に留め置かれ、そこを無闇に離れることは禁じられた。
実際問題主人のためにも出来ないことだ。もし、皆が勝手な動きをすれば場はさらに混乱するだろう。万が一勝手な行動を怪しいとみなされれば、己の主人に要らぬ嫌疑がかかるかもしれない。
それに──ブレアの傍に行こうにも、主人は彼の兄のために必死に奔走していて、どこにいるともしれない。……ただの侍女には、そんな情報は降りてはこない。
「……もし私がただの侍女だったなら、それでも務めを果たしたと思う。悔しいけれど、それしか出来ないから。でも、」
エリノアの目が、ヴォルフガングを見て、それから傍らにひっそりと立つテオティルを振り返る。
「……私、自分には、他にもできそうなことがあるじゃないって、思ったの」
主人と視線の合った青年は、その言葉を聞いて嬉しそうに微笑む。
「勇しき主人様……なんなりと」
勇者に使われることをひたすら願い請う聖剣の、恭しいお辞儀を見て。ブラッドリーはまさかと心配そうに問う。
「まさか姉さん……勇者として名乗り出るつもりなの?」
しかしエリノアはすぐにそれをきっぱりと否定。
「ううん。そんなことはしない。私が名乗り出たって、状況は好転しないわ。それに、家族を危険にさらすことは出来ないもの」
エリノアは、世間にブラッドリーや彼の配下たちの存在が明かされる危険を犯す気はないと首を振る。
「今回の件は、勇者が現れて、本当の聖剣が戻ったら解決するとかいう問題ではないと思うの。私がしたいのは、王太子様を探し出すことと、あの方にかけられた疑いを晴らすこと。……ブレア様の助けになることがしたいの」
「……だからって、」
何も辞めなくてもとブラッドリーが顔を歪める。だが、姉の決意は変わらなかった。
エリノアは手のひらの中のヴォルフガングを肩の上に戻すと、弟の手を固く握る。
「あのねブラッド。今、私の主人ブレア様は、きっとものすごく大変な思いをされているの。兄弟を大切に想う気持ちは、私すごくよく分かるもの」
言いながら、エリノアは弟の手を大切そうに撫でさする。
「だから……私は何か力になりたい。テオティルと共にいる私には、きっと何かできることがある。だけど、それなら本気で取り組みたい。仕事を続けながら、秘密を隠しながら、片手間でそんな大事を成し得ると思う? だって──今回の件にはきっと王太子殿下の命がかかってる」
一国の王太子だ。害しようとするほうとて必死だろう。きっと多くの者がこの件に命をかけている。そこへ乗りこんで行こうというのならば、こちらも覚悟を決めなければならない。
エリノアは背筋を伸ばし、弟の顔を強い眼差しで見た。その華奢な身体に宿る、燃えるような闘志にブラッドリーは言葉を失くす。
そうしてエリノアは、心の中にブレアの兄、王太子の姿を思いかべる。
あの優しそうな、麗しきハリエット王女の愛する男性。
彼を大切に思うブレアや王女のためにも、侍女として待っているだけでは、きっと後悔するだろうと思った。
後の自分が、傍らにいるテオティルを見て、『自分は聖剣を握っていたのに、何もしなかった』と、そう後悔する気がするのだ。
エリノアは改めて、決意を固くする。
「……ほんの少しでも何か力になれることがあるのなら、私はやりたい」
「ね、えさん……」
戸惑うブラッドリーに、エリノアは頭を深く下げた。
「お願いブラッド。手を貸してくれない? ううん、ブラッドは王族の人たちが嫌いだってことは分かってる。だから、少しだけでもいい、ヴォルフガングたちの力を私に貸して欲しいの」
「……」
姉の懇願に、ブラッドリーが顔を歪める。弟は、絞り出すような声で言った。
「……分かっているの……? 今姉さんが何も語らず王宮を離れるということは、姉さんは、“この国の大事に、混乱に巻きこまれるのが嫌で王宮を離れた不忠者”として見られるってことだよ……⁉︎ ブレアにも!」
そうなれば、きっとエリノアは王宮の者たちからの信頼を失ってしまう。
聖剣や魔物の力を借りて動くならば、エリノアは、それを人間たちには隠さねばならない。ということは……当然表向き、エリノアの主人のために働きたいという想いも誰にも明かすことが出来ないということだ。
エリノアは、主人の危機に、それを放って逃げ出した不忠者とされ、もう王族の傍に上がるような身分には戻れないはずだ。
(そ、それに……)
ブラッドリーは、その懸念に、自分でも意外なほどにうろたえた。
もしそうなれば──今、あの男、ブレアが厳しい状況にあればあるだけ、彼のエリノアに対する裏切られたという落胆も強くなるのではないか。
それはたとえメイナードの忘却術で男の記憶を消したとしても、必ずその不信感はあの男の中に残ることだろう。
(もう、僕らはあの男に、二度は忘却術を施した……)
最初に聖剣を抜いた時と、ビクトリア側室妃の一件の時。感情にも蓄積がある。初めならまだしも、そのざらつきは、きっと強くなる。ブレアがエリノアに向けている愛情にも影が落ちるのではないか──……
「っ、」
そう思うと姉が心配で堪らなくなった少年は悲壮な顔で姉を見る。そんな彼に、強い口調で、それを突きつけられたエリノアは、数秒の間、奥歯を噛むようにして黙りこんでいた。が──
姉は、不意に悲しそうに笑った。
「……、……うん」
「!」
その一瞬に垣間見えた姉の泣きそうな顔に、ブラッドリーが愕然とする。
「それでもいい」
微笑んでいるが、姉の両手はテーブルの上で硬く握りしめられている。その落差にブラッドリーの胸がえぐられる。
「ブラッドリー。王太子様の命には変えられないの」
「っ姉さん!」
堪らずブラッドリーが声をあげた。が、姉は動じなかった。エリノアは、静かに弟を見る。
「……知っているでしょう? 人は、死んだらおしまいよ」
静かな言葉は、肉親を看取った経験があるからこその言葉だった。紙のように白かった父の死顔に、昨日見たブレアの青白い顔が重なって。エリノアがギュッと奥歯を噛む。
「……ブレア様は力を尽くされている。兄上様のためにご自分も命を削っておられる」
でも、それでも見つからないなら、とエリノアは弟を射るような目で見た。
「私が、やる」
決意の眼差しに、ブラッドリーは気圧される。彼は、目を瞠って、しかし苦悩して。
どうしていいか分からずに──……
つい──叫んだ。
「っ、──だ──……だったら! ぼ、僕がやる‼︎」
「ぇ……?」
その言葉に、エリノアが虚を衝かれたような顔をした。
切羽詰まったような顔をしたブラッドリーは、エリノアに挑みかかるような顔で、必死に言った。
「僕が! 姉さんの代わりに! お──王宮で働く‼︎」
叫んだブラッドリーは、その勢いのままテーブルに手を叩きつけて。木製のそれはあっけなく塵となり──……
居間の中には、水を打ったような静けさが広がりゆく。
その静寂の中で──エリノアは思わず言った。
「……………………は……?」
お読みいただきありがとうございます。
…こうなりました。




