23 決断と心配
「ただいま……っとぉ⁉︎」
静かな顔で居間に入って来たエリノアは──そこにある大きな黒い塊を見てギョッとした。
それは部屋の隅にあった。大きさは大人が両手を広げたくらいの、歪な球体。歪に見えるのは、その泥のような表面を、何かがゆっくりと蠢いているからのようだった。
「な、何あれ……⁉︎」
「お帰りなさいませ、エリノア様」
物体を見て動揺していると、コーネリアグレースがやって来た。そして彼女もエリノアと同じように物体を見て、ため息をこぼす。
「ああ、あれねぇ、あれはブラッドリー様ですわよ」
「はぁっ⁉︎」
婦人の言葉に、エリノアが唖然として物体を二度見した。
すぐさま駆け寄ろうとする姉に、しかしコーネリアグレースはその首根っこを捕まえて首を振る。
「な、どっ、コーネリアさん⁉︎」
「おやめになったほうがよろしいかと。あれは言わば、陛下の──……引きこもり専用シェルターです」
「ひ、引きこもり⁉︎」
何故⁉︎ という姉の目に、婦人は言う。
「まあ……いろいろあるんですのよ」
まさか、ブレアとの逢瀬を監視しに王宮まで行っていた、とは、当人相手に言いづらく。コーネリアグレースはざっくり曖昧に説明する。
「つまり、最近この国は不安定でしょう? 王宮で労働中の姉上を心配しておいでなのです」
本当は、最も大きな原因はおそらくブレアへの嫉妬なのだろうが。それをエリノアに教えることは、難しい年頃の主君が嫌がるだろう。
と、コーネリアグレースの言葉を聞いたエリノアは悲壮な顔をする。
「ブ、ブラッド……」
エリノアは、奥歯を噛んだ。
最近弟が自分を心配していることは分かっていた。黒い物体の鬱々とした色形は、弟の心の深憂そのもののような気がして。こんなにも心配させていたのかとエリノアは悔やむ。
けれども。物体に近寄ろうとする彼女を、やはり婦人が止める。
「コ、コーネリアさん?」
驚いて振り仰ぐと、婦人は落ち着いた顔で首を振る。
「いえ、エリノア様。今は少しだけそっとしておいたほうが良いと思います。──大丈夫、心配事はあなた様なのですから、気持ちに折り合いをつけたらすぐに出ていらっしゃいますわ」
と、そこで婦人はブラッドリーのほうを見て、少し声の調子を変えた。
「……以前の陛下ならば、王宮を焼き払えばいいなどとおっしゃったと思うのです……」
「え……?」
婦人の変化に気がついて、エリノアも戸惑った顔で彼女を見上げる。そんなエリノアの顔をコーネリアグレースの青い瞳が見つめた。
「容易いことです。魔王ですもの」
「──……」
彼が魔界でその権勢をほしいままにしていた時はそうであった。気に入らなければ力でねじ伏せる。
強大な魔力を誇る彼の周りには、彼に魅せられた数多の配下が集い、彼のどんな願いでも叶えていった。
婦人は言う。
「──まあ、それが危ういことだとあたくしやメイナード、ヴォルフガングあたりは危惧もしておりましたけれど。──でも」
婦人は、フッと笑って。どこかコミカルに肩を竦め、黒い物体を手のひらで示した。
「今はああやって耐えておいでです。あんなものまで出して鬱々しておいでなのに、あくまでもエリノア様の意思を尊重しようとなさっています」
婦人は目元を和らげた。
「陛下も少しずつ成長なさっています。小さな嫉妬如きで魔物を召喚していた頃とは大違いですわ」
「…………」
母親のような目で言う婦人に、エリノアが沈黙する。
その言葉には少しだけホッとするものがあって。そして弟を想うのと同時に──自分も、負けてはいられないのだと、彼女は思った。
「……ぇ──……?」
その言葉を聞いて──ブラッドリーが息を吞んだ。
唖然と、呼吸するのも忘れたように見入っているのは、彼の姉。彼とは反対に、落ち着き払った様子で座っている姉を見る少年の緑色の瞳には、大きな戸惑いが映し出されている。
──つい数分前まで。彼、ブラッドリーは己の生み出した闇の繭の中に閉じこもっていた。
彼はその中でいろいろと考えた。いろいろと考えて──思い悩んだ挙句。それでも結局は、姉を大事にしなければならないのだというところに彼は行き着いた。
こうしていても、何も解決しやしない。どんなに心配でも、苦しくても、気持ちに折り合いをつけて姉を守っていくほかないのだと、諦めにも似た気持ちに至った彼は、己の周りを覆っていた闇を徐々に消していった。──と。
膝にうずめていた顔を上げると、晴れていく闇の向こうには姉が待っていた。
姉も彼と同じように、彼女の膝を抱えて床に座り、じっとそこで彼を待っていたようだった。
その顔つきは、真剣そのもので。しかし。消えていく闇の向こうに、弟の驚いたような顔を見つけると、彼女はそっと優しく微笑んだのだった。
そうしてそんな姉に促されて。戸惑いながらも居間の椅子に座ると、彼の正面に座った姉が、彼を真っ直ぐに見て。静かに、しかしどこか力強くその言葉を言ったのだ。
それを聞いたブラッドリーは、思わず椅子を立った。同様に、周囲で彼らの話を聞いていた魔物たちからも、驚いたような気配が漂ってくる。普段は何かとぴいぴいうるさい三姉妹ですら黙りこみ、聖剣はただ満足げな顔で主人を眺める。室内は、しんと静まりかえっていた。
「……ね、姉さん……い、今、なんて……?」
声を上擦らせながら呆然と問うと、エリノアは、うん、と平静な顔で頷き。そしてきっぱりと言った。
「……私──……侍女の仕事を辞める」




