21 決意と約束
そのわずかな休息の時間に、彼がエリノアに望んだのは、
「君の話が聞きたい」──というささやかなことだった。
……──が。
「──ちょ──っと待ってください?」
ブレアの申し入れに、一瞬ぽかんとしかけたエリノアは。ハッとして場に一時休止を求める。
寝台脇でブレアが不思議そうな顔をする。
「?」
「いえ、殿下……まさかこのままで……これではわたくしめ、何事も出来ませんけれど、も……?」
その手のひらは、彼女が今まさに腰までかぶっている布団を示している。
ついブレアの照れ笑いにほけっと見惚れてしまったエリノアだが、かろうじて己の責務を思い出した。その主張はこうだ。
疲れているだろう王子を差し置いて、いつまでも自分が寝台に寝転がっているわけにはいかない。王子が訪れた場所が病室であるということは、彼は休むべくしてここに来たのだから。
エリノアはサッと身なりを整えつつ寝台から降りて、ブレアにそこを進めた。
しかし当の本人がそれを渋る。
「……趣旨は分かるが……お前の寝た寝台に横になるわけには……」
堅い男は、腕を組み憮然とそう言い、頑なにそれを固辞する。エリノアは、ええと、と、指をずらして別な寝台を指差した。
「(何故?)いえ……あの、もちろん、わたくしめの寝た場所がお嫌でしたら、寝台は他にもありますし……」
「! い、いや、エリノア。けして嫌などというわけでは……」
謎に慌てるブレアを、怪訝に思いつつ、エリノアは「いえそんなことよりも」と、無礼を承知でブレアの言葉を遮った。
何故ならば、おそらくブレアの休憩時間はそう長くない。
それが終わってしまうと、この勤勉な王子は、きっとすぐに職務に戻ってしまうだろう。
そう思うとエリノアの胸に焦りが生まれる。
(うだうだしていたら、ブレア様の貴重なお休み時間を減らしてしまう……!)
別に話すのは構わないが、それでも彼がせっかく稀にも休む気になったのならば、せめて身体を横にしてもらわなければ話にならない。そう思ったエリノアは、ここで久々にメラッと姉性を発揮した。その過剰な姉性と焦りは──彼女から、羞恥心を奪っていった……
エリノアの中で、カーンとキレ良くゴングが鳴る。ブレアをキッと睨み、両手は彼からマントを剥ぎ取るべくにじり寄る。
相対するブレアの驚いた顔といったらなかった。
「ブレア様……? ちゃんと寝てくださらないと、わたくしめ──……添い寝しますよ⁉︎」(※小さい頃、眠れないブラッドリーによくしていた)
「⁉︎」
エリノアの怪奇顔がキャシャー! と、マングースのように怒り、もちろんブレアはその突拍子もない脅しにギョッとして……
男は再び大人しく娘に従い、無言で布団の中に潜りこんだのだった……
さて、そんなこんなで無事王子を寝台に横たわらせることに成功したエリノア。
どこか無念そうな表情をにじませているブレア(※エリノアの前で寝るのが死ぬほど恥ずかしい)の身体にかけた布団を念入りに整えていると──彼女に、ブレアが訊ねる。
「え? 私の普段の生活、ですか?」
キョトンと顔を上げると、枕元のほうから、ブレアが静かにそうだと言った。
エリノアが普段、何をして喜びを感じるのか、好きなことはなんなのか。嫌いなことはどんなことか。王宮に提出されている書類上の情報のようなこと以外の、もっと彼女本人の本質に迫るようなことを彼は知りたかった。
だが尋ねられたエリノアは一瞬戸惑った様子を見せる。
使用人は普通、主人に自分の話を語らないものだ。身分の高い者たちは、下の者たちの生活にあまり興味を持たない。それはそうだ。己よりも遥かに劣る生活をする者たちのことを知って、彼らに得などほとんどないだろう。
けれどもブレアは、エリノアにどんなことでもいいからと穏やかに願う。
それはあまり押し付けがましくしてはならないと慎重に言葉を選んでいるようであり、丁寧であった。気遣うようなブレアの口調がエリノアの胸を突く。
王子であり想い人である彼に、そんなふうに、貴い人を相手にするように頼まれてしまえば、エリノアとしても応じないわけにはいかなかった。自分のことを話すということは気恥ずかしくもあったが、そんなことが彼の慰めになるのならば容易いことだった。エリノアはブレアの枕元の傍に座り、弟のこと、家のこと。好物と言えるほど好きな食べ物はないが、嫌いな食べ物もないこと。それらをゆっくり話しはじめた。
と、それを黙って聞いていたブレアが、少し驚いたような顔をする。
「……好きなものが、ない?」
「ああ、その、あるもので満足しなければならない生活が長かったのでそれに慣れてしまって」
エリノアが苦笑しながら言うと、それを聞いていたブレアは思い出す。そういえば以前、ソルが(勝手に)彼女を調査した時にも、エリノアは暮らしぶりが豊かではないゆえに、贅沢品は好まず、菓子類もあまり口にしないというようなことを言っていた。
どうやらそれは、ブレアが思っていたよりも徹底された厳しいものだったらしい。
そう察したブレアの瞳が沈んだ色になったことに気がついて、何か言わねばと思ったのか、エリノアが慌てて続ける。
「……」
「あ! えっと……でもお茶を飲むのは好きですよ!」
「……茶、か?」
ブレアがエリノアを見ると、娘は「はい」と頷く。
「父がお茶が好きで。商売もしていたので家にはいろんな銘柄があったんです」
エリノアは少し懐かしむような顔になって。昔のトワイン家の、厨房を思い出す。そこには父が普段飲む茶の入れ物がたくさん並んでいて。
「棚に並んだ綺麗なお茶の入れ物を見ているのも面白くて。父がそれぞれの銘柄について教えてくれたり……いい思い出があります」
「……」
嬉しそうな顔を見て、ブレアも自然と表情が和らぐ。エリノアは、味というよりも、父との思い出でそれを好きでいるらしい。そう分かると、なんとも微笑ましく思った。
そういえば茶の葉は種類も豊富で、その入れ物は多様だなと思い、ブレア自身はさほどそこに興味を持ったことはなかったが。ただ、これからは、エリノアに贈り物をする時に何を送れば喜んでもらえるのか、その手がかりがつかめて嬉しかった。
──と、不意にエリノアの顔が照れっと傾く。言うか否か迷うような、こそばゆそうな表情に、ブレアが不思議そうな顔をした。
「エリノア?」
呼ぶと、恥ずかしそうな笑顔のままエリノアが言う。
「えっと……その……。それに、お茶会にお招きいただいたのも、いい思い出ですし。……ブレア様に」
「…………」
己の名が出てくることが予想外だったのか、青年が黙りこくった。
そんな彼の寝台の脇でエリノアは、思い出しながら一人微笑む。
市場でブレアがエリノアのためにお茶を買って来てくれたこともあった。
当時はそれに慌てもしたが、馴染みのある、庶民たちの間でよく飲まれるお茶がどうしてだかとても輝いて見えたものだ。
(──そうだ、私は……ブレア様に多くのものを与えられている)
ふとそう思ったエリノアは、しみじみと思う。
与えられているのは、職場や給金だけではなく、もっと心の温まるもの。
いつも彼と会う時、自分は必死で。失態を犯したり、叫んだり。でも、ブレアはいつも怒ったりしない。大抵いつも表情は真顔で硬いけれど、あれも多分、不機嫌になっているのではない。
「……」
それに、とエリノアはブレアの顔を見る。
すると気がついたブレアが穏やかに微笑む。どうしたのだと訊ねるような表情は、優しくて。
見つめるエリノアの心の中で何かが固まったような音がした。
「…………ブレア様」
「? どうした?」
エリノアの言葉のトーンが変わったことに気がついて、ブレアが少しだけ瞳を瞬く。その顔色からは赤みが引いていて、エリノアの目に本当のブレアの顔色が見えた。
「……お顔色、お悪うございますよ」
「、あ、ああ……」
沈んだ声で指摘すると、ブレアがバツの悪そうな顔をする。エリノアは困ったような顔になって「僭越ながら」と前置いて彼に言う。
「王太子様が心配なお気持ちも分かりますが、それでもご自身の健康にも気をつけていただかないと。ブレア様が王太子様を心配なさるのと同じ気持ちで、ブレア様のご配下の皆さんもきっと気を揉んでいらっしゃいます。私も含めて」
「す、すまん」
思いがけず真剣に叱られて、ブレアは決まりの悪そうな顔をする。
エリノアはしばしそんな彼の顔をじっと見つめていたが──その手が不意に、布団の上で固く握られているブレアの拳に重なった。
「⁉︎」
ブレアが息を吞み、目を瞠ってエリノアを見た。しかし見下ろす瞳には照れはなく、しっかりとした眼差しが彼を見上げる。
「──殿下。いついかなる時も、食事に気をつけて、よく眠り、健やかでいらしてくださいね」
「エリノア?」
「そして王太子殿下がお戻りになられて、いつかお暇ができたら……」
約束通り、あの時のお話の続きを聞かせてくださいね、とエリノアは。にっこりとブレアに微笑んだ。
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