20 ブレア、平定できず。
屋根上の地獄も、コーネリアグレースの半笑いもさて置き。
「「…………」」
その頃。階下の二人は互いにじっと黙りこみ。しばしの間は、互いに目線も合わせられない有様であった。石のように固まった渋面のブレア。そんな彼の反応が怖くて身動きをためらうエリノア。彼女が気になっているのは、もちろん、先ほど自分が言ってしまった言葉。
──思い出すのも恥ずかしい。
(……殿下に向かって……『行かないで』──は、なかったぁ……)
エリノア、沈痛の面持ち。瞳を閉じて、思わず天を仰ぎたくなった。
なんたることだろう。侍女たる者が、第二王子に向かって『行かないで』とは。
口調も問題だが、そもそも王族の行動に干渉しようというところから無礼である。
それによくよく状況を振り返ってみると、王子の膝に落下、顔を見ての大絶叫と──華麗な無礼の数珠繋ぎ。
(……しとやかさよ、何処へ……?)
エリノアは己に向かってげっそりした。没落したとはいえ、伯爵家に生まれておきながら、この素質のなさはどうしたことか。ごめんなさい──お父様──。懺悔がエリノアの胸を過ぎる。
──けれども。疲れた王子に水汲みなんて絶対にさせられないと思ったら、咄嗟に身体は動いていた。だが……せめてブレアを不快にさせない程度に言葉も行動も選ぶべきであった。
(ああぁ……ブレア様のあのお困りになられたお顔……)
エリノアが恐る恐るうかがうと、青年は苦悶の表情。眉間は硬く、瞳は伏せられている。それを見て、余計に申し訳なく思った娘の顔がしおしおと萎れる。しかし、少しだけほっとしてもいた。なんにせよ、彼の無事を直接自分の目で確かめられたのは大きい。エリノアが細く、息を吐く。
(心配していたよりは、お元気そう……よかった……)
少し痩せたようだが、血色は意外にもいいように見えた。
けれどももちろん手放しで喜べる状況ではない。寡黙な表情の中には彼のつらさが滲んでいる気がして。もとよりブレアは彼自身の内面を表には出さない性質なのだから、今もきっと、いろいろなことを抱えこんでいるのだろう。それを思うとエリノアの胸はぎゅっと痛む。エリノアは、ひんやりした自分の指先を胸の前で固く握りしめた。
(今──この人のために何かができると言われたら、きっとなんでもするのに)
恋しさと焦燥感が混じって苦しかった。
「…………」
そんな娘の熱心な瞳に見つめられながら──男は、椅子に座ったまま黙していた。
腕を組み、彼はずっと静かに思考にふけっている。──いや。彼は、必死だった。必死に、己の思考を平定しようとしていた。
(……)
思わずエリノアに言われるまま、椅子に戻ってしまったが……こんな時分に、いつまでも浮ついている訳にはいかない。
落ち着かねばと彼は自分に言い聞かせる。
これまで、王子としての生活の中で、ずっとそう努めて来た。上に立つ者が動じれば、それはすぐに下に伝わってしまう。王族として、何があっても冷静でいられるようにと、感情を表に出さない生き方は窮屈にも思えるが──幸い、克己復礼の精神を重んじる彼には、それがとても向いていた。今も、その能力を発揮すればいいだけのこと。
(……落ち着け)
ブレアはそれをもう一度己に命じる。自制しようという彼の灰褐色の瞳は、より鋭い光を帯びる。
が──……
己の精神の声を上回って、耳に響くのは──エリノアの声であった。
「……、……、……っ」
……無理だった。
何かに敗北した男の表情が、くっと瓦解し、眉間が歪む。
(…………すまん、……可愛い、どうしたらいい……、……、……)
ブレアは気恥ずかしいのか──握りこんだ拳を額に当て、苦悶の表情を浮かべる。
頭の中はとにかく──エリノアで埋め尽くされていた。……冷静さを、差しこめる隙間がない……。
耳の奥に、エリノアの『行かないで』が尚も響く。そのダメージはなんとも深く、浮ついた感覚に身が支配されていた。その御し難さに、男は拳をギリギリと握る。
(…………攻めこまれている……)
……いや、別に違うが。男は大真面目で愕然としている。
(なんたることだ……私は今まで……どうやって冷静さを保って来た……?)
思い出せなかった。
ブレアは焦る。こんな時に呑気に赤面したままでいていいはずがない──と、彼は。要するに制御できない自分自身と戦っている。
そしてつまり。エリノアが『血色がいい』と思ったのは、彼が──ずっと赤面しているからなのであった。
はー、と、ブレアが長めに息を吐く。なんともいえない感覚だった。
制御が利かず、もどかしい。しかし、少しも嫌ではない。
「……」
額から拳を離したブレアは、もう一度、浮ついた自分にしっかりしろと叱咤する。彼の目がエリノアを見た。
肩を怒らせたたまま、強張った顔で寝台に身を起こした娘の黒眉の端は、へにゃりと下りきっている。
その顔を見ながら思わず苦笑し、そんなに心配しなくても大丈夫だと言ってやりたくなったブレアは──おや? と、気がついて。己の胸に手を当てた。
「…………」
あれ程必死で平定しようとしていた心がすんなりと落ち着きを取り戻していた。
驚きが胸に広がる。しかもそれは、彼が考えていたような、自分を押さえて打ち勝つような自己抑制とは違い、とても穏やかに、軽やかに彼を促す。
その不思議さにブレアは感じ入る。しげしげとエリノアを見つめる眉間からはシワが消えていた。
(……これだけ悩ませるのに、癒しもするのか)
相変わらずだとブレアが小さく笑う。これまでもずっとそうだった。以前は彼女を光のようだとも思ったことがある。エリノアは、彼を苦悩もさせるが──同時にそれが癒しともなった。
その貴重さを思い、ブレアは息を吸い、呼吸を整え直した。
動揺してばかりでは、情けないではないか。
「……エリノア」
ブレアは意を決して沈黙を破った。
名を呼ぶと、エリノアがびっくりしたように背筋を伸ばし、黒髪の先が揺れた。
まるくなった緑色の瞳が彼を見ている。
──それだけのことに緊張し、そして嬉しい自分におかしくなって。ブレアは金の前髪の影で照れ臭そうに笑っている。
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