18 ブレア、座して胃痛。
慌てたブレアは、とにかく床にへばりついたままの娘を抱き上げて寝台の上に寝そべらせた。はたから見ると、それはあまりにも距離が近く、まるでブレアがエリノアを寝台に組み敷いている──かのように見える一瞬もあった、が。二人はあまりにも慌てすぎていて、互いにそれには気がつかなかった。
そうしてブレアは、彼自身もとても慌ててつつ、エリノアを厳重に布団の中に納めながら、言った。
「──落ち着け」、と。
「…………大丈夫か?」
「は、はい……」
互いに冷静になれるよう、しばしの間を置いてから。
ブレアが寝台の傍らからそう尋ねると、エリノアが申し訳ありませんと消え入りそうな声で答える。頷く頭を見たブレアはほっと表情を和らげて。すると、エリノアもつられたように、ややぎこちない顔で微笑んだ。
驚きがなんとかおさまり、やっと落ち着いてエリノアを見たブレアは、その顔をしみじみと見つめる。
一瞬焦りもしたが──おかげで、先日私室でエリノアと会った時と同様、息苦しく張り詰めていた心にふっと呼吸の出来る隙間ができたような、そんな安堵感があった。
それを実感すると、目の前の寝台で赤い顔をしている娘がたまらなく愛おしくて。
ブレアの表情が、複雑そうに綻んだ。
それで──と、ブレアはエリノアを気遣う。
「気分はどうだ? ああ、今、水でも──」
「え! ブ、ブレア様⁉︎」
男が椅子から腰を浮かせたのを見て、エリノアが再び慌てる。
王子にそんなことはさせられないと、娘は布団から這い出ようとするが──正直、まだ抜けた腰の回復が追いついていない。
と、プルプルしながら自分を引き止めようとするエリノアを見て、ブレアは心配そうに顔を曇らせた。
その手はやんわりと娘を布団の中に押し戻し、
「しかし喉が渇いているだろう」
あれだけ叫んだのだからと、青年は立ち上がった。ブレアの言葉に他意はなかった。が、エリノアはクラッとしたような顔をした。
エリノアは激しく後悔していた。
ちょっと(?)驚いたからって、あんな──王子を見て、化物でも見たかのような絶叫を上げなくても──……
(「……我々のような者と暮らしておいてなぁ……」※byヴォルフガング(哀れみ)
エリノアは切実に思った。
どうしたら──この元気の良すぎる己の口を封印することができるのだろう──……
いっそ──メイナードとかに魔法でもかけてもらうか──……
(……もっと──……いろいろ動じない──おしとやかに女性になりたい──ハリエット様みたいな……)
そんなふうに己の行動をげっそり悔いて、ビーナスに思いを馳せていると──……その間にブレアが身を返す。
「ちょっと待っていなさい」
「っ⁉︎ あ!」
一瞬、現実逃避に沈んでいたエリノアは、行ってしまいそうなブレアにハッと我に返る。
「っいけません! ブ、ブレア様──……!」
何事にも動じない女性になりたいなどと願った直後に情けなくもあったが、遠ざかって行こうとするブレアの背中に、つい、慌てた。
そう──それは──……つい、と、しか言いようがない。
いつものエリノアなら、そんな──身分差を超えるようなことはしなかっただろう。
けれども。
彼女がここへ来た(放りこまれた)のは、彼の顔を見たかったからで。
聖剣騒動のせいで姿を消した彼の兄のために、王子がどれだけ心を痛めているか。それでも職務に奔走しているという話しか聞こえてこない彼が心配で、ここに来た。
そんな王子に、たとえそれが些細なことでも、己のために労力を使わせるなどということは、この世話焼き娘には許せない話で──……
……後から思えば恥ずかしすぎて、もんどりうって頭を抱えて転がり狂いたいくらいだが──
だが、つい──手が、伸びて……言ってしまった……
エリノアの手がブレアの上着の裾を、がっしりと握りしめる。
「い──……行かないで!」
「っ⁉︎」
慌てたように寝台から伸びて来た手が、病室の出入り口へ向かおうとするブレアの上着の裾を、しっかとつかんだ。
「!」
思いがけず引き止められたブレアは、咄嗟に目をまるくして。唖然と振り返る。と──……
寝台から身を乗り出した娘の、必死な瞳と視線がかち合った。エリノアはブレアをそこに留まらせようというのか、彼の服の端を懸命に握りしめている……
「行かないでくださいブレア様っ」
「……………………」
悲壮に眉間を寄せた顔。真っ赤になった額には玉のような汗がにじんでいる。
そんな娘の懇願を受けたブレアは──……
一瞬──思考が止まった。
「……………………」
顔は相変わらずの真顔だが──固まったその表情の下で、たった今エリノアが言った、『行かないで』が、頭の中を反響して回る。
「……………………」
「で、殿下、私、大丈夫ですか──……、……?」
ら──と、言いかけて。エリノアは様子のおかしいブレアに気がついて、あれ? という顔をする。
不思議そうに彼の視線を追ったエリノアは、そこでブレアが無言で凝視しているものが、自分が握りしめている彼の上着の裾であることに気がついた。
(は、はぁぁあああ⁉︎)
己の行動にエリノアが心の中で悲鳴を上げる。エリノアは青くなり、慌てて王子の服から手を離し。両手を上げて仰け反った。もう腰が抜けてプルプルしているとか、そのようなことを言っている場合ではなかった。
エリノアは、侍女が王子に対してなんと無礼極まりない──と、己の行動に慄く。
「も……っ、申し訳ありませ…………──あ……」
と、さらにエリノアは、己がたった今口走った言葉に気がつき、しまったという顔で口を手で覆う。
「⁉︎」
──行かないで!
己の声が耳に蘇る。その……彼に──つまり、彼女の想い人本人に、ここにいて欲しいとねだるような言葉は、たとえそれが本当はそんな意味で使ったのではなくとも──エリノア的には、相当に恥ずかしかった。
それはつまり、彼に自分の傍から離れてくれるなと言ってしまったような気がしてしまって……。
娘の顔は、カー……と、見る見るうちに耳まで赤く染まる。
「……ぁ、いえ、その……」
エリノアは、すぐにでも、そういう意味で言ったわけではと訂正しようと思って──しかし。自分はブレアに想いを寄せているわけであって……つまりそういう気持ちもないではない気もして……。
あわわ、と言葉に窮したエリノアは、困惑して口籠る。
「…………」
そんな──ほとほと汗滴るうろたえ顔を……いまだ立ったまま見下ろしていた男は……。
「…………………………」
ひたすらに、無言の時を長期化させている。
──何か……心にひどく突き刺さるものがあった……。
水を取りに行くなどということは、ほんの少しの時間ですむことだ。
ブレア自身が、エリノアを気遣いたい気持ちがあることもある。それはひとつも手間なことではない。むしろやりたいのだから。
しかし……
想いを寄せる相手から、そんな少しの時間でも、『行かないで』と、傍を離れないで欲しいと懇願されることが──嬉しくないはずがない。
もちろん──ブレアには、エリノアがその言葉をそういう意味で言ったのではないと分かっていた。──分かってはいたが──……
「…………」
それを超えてぐっとくるものに。彼は思わず、硬直してしまった己の顔に手をやり。そして男は、無言で──……
……大人しく、寝台横の椅子に戻った。
「…………」
腕を組み、押し黙って座するブレア。
照れすぎて強張った固い顔はいかめしいほどだったが……彼が椅子に戻った途端、エリノアがほっとしたのが分かった。そこに一瞬のぞいた嬉しそうな表情に──ブレアの顔が更に胃痛を感じたような顔をする。──いや、大事ない。これでも彼はときめいているのである。非常に分かりにくいが。
お読みいただきありがとうございます。
…相変わらずじれじれ進みます。




