14 魔王、…泣く。
──その月明かりの差し込む窓辺で。誰かが恐る恐る彼に尋ねた。
何故、王太子を始末しないのだと。
「……お母上様からも再三そうせよと言われておいでですのに……」
声は誰かに聞かれるのを懸念しているのか、小さく潜められている。怯えた様子を滑稽に感じたのか、それを聞いた青年は嘲るように笑った。
「はぁ? リステアードを殺さないのは何故かって? だって……そうじゃないと、ブレアの足に枷をつけられないだろう」
にこやかに言って、彼は手にしていた茶器を口に運ぶ。満足げに窓から城下を見下ろす青年──クラウスに、侍従は顔色を窺うようになおも問う。
「枷……王太子が生きているということがですか……?」
そんな配下を軽蔑したような眼差しで見下ろしながら、クラウスは頷いた。
「兄が生きているという希望があってこそ、ブレアは王座に座らない」
その名を口にすると青年の顔が歪む。くつくつと笑う主人に侍従が黙りこんだ。
「国は王太子の座をいつまでも空位には出来ない。リステアードが失脚すれば、次に名前が上がるのはあいつだろう? まあ、“大罪人リステアード”を支持していたことが不利に働いてくれるだろうが……それでもブレアを支持する者は多い。だから、保険だよ」
忌々しそうに言い、クラウスは鼻の付け根にシワをよせながら嘲笑う。
「あいつは昔から馬鹿みたいに融通がきかないからな……何があっても愛する兄上を押し除けられないんだ。兄が生存している可能性をちらつかせてやれば、あいつは絶対に王太子の座を固辞し続けるだろう。反面……下手に王太子が死んでしまったら、兄の意志を継ぐとなどと言って、今よりも強力な敵になりうる。あの堅物は、ああいうやつは、そういう使命感とかいうものにかられると、ひどく厄介だからな」
上手く生存の可能性をばらまいて、奴らがそれに群がっている間に蹴落としてやるのだと、クラウスは肩を揺らして笑う。と、その顔が不意に真顔に戻り、冷たい声で言う。
「だから……リステアードは殺さないようにしっかり通達しておけ。絶対に母上には渡すな。……まったく厄介だよ母上も。憎む気持ちは分かるけど、感情に振り回されてこっちの計画を台無しにされちゃかなわない。特に母上の親族たちには気をつけるように」
「はい。……城下の者たちはどう致しますか?」
「城下の噂を操作するのに使ったやつらか? もうしばらくは生かしておけ。リステアードの目撃談でも流してやれば、ブレアが喜んで食い付くだろ」
青年が冷酷な顔で笑うと、侍従は短く返事をして部屋を出て行った。
それを見送ることもなく、クラウスは窓の外の眼下に広がる城下を見て、つぶやく。
「……兄弟愛がゆえに追い詰められるなど……あいつにはふさわしい終わりだな……」
そうクラウスは口の端を持ち上げて。せいぜい苦しむがいいと、気でも違ったかのように笑い続けるのだった……
* * *
「………………」
「……あ! ね、姉さん……駄目! ちょ、ちょっと待って……! ぁ……」
ブラッドリーが姉に必死に制止の声を上げた、その直後。
ガツンと鈍い音がトワイン家の居間の中に響き渡る。
次いで、「ぅっ」と、呻き声がして……悲痛な声を上げたのは──魔王だ。
「ね、姉さ──っ」
それは彼が、散乱している皿の破片やカトラリー類を拾おうと床にしゃがみこみ、姉に背を向けていた時のことだった。
ハッと気がつくと、姉が真顔のまま柱に向かって歩いて行く。その目はしっかりと開いてはいるが、何かを考えているのか、思考に沈み、前方を捉えてはいない。
慌てて止めようとするも──姉は見事に柱にぶつかって。そのまま腕に持っていた着替えを空に放り出しながら、後方へ倒れて行き──その瞬間。ブラッドリーは慌てて姉に向かって手を差し伸ばした。すると──姉を受け止めようとした魔王の手から、黒い魔力の塊が飛び出して行って。
──しかし、残念無念。
それはエリノアの傍まで飛んで行くと、その場で一瞬にしてきれいさっぱり浄化されてしまった。
──あ──……そうだった、しまった──……と、属性違いの姉を助け損ねた弟魔王が一層悲壮な顔をして。寝巻きや下着の舞い散る先で、床に落ちて行く姉の後頭部を、弟は愕然と見つめ──……。
しかし──そこへ救世主が現れた。
相方(?)ののんきな黒猫とは違い、主君のピンチを鋭敏に察した白い獣。その数秒という刹那の時間の危機に──鬼の形相で、前足からの必死のスライディング。
健気、魔王の忠犬は──……己の身をなんとか床と勇者の尻との間に滑りこませることに成功したのだった……。
「っ! ヴォルフガング⁉︎ ね、姉さん!」
「…………(我はやった……)」※ヴォルフガング。満足そう。
「っ、っ……いった……」
忠犬に救われた娘は、その背の上で額を押さえながら起き上がる。柱の角で思い切り眉間を強打したらしく、涙目を硬く結んでいるが……ふと、己が踏んだ、ふか……っとしたものの正体に気付いてギョッとした。
「はっ、やわぁ……? っぎゃ⁉︎ ヴォルッ⁉︎ ……ご、ごめん! ヴォルフガング! だだだ大丈夫⁉︎」
「……ふん、大事ない」
謝られたヴォルフガングは、一瞬ほっとしていた表情を隠し、ムスッと、青い顔のエリノアを睨む。
「ほ、骨……背骨が折れたんじゃない⁉︎」
「……貴様の尻如きで折れるか!」
ブルブル震える手で背中の毛をまさぐられた魔将が呆れギレしていると、そこへ必死な顔のブラッドリーがやってくる。
「ヴォルフガングありがとう……! ね、姉さん大丈夫⁉︎」
エリノアの傍らに膝を突いたブラッドリーは、心配そうに姉の額を見て。その眉間が赤くなっているのを確認すると、青い顔を一瞬歪め、こちらが泣きそうな表情をする。(……ちなみに……主君に礼を言われたヴォルフガングは超絶嬉しそうだ)
詰めよって来る弟に、エリノアは頷く。
「う、うん、大丈夫。ご、ごめん、考え事をしてて……」
「ね、姉さん! だからって! さっきからぼうっとして危ないよ……! お願いだから、もうちょっと前とか足元とかに気をつけて!」
ブラッドリーが懇願する背後には……先ほど心あらずの姉がうっかり落とした夕食用の食器が割れて散乱している。それだけではなく、帰宅してからのエリノアは、どうにもぼんやりしていて危なっかしい。
食事中もずっと何かを考えているらしく、何もささっていないフォークを口に運んで咀嚼してみたり、飲もうとしたコップの水を全部こぼしたり。扉を開けずに部屋に入ろうとして顔面を打ち、面白がったグレンのからかいにも一ミリも反応しない。
とにかく注意力散漫というレベルの話ではなかった。それは弟魔王が半泣きになる危険域である。
そんな姉を見かねて、とにかく風呂にでも入って落ち着いて来てと着替えを渡したら、今度はこの有様で。なんとか姉に怪我をさせないようにと、必死にフォローしていたものの、結局エリノアの額にタンコブを作ってしまったブラッドリーは両手で顔を覆ってさめざめと嘆いた。
「ね、姉さん……! もうそれ以上怪我しないで……! コ、コーネリア! 姉さんをお風呂でゆっくりさせて来て!」
「……へ? ぁ、そうだった……お風呂……でも……今はそれどころじゃないっていうか……」
弟の悲鳴のような言葉に、エリノアが一瞬表情を曇らせる。──が。その間に炊事場からコーネリアグレースがやって来た。女豹婦人は居間の惨状を見て、さも愉快そうに笑う。
「あらあら、ふふふ陛下に泣きべそかかせるなんてさすがエリノア様。なんて命知らず。いけないお姉様ですこと。ほほほ、かしこまりました。あたくしにお任せください。さ、行きましょうエリノア様。マリー、マール、マダリン! お前たちもいらっしゃい!」
婦人が呼ぶと、窓辺で煮干しをぽりぽりかじっていた、トワイン家の勇者懐柔担当三姉妹が、ぴょんぴょんぴょん……っと婦人の身体にへばりついた。婦人はにっっっこりと微笑む。
「さ、マリモパラダイスのお時間ですわエリノア様。ここの片付けはあなた様の忠実なる聖剣にでも任せて、さっさと服をお脱ぎになって? あたくしが疲れも、お悩みに凝り固まった頭皮もすっかり和らげて差し上げますからね」
「え……? い、いえ、それより私考えることが……ヴォルフガングの背骨も……あ? あれ?」
一瞬、隣に横たわるヴォルフガングに手を添えたエリノアだったが……その手をがっしり婦人につかまれる。ニンマリ笑った強圧的な魔物の婦人は、問答無用でエリノアを風呂に連行した。
シリアス中だろうと…トワイン家はまあこんな感じです。
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