6 アリクイの威嚇
「ブレア様……!」
青年が自分を見ていると気がついて。優しい灰褐色の瞳と目が合ったエリノアは、心の中に、パァッと大輪の薔薇が咲き広がったような気がした。
胸の中が、薄紅色の花びらでいっぱいになり、幸せ気分。顔面が蕩けて、向けられた笑顔に笑みを返そうとして──……
エリノアはハッとした。
「あ……っ」
己の立場と、そして何より、現在の己の格好を思い出した。
王子殿下の私室の中で、プルプル震える足の指先だけで立ち、伸び上がった己の姿。半端に広げていた両手がなんともいえず、間が抜けている……
その姿はまるで、立ち上がって威嚇するアリクイのようで…………
──エリノアは確信した。
この姿は……客観的に見ると、だいぶん……いや、かなり滑稽に違いない……
(ぅ……)
残念なことに……アリクイのようなアニマル的な可愛らしさが自分にあるとも思えず。エリノアは──ああそうか、と、沈痛の面持ち。
ブレアが笑っていたのは……自分を歓迎してくれたなどということではなく、このみっともない格好を見てのことだったのだ……
(……は……恥……)
やってしまったとエリノアの顔が一気に赤くなる。
ブレアの笑顔を見て、とっさに喜んでしまったが──違った。
(お間抜けさを晒して笑われただけだったのね……そ、そりゃあお笑いになるはずよ……)
侍女という立場にありながら、横になっている主人の顔を覗き込もうとこっそり背伸びをしているところを、あろうことが主人本人に目撃されるなんて。ブレアが『こいつ何やっているんだ』と、呆れたって仕方がない。
しかも無作法ではしたないばかりか、これでは己がものすごくブレアの顔が見たかったようではないか。いや──見たかったようも何も──……
(み、見たかった……ものすっごく……っ見たかったんだけど……っ!)
正直な自分の願望が胸にドスッと突き刺さって──エリノアはグフッと吐血しそうな恥ずかしさにみまわれる。
相手がブレアなだけに、余計である。
(しゅ、羞恥……なぜ自重しなかった自分よ……)
なんともきまりが悪い思いのエリノアは、心の中で頭を抱えつつ、ブレアに向かって頭を下げた。
「ご、ご無礼を……無作法でした、も、申し訳ありません……」
「…………」
機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく謝ってくる娘に、ブレアが目を細めている。
……実のところ──エリノアの苦悩とは裏腹に、彼は嬉しくて堪らなかった。
目まぐるしい職務の合間のこの時間。
重い身体を引きずるようにして、彼はここへ戻って来た。
それはひとえにここで見たい顔があったから。だが……
その“見たい顔”であるエリノアは、部屋付きの侍女とはいっても、まだここでは新入り。下っ端仕事で使いに出ていることも多かった。
──案の定、今日もすれ違ったらしく、ブレアがここへ到着した時、エリノアはいなかった。
それを他の侍女たちから知らされたブレアは、表情こそ変えることはなかったものの、内心ではとても落胆した。彼女がいないと知らされた後に見る私室は、なぜか嫌に暗く見えた。
けれども。こればかりは仕方ない。会いたいからといって、仕事がある身を命令で部屋に留め置いておく……などということはしたくなかった。
やれやれとブレア。
心身ともに疲れ切っていて。気持ち的には癒しを求め、エリノアを探しに行きたいくらいだが……不眠不休で働いた後の身体は鉛のようで。
代わりがきかない職務を抱える自分は倒れる訳にはいかないのだと、ブレアは仕方なしにまずは身体を休めることを選んだ。
──しかし、そうしてしばらく立った頃……『侍女を交代させる』という侍女の声がした。
長椅子に横になったまま短く了承の意を示すと、扉が閉まり、静かに絨毯を踏む気配が近づいて来る。
ブレアは目を閉じたまま、息を吐いた。
それは、ほとんど足音もない気配だったが、それでもブレアには分かった。
途端、静まりかえった部屋の中に軽やかな春の風が吹きこんできたように感じた。侘しさを追い払う、はつらつとして暖かな風。
──目元を覆った片腕の下で、ふとブレアの口の端が持ち上がる。
(……暖かさを感じるのは、我、想いゆえか……)
ブレアはクスリと笑って。そのまましばらくは、室内を移動していく気配を静かに耳で追っていた。
部屋の主に配慮された、足音があるかないかの丁寧な足運びの律動。それを聞いているだけで、心が整い、安らぐ気がした。
と、控えるべき場所にたどり着いたのか、足音の主が立ち止まる。
しかし何やら動いている気配はする。
(?)
何か作業をしているような音もせず。ブレアが不思議に思って目を開けて見ると──エリノアが、彼の様子を窺おうと必死に身を左右に動かしていた。
その動作の愉快さに、ブレアはとっさに笑いを堪える。
けれども、どうやらその場で身体を動かすだけではよく見えなかったらしい。困ったなという顔の娘。の、少しでも視点を高くしようと、一生懸命上げられる小さなかかとが──なんともいえず可愛らしくて。
それだけのことが……彼の心をこの上なく満たした。
気がつくと、彼は堪えきれず笑い声を立てていた。
そうして彼が急に笑い出し、起き上がると。どうやら驚かせたてしまったのか、エリノアはオドオドして挙動が落ち着かず、いやに顔が赤い。
その姿を優しい眼差しで見つめながら、ブレアが穏やかなトーンでつぶやいた。
「……不思議だな……」
「え?」
彼の声に、頭を下げていたエリノアが顔を上げる。
相変わらず、緑色の瞳がきれいだと思った。(なぜか顔面は汗だくだが。)
──ブレアは。
現在の己を取り巻く状況を、困難な試練だと感じている。
手を尽くしても成果の出ない聖剣捜索。冷静ながら、不安を覗かせた兄。不穏な動きを見せる弟王子と側室妃に、様々な者達の思惑に揺れ動く国内の情勢。
国民たちにも、その空気はすでに伝わりつつあるように思う。
この、今の不安定な自国の様子を目の当たりにしていると、ブレアは否応なしに焦りを感じてしまうのだ。混迷に進みつつあるこの状況を打開するには、きっと、己が捜索を任された“聖剣”と“女神の勇者”が必要なのだと。
女神のもたらした希望は、きっと、正しき力となって国のあり方を正すだろう。
……しかしそう思えば思うほど、彼の感じる重圧は日に日に強くなった。だというのに、ありとあらゆる手段を用いても、“聖剣”の行方は手がかりすら見つからない。持ち出された経緯すらいまだに分からないのだ。本当に、霞のように消えてしまったかのように。
では、何かしらの魔法──例えば転移魔法のようなものが使われたのかと調べさせても、王国の魔法使いたちはその痕跡を見つけられない。
『少なくとも、自分たちが扱うような魔法が使われた痕跡はない』
それが彼らの見解だ。
──ブレアは苦悩した。
成果が得られぬことを、クラウスやビクトリアたちに謗られることなどはなんでもない。
だが、自分では兄や父の役には立つことができないのではないかと思うことはとても辛かった。
二番目の王子として生まれた彼は、自分が国王と王太子の防波堤としての責務を課せられていることを心得ている。
上を支え、その座を狙う下の者からの攻撃を防がなければならない。そうした自覚が、彼の堅苦しい性格を築き上げたと言えるし、王家という家族の中で、間に立つ立場の彼が苦悩を募らせてきたとも言える。
しかし、自分は“支える側”であり、裏方に立つ者だと理解するがゆえに、彼は弱音を吐かないし、気持ちを吐露するのも苦手だ。
困難に出会えば原因に立ち向かい、それで解消されなければ、耐える。不動の岩のように、ひたすらに。
そんな自分の生き方は、きっともう変わることはないだろう。
そう思っていた。
……けれども……
「…………」
ブレアは顔を上げて、エリノアを見る。
「……お前を見ると気持ちが明るくなるな……」
つぶやくように言って、ブレアはただ、エリノアを眺める。
そうしていたかった。
そうしていても、己を取り巻く厳しい状況は何一つ変わらないが、苦悩が和らぎ、心は幸せを感じた。
──変わらぬのに、幸せを感じる。それが、尊いことのように思えた。
苦しい渦中にあっても、幸福を感じるられることを知り、感じられる相手がいることに気がついて、ブレアは思わず口元を綻ばせた。
「……光のようだな」
お読みいただきありがとうございます。
だいぶん空いてしまいました。
目のためにゆっくりしていたのもありますし、ここでブレアに“どこまで言わせるか”を悩んだせいでもあります。
まだ少し悩んでますが、その結果は次話にて。




