20 給料大事
くぁっ、と欠伸をする音がして、それを隣で聞いていたモンターク家の主人は笑う。
「なんだ、リード、朝っぱらから欠伸か。弛んどるぞ」
「あ、いや……」
「なんだ、結局昨晩はエリノア嬢ちゃん来なかったのか? ……お前も苦労するなぁ」
決まりの悪そうな顔の息子に、主人は健康そうなまるい顔を破顔させた。
「いや、俺は別に待ってたわけじゃ……エリノアが医者の代金持ってくるって言うから仕方なく……」
「お前も、肝心なところで男らしくないな……お、嬢ちゃんだ」
「!?」
父の言葉にリードがギクリと顔を上げる。と、店の向こうの角をエリノアが曲がって来たところだった。
主人は抱えていた荷を店の前に置いてエリノアに手を振っている。
「俺が言ってやろうか? 嬢ちゃんが昨日なかなか来ないからリードが夜中までそわそわして待ってたって」
「はぁ!? そわそわなんてしてねぇよ! あ……おい、親父、早く店に入れって! 余計なこと言うなよ!?」
「あーやれやれ、まどろっこしい……」
主人は呆れたように笑いながら店の中へ引っこんで行った。
そんな父をリードは苦々しく見送る。と、そこへ、どこか重い足取りのエリノアが近づいて来た。
「おはようリード、昨日はごめん……お金持っていけなくて……」
「いや、それはいいんだけど、どうした? 顔色が悪いぞ……」
エリノアの目の下にはくっきりとクマが浮かんでいる。朝から疲れたような足取りも気になった。
「大丈夫か?」
「うんちょっと寝不足で……はいこれ。ありがとう、助かりました」
エリノアは歯切れが悪く頷きながら、昨日支払いそびれていた医者の診察代金をリードに手渡す。ぺこりと下げられた後頭部にリードは眉を顰める。
「もしかしてブラッドまた調子悪いのか?」
「……い、やぁ……」
問われたエリノアは微妙そうな表情を浮かべてため息をつく。
「そうなのか? 俺ちょっと様子見に……」
エリノアのため息を肯定と取ったのか、リードが前掛けを外して走りかける。が、エリノアはその腕に慌ててしがみ付いた。
「ノア?」
「いや、大丈夫! ブラッドも体調はいいの。まだちょっと寝てるけど……顔色は本当びっくりするくらい良くなったから!」
大丈夫だから、お店の仕事頑張って! と言いながら、エリノアは懸命にリードを押しとどめている。
エリノアは必死だった。
なるべく──今は自宅に誰にも近づいてほしくない。
特に──あの性悪猫に、リードやモンターク家の優しい夫妻たちを近づけるのには抵抗があった。
エリノアはげっそりしながら今朝の疲れるやり取りを思い出す。
──ムカついた勢いに任せ、散々ブレアなグレンを撫で回したあと。『で?』と、エリノアは聞いたわけだ。何故こんなことをと。
すると──白い目で迫るエリノアに、グレンは少しも悪びれる様子も見せず、ニヤリと一言。
『いい反応でしたねぇ、姉上』
『はぁ!?』
エリノアが表情を歪めると、小憎らしい顔をした男は黒猫の姿に戻り、『これは期待できそうだぁ』とか言いながら、そのままひらりとどこかに行ってしまったのだ。
その顔がいかにもしめしめと言う表情をしていて……エリノアは非常に不安だった。あれは絶対何かを企んでいる。
「……くっ、何がいい反応だ!!」
「おい……なんなんだよ、お前大丈夫か?」
突然、赤い顔でカッと目を見開いて、意味不明に怒り出したエリノアにリードが驚いている。
「あ、すみません、こっちの話です、お騒がせしました……」
「おいおい……本当に大丈夫なのか? 疲れ、溜まってるんじゃないのか……? 最近試験だなんだって休みなしで出勤してるだろ、たまには休み取らせてもらえよ」
「や……またいつブラッドのことで休ませて貰わなくちゃいけなくなるかも分からないし……それに……」
昨日の聖剣の件もある。
エリノアだって、まさか、あんな己の説得だけで、王子が引き下がってくれるとは思っていない。このままノコノコ王宮に出勤してもいいものか、不安もある。もしかしたら──この都を離れる必要だってあるのかもしれなかった。
こんなことをもし誰かに相談すれば、素直に聖剣を抜いた者として国に従えばいいじゃないかと言われるかもしれない。
だが今や、エリノアが聖剣を拒む理由は、苦労してつかみかけている上級侍女職を失いたくないという理由だけではないのだ。
何より──ブラッドリーである。
──魔王と勇者。
一般的な常識で言えば、それは対峙する、相容れない存在のはずだ。
聖剣を受け入れるということが、ただ、女神の勇者になるということだけではなく……弟と対峙するという意味を持ってしまった以上、エリノアにはそれを受け入れることはできない。可愛い弟を討つという剣を、どうして姉である自分が手にすることができるだろうか。彼が何者であれ、まだなんの罪も犯してもいない弟だ。守る以外の選択肢がエリノアにあるはずがない。
──もう上級侍女職がどうとか言っている場合ではないのだ。
「それに、何だ?」
言ったきり黙りこんでしまったエリノアに、リードが不思議そうに首を傾げている。エリノアは心の内をごまかすように笑って言った。
「や、ほら……今日、お給料日だから……」
「ああ、そう言えば今日は月末か」
リードは気がついたように頷く。
──そうなのである。それもあるのである。
昨晩も、魔物の気配に怯えながらエリノアは夜通し散々考えたのだ。
現状は厳しい。立ち向かわねばならぬのが、国の王子と未知の魔物なんて、勝ち目がなさ過ぎる。
だが、ひとまずは、弟を守る為に先立つものが必要だという考えにエリノアは行き着いた。
それがなければ日々の生活もままならない。もし弟を連れて逃げるにせよ、金銭がなければすぐに路頭に迷ってしまうことは目に見えていた。
現状は厳しい。厳しいが、そうであってもお腹はすくし、金は要る。
昨夜王子の手は自宅にまでは伸びなかった。それをまだ身元が割れていないのだという可能性に賭けて、エリノアは王宮に行く決断をした。今月分の給金を得るために。
(……貧乏が恨めしい……)
エリノアはため息をついて、そしてリードに笑って見せた。
「ありがとうリード、とにかく頑張ってくる」
ブラッドリーを魔物二人に預けているのは不安だが、昨夜の様子を見る限り彼らがブラッドリーに危害を加えるといったことはなさそうだった。エリノアが家を出る時も、もっふりしたヴォルフガングが可愛げのない顔で『言われなくとも陛下は私がお守りする』と“私”を強調しながら胸を張っていた。おそらくそれは、信用ならない黒猫からも、という意味であろうと、エリノアはなんとなく察した。
「あんまり無理するなよ? 今日も何か夕食作っといてやるよ。」
「うん、ありがと……あっ!? そ、そうだ……」
一瞬心配そうに見送ってくれるリードの優しさにホロリとしかけたエリノアだったが……そうだったと慌てた様子で彼の瞳を見上げる。
「どうした?」
「今日の昼間なんだけど……ブラッド本当に調子いいみたいだし、他の……し、知り合いが来てくれてるから……リードたちは様子見に行かなくて大丈夫だから。おばさんにもそう言っておいてくれない!?」
リードたちと魔物を鉢合わせさせる訳には行かないエリノアは必死である。
「え? でも……わっ!?」
リードがキョトンと言葉を返すと、エリノアはその肩をがしりとつかみ、己のほうへ引きよせる。
鼻がくっ付きそうなほどの距離で凝視されてリードがほんのり赤い頬でうろたえている。
「ノ、ノア?」
「……お願いだから……今日は、家……行っちゃ、だめ、よ……?」
「…………エリノア、顔こえぇ……」




