110 グレンのお手伝いという名の悪ふざけ
──久々だと。黒猫が悪ノリをしている。
己が生み出した黒い霧の中に身を潜ませながら、唖然と立ち尽くしている男たちをグレンはせせら笑う。
ここのところ、ずっと人の街で大人しくすることを課せられていた黒猫は、久しぶりにエリノア以外の人間を驚かせられることが愉快でならなかった。
空に稲光を走らせば男たちは身をすくめ、地に黒煙を這わせればギョッとする。
それを笑い転げる黒猫が、いったい何をしているのかと言えば……クラウスに絡まれている騎士を救出したいと言うエリノアの手伝いだった。
箱に詰めこまれてここまで来た彼女は、シーツを台無しにされたことも、騎士らのガサツなやり口にも心底カチンと来ている。……が、かと言って、箱詰めのエリノアをクラウスの手から守ろうとした彼らを放っておくこともできなかったらしい。
必死な顔でグレンに『手伝って!』と言うもので……最近妹たちばかりがエリノアに可愛がられていて不満だった黒猫はまんざらでもない。すっかり気をよくしたグレンは、上機嫌でどんどん黒煙を生んでいく。
……が、しかし……実はエリノアがグレンに頼んだのは、転送術による箱からの脱出だけだったりする。
クラウスに対する不安と騎士たちに対する激怒で、足下への注意力が著しく低下していたエリノアは、魔物の悪ノリに気がついていない。グレンが煙の中で尾をくねらせながら笑う。
(あはは、私が思いっきり盛り上げてあげますからね♪)
ニヤニヤと悪そうな顔をする魔物だが……しかしグレンにも一応考えというものがあった。
エリノアは、なんとかクラウスに事態を誤魔化して逃げるつもりのようだが……グレンの見た限りでは、あの第三王子はそう簡単に口三寸で煙にまけるほど容易そうには思えない。それで──この雷と黒煙のエフェクトである。多少脅かしてやったほうがいい。迫力重視、見た目を派手にしてビビらせてやろうと、グレン。
(だってそのほうが逃げやすいでしょ。うーん……いっそのこと瘴気の濃度を上げてやろっかな……)
そのほうが色々派手でいいとグレン。
彼の身体から生まれる黒煙はごく薄い瘴気だった。しかし濃度によっては触れた人間は魔障に冒され下手をすれば命を落とす。
だがグレンにとっては人間の王国などどうでもいい話。騎士が死のうが王子が一人くらい死のうが関係ないのだ。むしろ王子が瀕死にでもなれば、連中も騎士やエリノアたちを構っているどころでもなくなるだろう。
それに、とグレン。王城がカラになれば、ブラッドリーに献上できるなぁなどと、邪な考えが浮かんでくる。
(…………えへ)
エリノアの背後でグレンはニンマリと口の端を持ち上げて。その背が猫が怒る時のように山なりになったかと思うと──墨を流したような黒煙が噴き出した。それはグレンの背の左右に翼のように広がって。
煙の中に黒い獣の影が蠢く様子を目撃した侍従たちが、小さく悲鳴を上げた。男たちは、あれはいったいなんだとざわつきはじめたが──その足元へ這い寄って来る瘴気の危機には気がついていない。
地を毒し、人に魔障を与えて死に至らしめる毒霧は、地を這うようにしてゆっくりと人々に向かって行った。
それをしめしめと窺いながら、悦にいるグレン。調子に乗った黒猫は身体からどんどん瘴気を生んで行く。
忍び寄る瘴気はじわりじわりと、蝕む対象を目指して──……
だが、その時だった。
グレンの標的たちの前で、仁王立ちして騎士らを睨んでいたエリノアの、その足元を煙が通過して行こうとした──……その一瞬。
瘴気の流れを視線で追っていたグレンがギョッと目を剥いた。
(……あれっ!?)
まんまるになった青い瞳に、エリノアの足元でバチッと何かが輝いたのが映った……かと思うと。それはそのまま黒煙の中で破裂音を連鎖させて──
次の一瞬、もやの中で何かが砕けるように、小さな光の粒がキラキラと舞い散るのが見えた。
(…………)
──消されていた。瘴気が。
場の瘴気がグッと薄くなったのを感じた魔物は、霧の中でしばしぽかんと黙りこむ。──……が、気がついた。
いつの間にか、遠くの木の上に聖剣が佇んでいる。緑葉の影にひっそりと立ったテオティルは、エリノアをじっと見ていたが……グレンが己を見ていることに気がつくと、にっこりと美しく微笑して見せる。
(…………)
途端グレンの口が、チッと舌打ちし……だが、次いで同じ口から、プッと噴き出すような笑いが飛び出した。
(あーあー……)
なるほどなるほどこうなるのかと……青い瞳が諦めをにじませつつ見上げるのは、一つの背中。
遠巻きに聖剣がこちらを見ているが、グレンには分かっていた。聖剣が何かをしてるわけではない。しているのは──この、背の持ち主だった。
普通なら、人は一発で魔障に犯されるだろう毒気を含んだ瘴気。その中に──ホウキを手に大股を広げて立つ娘の背。
相変わらず攻撃力も防御力も低そうな双肩。箱から抜け出して、慌てて走って来たもので、息もぜろぜろと上がっている。
──だというのに。
エリノアは、瘴気の中でも平然とそこに立ち、あまつさえそれを一瞥もくれることなく浄化してしまった。
(……あはは)
ヤな感じ、と呟きながら、グレンは苦笑する。
娘は騎士たちに憤慨しており、己の足元も、空の上のバリバリと天を裂くような稲妻をもそっちのけ。呻くような声で「騎士」「シーツ」と繰り返している。
それでも──エリノアの聖の力は、主人の意思とは関係なくグレンの瘴気を次々と浄化していく。バチバチと泡が弾けるような音と光を生みながら、綺麗さっぱり、ものの見事に。
少しだけ、グレンの瞳に警戒の色が浮かんだ。
(あーあ、気がついてなくても浄化しちゃうのか……)
瘴気がエリノアに効かないことは織りこみ済みの事態だが、気がつかれなければいけると思っていた。浄化までされてしまうのは予想外だ。エリノアの力は、彼女に触れたものだけではなく、彼女から離れた場所を進んでいた瘴気にも及んでいる。
(あれ無意識なのかな、怖っ! でも……ぜんぜん制御してないという訳でもなさそうだけど……)
オートなようで、瘴気の中にいるグレンまでは消そうとしてこない辺り、無意識でもかろうじて制御できているような節もある。
(ふぅん……)
グレンは考える。
エリノアのせいで瘴気はほとんど浄化されてしまった。もうそれは人間に魔障をつけられる濃度ではない。
(せっかく濃い目にしてみたのに……このまま瘴気を追加してっても無駄になりそうだな……)
それにあそこに聖剣が控えているということは、あまりやりすぎると滅するぞという脅しでもあるのだろう。
(ちぇー……)
心の中でぼやいた黒猫。しっかし派手だなと呆れる。
エリノアが無意識に瘴気を浄化しているのはいい。が……そのせいで、本人の気がつかないところで彼女の足元は余計派手な追加効果がかかっている……
禍々しい色の煙の中で、浄化の力が働く時、それは小さいが激しい輝きを伴った。
それに加え怒りに呼応するような稲光。足元のくすぶったような色の煙もどんどんエリノアに消されているが、グレンが流し続ける限りは健在である。
結果──……周囲から見たエリノアの立ち姿は、はからずして異様。そして……すこぶるに物々しい。
人間たちも、まさか自分たちがそんな娘に守られているとは思わないのだろう。何も知らない人間たちが、驚愕の眼差しでエリノアに慄いているのは愉快極まりなかった。
(いやー……見応えがある……)
グレンは、流石姉上と目を細めて笑った。
(ま、効果はなくてもいいか)
ケロリとした黒猫は、彼女を見ている連中をせいぜい驚かしてやろうと含み笑いを響かせながら、煙の中を泳ぐように瘴気を撒いていった。もはやエリノアにそれが浄化されようが気にしないことにしたらしい。ハッタリでもいい、人間を驚かせられるなら。特に、と、グレン。その獲物を狙うような目が、建物の中から呆然とエリノアを見ているクラウスたちを捉えた。
(ああいうのはビビらせ甲斐があるんだよね……)
あは! と、黒猫は弾けるように笑う。
「寿命、二十年分くらい縮めてやろっと♪」
お読みいただきありがとうございます。
グレン、相変わらずの性根です。
そして相変わらずの鈍感スキルをフル発揮するエリノア…
長くなったので、エリノアターンは分割…チェック頑張ります!(°▽°)q




