19 ブレアの祈り
──少し時は戻る。
エリノアに逃げられた後、ブレアは駆けながら、今後己がどう動くべきなのかと言うことを考えた。
聖剣の主人は決まってしまった。
それがどのような人物であれ、そのことを今、本人以外で唯一知る者となれたのは幸いだった。
問題は──政敵にこのことを知られるわけには行かないということだ。
王位継承権を持つそれぞれの王子たちが、その存在を知れば必ず“勇者”を得ようと動くだろう。
そうなる前に、ブレアが“勇者”を保護するには、ことを何もかも秘密裏に行う必要があった。
王宮内には様々な人間がいて、どこに敵の手の者が潜んでいるかはわからない。
そのような中でいかに動くかは、慎重に考えなければならない問題だ。
ブレアとしては、すぐにでも娘の身元を割り出したいところだが──軽々しく人を使う気にはなれなかった。下手をすればそこから情報が漏れてしまう。
かといって、あまり己が動きすぎれば立場上政敵の目にもつきやすい。もちろん己の側近たちとて同じことである。
──どうしたものかと考えながら……ブレアは聖殿の庭を出て、王宮に戻るための回廊を駆けていた。と、そこで彼は足を止める。
「……!」
回廊の先からこちらに向かってくる一団があった。ブレアはその中に、今一番会いたくない人物の顔を見つけ、内心で舌打ちをする。するとその一団の先頭に立つ人物もブレアに気がついて足を止める。男が手のひらを持ち上げると、彼の後ろにぞろぞろと付き従っていた者達も従順な様子で足を止めた。
幾人もの取り巻きを引き連れたその男は、ブレアに上っ面だけの笑顔を向けてくる。
「おや、これはこれは……兄上、そんなに慌ててどこへ行かれるのですか?」
面長で、ブレアよりやや褐色に近い金の髪の男は笑んだまま、ブレアに数歩近付いた。
「……クラウス」
そう呼ばれた男は、ブレアの身体越しに見える聖殿の白い建物に一瞬視線を移し、嘲るように笑う。
「相変わらず聖殿で祈っておいでなのですか、信仰心のお強いことで……」
無駄なことをと言いたげな男の様子に、後ろの取り巻きたちも口元を隠しながら同調して笑う。
そんな彼らをブレアは意に介しなかったが、クラウスはそれをいいことに己が兄を嘲るのをやめない。
「家族思いなのは結構ですが、そのようなしかめ面で祈られては、女神もさぞ不快な思いをされておいででしょう。聞きましたよ兄上、また、侍女を叱咤して怯えさせたとか。いかに取るに足らぬ存在とはいえ、そのようなことばかりしていては民心も離れますよ」
「……無駄に叱責した覚えはない。目に余る行いがあれば何者であれ正す。侍女であれ、お前であれな。……王宮の守り手も皆、国民であることを忘れるな。取るに足らぬ存在などとは聞き捨てならん」
ブレアの言葉にクラウスの視線が煩わしそうに細められる。
クラウスと呼ばれるこの男は、ブレアの弟、国の第三王子だった。近隣国出身の国王の側室を母に持ち、正室の息子であるブレアや王太子とは異母兄弟にあたる。
現在、彼とブレア達とは、王権を巡って対立関係にある。現状で、最も“勇者”の存在を知られてはならない人物の一人と言っていい。
(面倒な奴に会ってしまった……まさか何か見られていたなどと言うことはあるまいな……)
懸念を抱いたブレアは、“勇者”の娘が去っていった回廊の先を悟られぬようにそっと見る。
と、クラウスが目を細めたまま、ブレアと同じ方向を見て鼻を鳴らした。
「そういえば今、誰かが慌てて走って行きましたね? そのような偉そうなことを言っておいて……また侍女を怖がらせたのでは?」
その言葉にブレアの眉がわずかにピクリと反応する。
「正義感に駆られておられるのは構いませんがねぇ、険しい顔で正論を振りかざしてばかりでは、弱き者に怖がられるのは当たり前でしょう? 縁談も“また”流れたそうですね?」
「……お前には関係のないことだ」
ブレアは素っ気なくそう答えると、身を返した。
しかし、クラウスの言葉はその背に食らいつく。
「その、先日兄上が縁談を断られた隣国の王女ですがね!」
弟の声音の大きさに、ブレアは足を止め、わずかに顔を彼の方へ向ける。
横目の端で、クラウスは愉悦に満ちた表情でブレアを見ていた。
「……」
「ここに居る我が側近が彼の王女のお眼鏡にかなったらしく、この度、無事縁談がまとまったのです」
「ほう……それで?」
クラウスは口元で弧を描き、わざとらしい恭しさでブレアに微笑みかける。
「兄上が王女に嫌われて下さったお陰です。我らの派閥は隣国との新たな繋がりを得て、また一段と強くなりました。感謝いたします」
「……」
“我が側近”と示された、クラウスの背後に立つ男は、確か公爵家の男子である。その男もまた、クラウスと同じように優越感に満ちた口元を隠そうともせずブレアにこうべを垂れて見せた。
その様子にはさすがのブレアも少々辟易する。
クラウス達の言うその縁談は、隣国側から申しこまれたというだけで、特にブレアが望んだものではない。だが、確かにブレアと顔を合わせた王女が後に断りを入れてきたのは真実だった。
ただしそれは──欠けらも王女に興味を示さないブレアを見た相手側がひどく気を悪くした、というのがことの真相である。
もちろん無礼な行いをしたわけではない。ただ、王族であるブレアに持ちこまれる縁談の娘たちは、公爵家の令嬢や近隣諸国の王女など。えてして身分も、そして気位も高いことが多い。
それに対してブレアはと言うと……そういう相手の自尊心を満たすために、わざわざ思ってもない世辞を言うことや、己の立ち振る舞いを変えるということは、とてもつまらない行いだと考えていた。
『貴婦人には惜しみない賛辞を贈るのが礼儀である』
『それができねば立派な紳士とは言えない』
──そういう風潮の強い貴族社会の中で、ブレアはあまりその考えには馴染めないのだ。
人を褒めるのはよいことだ。しかし、贅を尽くして着飾った令嬢達をブレアはそれほど良いものとは思わなかった。
ゆえに……彼に舞いこんだ貴族令嬢との縁談のほとんどが、同じような流れで消えていく。
ブレアも女性に興味がないわけではない。だが、武芸の方が楽しいし、苦手な世辞を口にしてまで熱心に得たいと思うような女性には今まで出会ったことはなかった。
それで女性たちに『冷淡だ』『心がない』などと裏で言われていようが、ブレアにはどうでもいいことだった。
しかし、異母弟クラウスにとってはそうではないらしい。
王位継承権でも優位で、見目もよく、武芸でも己の上を行くこの異母兄が、こと女性から恐れられ、次々と縁談が破談になるということは、弟にとっては愉快極まりない弱点と見えているらしかった。
ゆえに、この面倒な弟は、時折こうしてわざわざ手下を引き連れては、ブレアを嘲笑いにやって来る。その執念たるや、少々目を見張るものがある。
今回も、ブレアの縁談が破談になったと知ったクラウスが、積極的に側近と王女の話をまとめたのだろうと言うことは薄々ブレアにも分かっていた。そういうことを嗅ぎ付ける嗅覚には、非常に優れた男なのである。
ブレアは己に向けられるくすくすひそひそと煩わしい笑い声の中で、そんな弟王子を冷静な目で見る。
幾ら笑われようとも構わないが、この弟には、何があっても“勇者”の一件を知られる訳にはいかないと思った。
策謀には長けてはいるようだが、とても聡明で慈悲深い王太子を押しのけて王座に座れるような器ではない。
嘲りと愉悦に満ちた表情には、かつて見ていた幼い弟の愛らしい面影は欠片も残ってはいなかった。
(それも王権争いがゆえか……)
ため息をついて、ブレアは弟に淡々と返す。
「では感謝の礼に、私は明日も女神に祈ろう」
「……は?」
「お前のその嘲りに曇った目が清められるように。その目では、王座の大義も見えるまい」
途端、不快そうに気色ばんだ顔色を横目で見ながら、ブレアはさっさとその場を立ち去った。
「あいつ……! 私には王座に座る資格がないと言いやがった!」
残されたクラウスは、毅然としたまま去って行く兄の背を憎々しげに睨んでいる。
激高した王子に側近が恐る恐るといったふうに問いかける。
「クラウス様、どうなさいますか……?」
「どうもこうもない! あいつをしっかりと見張らせろ! 絶対に弱みをつかんであの取り澄ました鼻っ柱をへし折ってやる……!」
おかげ様で体調も回復してきました。
これからは無理せず進めて行きたいと思います。




