95 違和感
エリノアは驚いた。
「……え?」
リードはエリノアを見た瞬間、一瞬だけたじろぐような素振りを見せた。リードの足がジリっとほんの数センチだけ下がって。それを目撃したエリノアはその意味が分からず彼をぽかんと見上げる。
リードの様子がおかしい。自分を凝視する空色の瞳には、明らかな動揺が見て取れた。
「リード……?」
思わずエリノアの口から上擦った声が出る。
ぶつかりそうになって驚いた……というだけにしては、青年の表情が固い。
リードはいつでも姉弟たちにあたたかな視線を向けてくれていて。この気のいい幼なじみの青年に、彼女はこれまでこんな表情を向けられたことはなかった。
無茶をしがちなエリノアを心配してリードが叱るようなことはあっても、彼とは小さな喧嘩すらしたことがない。 戸惑ったエリノアはオロオロした顔で幼なじみを見る。何か自分は彼を困らせるようなことをしてしまったのかと記憶を探るが心当たりがない。が、ふと弟の言葉を思い出した。
(……え……まさかグレンが変化を見られた件で何か……)
そうハッとした瞬間……見上げる青年も、ハッと夢から覚めたような顔をした。
彼は自分がエリノアを戸惑わせていることに気がつくと、慌てて何かを振り払うようにいつも通りのにこやかな表情を作って見せた。箱の当たったエリノアの背を案じてから、どうしたのかと彼女に聞いた。問われたエリノアはまだ戸惑ってはいたが、おずおずとメイナードを迎えに来た旨を告げる。と、彼は心得た様子で出入り口付近に箱を置き、メイナードを起こしに行ってくれた。
老将を優しく揺り動かして目覚めを促すリードの表情はほがらかだ。──が、エリノアは、その表情を見て困惑を深める。
エリノアはリードとは長い付き合いだ。そんなエリノアには、彼が珍しくとても緊張しているのが分かった。
リードの顔にはりついた笑顔は、本心を隠そうとするようにどこかよそよそしい。違和感を覚えたエリノアは、どうしたのかとリードに聞きたかった。しかし……リードの笑顔はそれを拒んでいるかのようでもあった。
「……」
メイナードを連れて家に戻る道すがら、エリノアはふと足を止めて後ろを振り返った。
視線の先にはモンターク商店。外から店の中を覗く白い犬の背が小さく見える。
そこに──リードの姿はもうない。
別れ際、足早に立ち去ろうとするリードにエリノアは思い切って聞いてみた。何かあったのかと。しかし青年は、一見いつも通りの顔で、何もないと笑って首を振るだけだった。
(……本当に?)
立ち止まったままのエリノアはモヤモヤした気持ちを持て余す。
リードは自分たちに嘘をついたことはない。その言葉を信じたいが、先ほどのリードの表情がどうしても引っかかっていた。
ついつい重いものを喉から押し出すようにため息を溢すと、それを聞いたメイナードが寝起きの顔で不思議そうにエリノアをのぞきこむ。
老将は立ち止まったままのエリノアにモゴモゴと小声でどうしたのかと問うてきた。優しい色の髭を蓄えた老将の顔を見ると、所在なさげだったエリノアの顔が少しだけほぐれる。
「あ……いえ、その……リードが私の目を見なかったから……」
それがちょっと気になってと小さく答える娘は、とても不安そうだ。
こんなことは今まで一度もなかった。
いつだって、怒っている時も、悲しんでいる時でも。リードは真っ直ぐに自分の目を見ていたのに。……そう思うと、エリノアは心にぽっかり穴が空いたような気分になる。何にせよ……理由もなく人はあんな顔をしない。
なぜだろうか、とても嫌な予感がした。
沈んだ気持ちで自宅の扉を開けると、その瞬間「あらお帰りなさいませ」と、艶のある女豹婦人の声がする。
婦人はホウキを持って立っていて、メイナードの顔を見るとホッと胸をなで下ろす。
「ああ無事に戻ったのねメイナード。よかったわ、危うく訳のわからない掃除男と心中する羽目になるところよ」
「あ……コーネリアさん掃除終わらせてくださったんですか……?」
どうやら婦人は掃除をすませてくれたようで、家の中はきれいに片付いていた。
リードの反応が気にかかり、ぼんやりしていたエリノアは、それに遅れて気づいて礼を言う。と、女豹婦人は、いえいえこれも証拠隠滅の一環ですからと飄々と言い──そして彼女はスッと目を細めて廊下の隅へと視線を放る。
「それに目が覚めたときにまた散らかっていたら、また掃除が出来ないなどとレッテルを貼られるでしょう? まったく、このあたくしに向かってですよ? どういうことよ、失敬な。この整理整頓の魔術師に向かって青二才が……」
「え……?」
ブツブツこぼすコーネリアグレースは何かをホウキでゴスゴス叩いている……その物体を見て……
エリノアが「う……っ!?」と喉に息をつまらせて飛び上がった。
「ひ、ひぇっ!」
コーネリアグレースにホウキで小突かれているのは……玄関脇の隅に押しやられ、転がされたままのソルだった。
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