17 早朝の悪戯
「……ねえ、ヴォルフガング」
居間の長椅子の上に与えられた寝床でグレンが問う。
「……あの娘、殺さなくていいの?」
その静かな調子にヴォルフガングが首を持ち上げて、己の腹側にうずくまっていた黒猫の顔を見る。
黒猫は宝石のような青い瞳でヴォルフガングをひたりと見つめていた。
「……あの子の手、女神の印が現れてるけど……あれ、聖剣の勇者なんじゃない?」
グレンは、先刻眉間に不安そうなシワをよせながらも、二人に分厚い敷物と毛布を置いて行った娘の姿を思い出しながらそう続けた。
彼女には見えないようなのだが──ヴォルフガングとグレンの目には、はじめから、エリノアの手の甲に明るい光が宿っているのが見えていた。
日の光のような輝きの中に、光の濃淡だけで刻まれたそれは、女神の大木に刺さったままの聖剣の握りに刻まれたものとまったく同じものである。
「さっきあの子が茶を用意していた時、こっそり瘴気で攻撃してみたんだけど、印に弾かれちゃった」
あっけらかんと言ってくるグレンにヴォルフガングが渋い顔をする。
「……お前、あまり勝手なことをするな。陛下に知られればただではすまんぞ」
「そ? でも君は告げ口したりしないよね? だって、ただでさえ少ない陛下の配下がこれ以上減っちゃったら困るもんね」
「…………」
強かに笑うグレンにヴォルフガングは嫌そうな顔をした。グレンは知らん顔である。
「でもどうして勇者の弟として陛下が生を受けたのかな……もしかして、女神の策略?」
「……まあ、そうだろう。何もなくこのような偶然が起こるわけがない。何かしらの思惑があってのことだろう」
「もしかして勇者に陛下を抑えこませるため? 忌々しい……女神も小賢しいことするよ」
グレンが猫の顔を歪めて悪態をつく。
そこには女神に対する憎しみの感情がなみなみとこめられていた。
「ねえヴォルフガング、陛下はお怒りになると思うけど、勇者は始末しておくほうがいいんじゃない? もしあの女が陛下を狙ったら、陛下は抵抗できないと思う。瘴気は効かなかったけど、まだ聖剣は持っていないようだし……方法は幾らでもある」
しかしヴォルフガングは首を縦に振らない。
「……忘れたか、あの娘には手を出すなとのご命令だ。娘のほうも、あれだけ入れこんでいる肉親をそう簡単に聖剣の餌食にはすまいよ」
その言葉にグレンが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「そうかなぁ、人間は時々私達よりも残酷だよ。人の歴史を見ても明らかじゃないか。この国でも……何度も親子や兄弟たちが王権を争って殺し合っていたよ」
せせら笑う猫の顔にため息をついて……ヴォルフガングは静かに威圧するような表情を仲間に向けた。豊かな毛並みの中で瞳が黒曜石のように暗く輝いている。
「……もし、そのような時は……陛下の怒りを買おうとも、私が娘を始末する」
そうきっぱり宣言すると、ヴォルフガングはグレンに「もう寝ろ」と言い毛布の中に丸くなって瞳を閉じてしまった。
「…………」
グレンはしばし、その眠りに沈んでいく仲間の横顔をじっと見ていた。
「……私はそんな瀬戸際まで待つ気はないよヴォルフガング。……やっぱり、陛下には手足となり、剣とも盾ともなるものが……もっと必要だ」
その為には──誰を利用すればいいのか、それは明らかだった。
冷えた目で仲間を見ていたグレンの口が、ふと、呟く。
「…………ブレア王子か……」
グレンの青い瞳が冷たく光る。
──そうして次の朝──……
爽やかな小鳥達のさえずりを耳にしながら──……
エリノアは、隈だらけの目を大きく見開いて、その──男の顔を凝視していた。
「……………………、……………………」
「……ああ、目覚めたの?」
寝台の上で、目が覚めたままの体勢で固まっているエリノアに──にっこりと甘い微笑みが向けられる。
「……おはよう」
男は聞き覚えのある低い声で囁きながら、エリノアのまるい額に口づけた。
途端驚いたエリノアの身体がびくりと跳ねて、動揺した瞳が更に限界まで見開かれる。
そんなエリノアの様子に男はふっと微笑を浮かべ、彼女の横たわる寝台の枕元に腰掛けた。
彼の少し開けた白シャツは、朝日に照らされ薄くその内にある肉体の影を映している。爽やかなはずの空気は一変し、そこには危うい色香が匂い立っていた。
──これは……夢……?
エリノアの当然のようにそう思い、眉間には戸惑いのシワがよる。
エリノアは何事かを言いたかった。だが、言葉が上手く出なかった。
夢にしろ現実にしろ──普段のエリノアなら、侵入者には張り手でもかまして逃げ出すところである。
しかし。
その男が──いったい誰なのか……
それを判別したエリノアは、目を白黒させる。ただただ、身を竦ませるしかなかった。
(な、なんで……?)
何せ彼は……今、エリノアが一番出会うべきではない相手だったのだ……
「ぅ…………」
男は、寝台の上で寝起きの恰好のまま、次第にぶるぶるしはじめた娘をゆったりと灰褐色の瞳で見下ろしている。
と──不意に、ぎっ、と寝台が軋む音がした。
「え」
エリノアがあっと思った時には──
男は彼女の向こう側に手を突いて、エリノアを跨ぐようにして彼女の身体に覆いかぶさっていた。そのまま鼻と鼻が触れてしまいそうな距離で見下ろされ、固まっていたエリノアは──……
「ひっ、っ、っ、っぎゃああああああ!?」
男が更に顔を近づけてくる素振りを見せたことで──堪らず悲鳴を上げた。
声を上げたことでようやく身体の呪縛が解けたエリノアは、真っ赤な顔で布団を跳ね飛ばし、泡を食って寝台から逃げ出した。それから床の上で腰を抜かしながらその人物を振り返る。
「なっ、ななな、なん、なんで……っ?? ブ……、ブレア王子!?」
お読み頂き有難うございます。
やっと…色気的な……(。>ω<)




