82 リードと黒猫 ①
リードは──からの木箱を見つめたまま呆然と立ち尽くしていた。
空き地には、もう彼以外には何者の姿もない。辺りには穏やかな日常通りの光景が広がっている。見上げると、空は清々しく青い。
──それらを見ていると……今、自分が目撃したものが、何かの見間違いだったのではという錯覚に陥るが……
リードは、いや……と、己の左の頬骨のあたりに触れた。
そこにはつい今しがた鋭いものを突きつけられた感触が今もしっかりと残っている。改めてそれを確認すると、心臓の音は耳まで届くようにうるさくなった。
それを目撃する直前。彼はこの辺りを回り、預かった子猫の居場所を探し歩いていた。
母猫か、飼い主か……それも見つけられなければ、とりあえず自分の家で預かって、この小さな猫に新しい家族を探してやらなければならない。
普段から面倒見も良く動物好きなリードのところには、近所の子供たちがたびたび野良猫や野良犬を連れて来た。幸い店に来る客は多い。そんな中からいい引き取り手を探すことにも慣れっこだった。
リードは、腕に抱えた箱の中から自分を見上げてくる子猫に微笑みかけた。
「大丈夫だからな」
頭をなでると、子猫は鬱陶しそうに目を細める。しかし逃げはしない。
少し変わった猫だなとリードは笑う。鳴きもせず、怯えもせず、威嚇もしてこない。
つんと静かにすました様子は大人の猫のようだが、身体は小さい。
(……あれ?)
リードはふと、子猫がエリノアの家のグレンにとても似ているような気がした。が、しかしすぐに思い直す。
(ああ……でも違うか、グレンはオス……だったよな……?)
しかし正直曖昧だ。グレンはすばしっこくて、リードには全然懐いてくれない。
そういえば性別についてはエリノアにもブラッドリーにも尋ねたことがなかった。てっきりオスだと思いこんでいたが、もしかしたら……とリードは、グレン本人が聞いたらものすごく心外だと怒りだしそうなことを考えた。
リードは道の途中で立ち止まり、つぶやく。
「…………エリノアの家にも、行ってみるか……」
そう考えた途端、心がソワソワと落ち着かなくなった。
色々思うところはあるし、気恥ずかしさもあるが……やはりエリノアの顔が見られるのは嬉しかった。
俺って単純だよなぁと小さくため息をこぼしながら……リードは道なりに進んでいった。ここからエリノアの家やリードの自宅がある区画は近い。空き地の横を通り過ぎ大通りへ出ようとして──
リードはふと、目の端に捉えたものに──ぽかんと瞳を瞬いて立ち止まった。
「……ぇ……エリノア?」
リードはギョッとした。
通り過ぎようとした空き地の奥。そこに生えた一本の木の上に、たった今思い浮かべていた幼なじみの姿があった。──木の上に──である。
驚いた彼は、まず、何故そこに……と、思ったが……同時にああまたかとも思った。
彼女は自身に運動神経があまり備わっていないことを自覚していないのか……時々ああして無謀なことをやっては、ヒィヒィ言っている。
──昔、リードが男の子は虫が結構好きだと教えてやったら。その日一日行方不明になった挙句、バッタが捕まらなかったと言ってメソメソ泣きながら帰ってきたことがあった。
幼い令嬢がいなくなったとトワイン邸は大騒ぎになっていたが……なんでも、病床に伏せていたブラッドリーに見せてやりたかったとのこと。
たくさん擦り傷をつけて泥まみれになって。娘があまりに悔しげに悲しそうに泣くもので……当時健在だったエリノアの父も、とてもではないが、娘を強く叱ることができなかったらしい。
その代わり、リードは己の父に特大の雷を落とされた。……が、彼はエリノアに文句を言う気にはなれなかった。
それが何故かと言えば、リードはエリノアのそういうところがとても好きだったから。
時にそれは向こう見ずなこともあるが、ブラッドリーのためとなると、小さな身体から溢れ出てくる彼女のパワーは、得体が知れなくて、そして、すごい。
向こう見ずでも、無鉄砲でも。弟のために一生懸命になっている少女を、少年リードはとても尊敬していて、現在もその気持ちは変わっていない。
まあ、ただ……
どうか怪我だけはしないでほしいとリードは心底思っている。
それなのに。
そのやや無鉄砲な娘は、何やら木の幹につかまって、一生懸命枝先に向かって手を伸ばしていた。何をしているのかはわからなかったが、とにかく一旦エリノアを木から下ろそうと。慌てた青年は、抱えていた子猫入りの木箱を素早く地面に置いた。──その、瞬間のことだった。
リードが箱を下ろし、もう一度エリノアに視線を向けた時。
彼の視界を、何かが横切って行った。
黒い──
(──……猫?)
それは、奥にある民家の上から飛び出してきたように見えた。
駆けてきた黒猫は、身軽な跳躍で地面へ飛び降りると、そのままエリノアのほうへ一直線に駆けて行く。まるで──矢のような速さだった。
と、リードが一瞬そちらに気を取られた瞬間に、彼の視界の端で、エリノアが何かを追って木の上から跳んだ。
「な……っ!?」
リードが驚愕してエリノアを見る。いくらなんでもそれは無鉄砲が過ぎるだろう。
しかし視線の先ではエリノアが、あまりに無謀な姿で地面に落ちて行く。それを見たリードは咄嗟に地を蹴るが──
遠すぎた。おそらく自分が走っても間に合わない。……そういう絶望的な感情が一瞬頭によぎって──
──が、
「!?」
その刹那。驚くべきことが起こった。
それは駆け出したリードの二歩目が地面につくのとほぼ同時のこと。
何かが──エリノアの身体を空中で受け止めた。
硬い地面で頭を打ちそうだった娘が……瞬く間に救われた姿を目にしたリードは。思わずその場に立ち止まる。安堵──する余裕はなかった。
彼女をやすやすと救い上げたのは──……目を引く艶のある黒髪の、しなやかで華奢な……一人の少年だった。
リードはその姿をぽかんと見つめる。
彼は重さを感じさせない動作でエリノアを横に抱き、地面へ着地するやいなや、そのまま大きく跳躍して空き地の隣に立っている民家の上へと飛び上がる。
その人間離れした動きに、リードは息を呑む。
──いや、違うと青年は思った。
──“あれ”は、人ではなかった。
(今──…………猫が……)
その瞬間を頭の中で振り返ったリードは、言葉を無くす。
確かに──今、エリノアを抱えている少年は、直前までは、黒い小さな……獣だったのだ。
お読みいただき有難うございます。
何やら不穏な感じになってまいりました…続きも頑張ります。
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