81 魔物の呆れ
「マダリンちゃん!」
つぶらな青い両目はまんまるに見開かれていた。
枝に乗ったまま小さな身体がゆっくり傾いてさまを見たエリノアは、芯から肝が冷えた気がした。相手が猫だとか、魔物だとかそういう考えは一切浮かばなかった。
ただ、引力に引かれ、ぽかんとした顔で地面に落ちていくマダリンに──エリノアは手を伸ばさずにはいられなかった。
──気がつくとエリノアの足は木を蹴っていた。
後から思い出すと無謀にもほどがあるが──空中で自分の手のなかに収まった、黒い子猫にエリノアはホッとして。まあ、木の高さはそれほど高くない。この高さなら死ぬこともあるまいと。自分はドジとは一生縁が切れないのだなぁと思いつつマダリンを胸に抱いて──
──が
「ちょっと!」
鋭く抗議するような声が高く上がった。
と同時に、胸の前にマダリンを抱き込んでいたエリノアは、首の後ろを思い切り引かれ──
喉からカエルのような声が出た。
「ぐえっ」
落下寸前。地面すれすれという時だ。しかし地面が見えたのも一瞬のこと。すぐに振り回されるように引っ張り上げられて。踊る視界に目が回る。
「ひっ!? う、うぇ……」
気がつくと──空と重なる誰かの顔を見上げていた。
まっすぐ伸びる黒髪、釣り上がった目には青い瞳。やや華奢な……
(…………子供……?)
見覚えはあった。が、エリノアは瞬きながら、あれ? 誰だったっけ……? と心の中で首を傾げる。
少年は、不機嫌そうな目でエリノアを睨んでいた。
「お人好しも大概にしてくださいよ! まったく……うちの妹なんて、ピィピィ泣いてても、こんな高さから落ちたくらいじゃ怪我一つしないんですから!」
憤慨する声にも覚えがあった。エリノアは目をパチパチさせた。
「え……グレン……?」
思い出した。その少年は、以前王宮舞踏会でグレンが変化して見せたあの姿と同じ。
エリノアがぽかんと見上げると、グレンはじっとりした目でエリノアを刺す。
「ちょっとぉ……どこかぶつけて脳細胞死滅したんですか? しっかりしてくださいよ、お人好し馬鹿で怪我されたらこっちが困るんですよ……ああやっぱり姉上は面倒だなぁ……」
イライラした口調で吐き捨てられたエリノアは、ムッと口を尖らせて。「……別にあんたに責任取らせるつもりはないわよ」とぶつぶつ言った。……助けてもらった手前大きな声では言わなかったが。
グレンもそんなつぶやきは無視し、細い身体で軽々とエリノアを横抱きに抱いたまま、ビシビシ文句を言い続ける。と、そんなグレンの顔に、ビシッと何かが張りついた。──エリノアが抱えていたマダリンだ。
「あにうえ!」
「……、……、……マダリン……こんのぉ……っ、どうしようもない跳ね返りめ!」
グレンは離れろ! と、妹を引っ張るが、やだ! と、叫ぶマダリンはグレンの顔にビッタリくっついて離れようとしない。張りついた毛玉にグレンは怒っているが、彼に思い切り引っ張られても取れないマダリンの力は子猫と侮るにはいささか強すぎる。激しい攻防を目にしたエリノアは一瞬唖然と二人を見ていたが……
見ているうちにホッとして──我ながらグレンを見てホッとする日が来ようとは……──と、どこかで呆れを感じながら──エリノアはやれやれと苦笑するように笑った。ひとまず子猫のマダリンが無事で安堵していた。
「助けてくれてありがとうグレン、おかげでマダリンちゃんに怪我させなくてすんだわ」
「……はぁ?」
礼を言ってくるエリノアに、グレンが眉間にシワをよせる。
そもそもマダリンはグレンの妹である。それを助けようとして落下しそうになった方がなぜ礼を言うのだろう。グレンは心底気味が悪そうだった。
そんなグレンの可愛くない反応には慣れっこのエリノアは、彼の顔は無視し「あとは、」とため息をつく。
「マリーちゃんとマールちゃんね……」
一匹だけでこの騒ぎとは。どうにもこうにも疲れるが……これも自宅に住むことを許可した(半ば強制的だった気もするが)身としては責任を感じてしまうエリノア。性根の底からお人好しなこの娘は、子猫たちが人間の世界で迷子になったら本気で可哀想だと思っている。
……この人、マダリンたちの見た目の愛らしさに綺麗さっぱり騙されているなと盛大に呆れつつ、グレンが答える。
「マールは今、母が追跡中です」
多分その辺の屋根の上でおっかけっこでもしてるのではと言うグレン。……の、言葉が怖いエリノア。……町の人々は、屋根の上を俊敏に駆けていくコーネリアグレース婦人を目撃した時……いったいどう思うのだろうか……
想像するだけでエリノアの胃はキリキリ痛む。
「……じゃ、じゃあ、とりあえず私たちはマリーちゃんを探しましょう──て、ちょ……ちょっと待って、ここ屋根の上じゃない!?」
改めて周囲を見渡したエリノアは青ざめて叫ぶ。
いつの間にか彼女は空き地の隣に立つ民家の上に移動させられていた。
エリノアを間一髪拾い上げたグレンがそのまま屋根の上まで飛んでいたらしい。見事な脚力だが、どうやって降りたら……と呆然とするエリノアの耳に、グレンが息を吹きかける。
「もちろん私が可愛くお姫様抱っこでおろして差し上げますよ」
「やめろ」
苦虫を噛み潰したような顔で耳を押さえ、抗議するエリノア。マダリンは兄の流し目を冷淡な目で刺している。
「あにうえ、うざい、まおうさまにいいつけるぞ」
「うるっさいな! これだから三十にもならない赤ん坊は……」
(「え……」と目を瞠って愕然とマダリンを見るエリノア・トワイン十九歳)
「だいたいお前、マリーの気配なら追えるだろ!?」
と、グレンが迫ると、マダリンは「しまいはうらない」と、そっぽを向いてグレンをキレさせる。
エリノアはそれを微妙そうな顔で見ていた。
「……さんじゅ……い、いや、それどころじゃないわね……早くマリーちゃんを探しにいきましょう」
──そうして賑やかな一行が残りの子猫を探しに立ち去っていくと……空き地も民家の屋根の上も、元どおりシンと静かになった。
そこへ──
ふらりと誰かが現れた。
無言で空き地に入ってきた彼は、ゆっくりと空を──いや──たった今、エリノアたちが立ち去って行った屋根の上を見上た。
かすれる声がつぶやく。
「…………今のは……、なんだったんだ……?」
こわばった顔に並ぶのは、動揺したように揺れ動く──空色の瞳。
──リードだった。
お読みいただきありがとうございます。
……スランプ中です……
早く脱したいです……




