80 マダリンの猫パンチ
「……ん……?」
ある庭で、大きな植木鉢を動かそうとしていたリードは、はたと手を止めた。
緑深い庭。木壁の前にずらりと並んだ大小様々な植木鉢の隙間の暗がりに──何やら黒いボロキレのようなものが詰まっている。
「? なんだこれ……」
不思議に思い拾い上げると、思いの外ふわふわしている。大きさは両手のひらに乗るくらい。そのぐんにゃりしたものを手に乗せてみて、あれ? と、リード。
「……生き物?」
そう言った瞬間、真っ黒い毛の中にパチッと青い目玉が二つ開く。
「お……」
ひたりとした青い瞳にじっと見つめられたリードは目を瞬く。
「……子猫?」
その子猫は、まんまるで、真っ黒で。どこを駆けずり回ってきたのかホコリだらけだった。
毛に絡みついたクモの巣を払いのけてやりながらリードは声をかける。
「お前どうしてこんなところに詰まってたんだ? ……上から落ちてきたのか……?」
青年は植木の後ろの木の塀を見上げ、不思議そうに首を傾ける。
この庭は、モンターク商店からほど近い常連客宅の中庭だった。
普段から客が高齢者の場合は、ついでに何かしら手伝いをして帰るのが彼の習慣で。この日も重くて動かせない植木鉢を移動させてくれないかと頼まれた。それを二つ返事で引き受けたリードは、まずはホウキで植木鉢のまわりを掃いてから、客の要望通りに植木鉢を動かそうとして──その後ろに、みっちり詰まった黒い物体に気がついた。
青年は拾い上げた子猫の身体をぐるりと見回す。
「怪我はないみたいだな。しっかしお前……こんなになるなんて、余程狭いところを冒険して来たんだなぁ」
気のいい青年は、子猫についたホコリを落としつつそう笑う。
黒い子猫はそんな彼を、恐れのないクリっとした瞳でじっと見上げていた。
……と、そばの家屋の扉が開いた。そこから老婦人が庭に出てくる。腕には小型犬を抱いていた。
「リードちゃん、まあまあ掃除まで。ちょっと休憩してお茶にしない?」
「ありがとうローズさん。あの、なんか植木鉢の裏に子猫が挟まってたんですけど……ローズさんちの子?」
「子猫?」
リードが子猫を持ち上げながら問うと、老婦人より先に腕の中の犬がワンワンと吠えはじめる。途端、手の中の子猫の瞳が好戦的に光り、それを見たリードは慌てて子猫を腕の中に隠すように抱く。
「おっと……喧嘩はしないでくれよ」
「あらあらごめんなさいねリードちゃん。でもその子はうちの子じゃないわ。ご近所でも見たことがないわねぇ」
老婦人は腕の中の飼い犬をなだめながら、どこから来たのかしらねと首を傾げている。それを聞いたリードは、そうですかと子猫を見た。子猫は吠え続ける犬をひと睨みしてから、ツンと顔を背けている。とても勝気そうな子猫だった。
「うーん……じゃあローズさん悪いんだけど、お茶はまたに今度でもいいかな? 俺、ご近所まわって飼い主か母猫がいないか探してみるよ」
「あら、悪いわねぇ」
老婦人は、自分の庭で見つかった子猫を居合わせただけのリードに託すのは申し訳なさそうだったが、青年は構わないと明るく首を振る。彼は配達し終わって空いた木箱に子猫をそっと入れると、指先でその耳元をふわふわとなでた。
「よし、じゃあお前のお母さんを探しに行こうか」
──その頃のとある空き地。
エリノアは──ふー……と、諦めの滲む長いため息を漏らしていた。
下に見える足場は細い。……ああ、またか……スカートで飛び出して来るんじゃなかったなぁと娘は後悔している。まあ、今はその中身が見えようが見えまいがそれどころではないのだが。……エリノアは青い顔で叫んだ。
「マダリンちゃんっ! お願いだからそれ以上、上に行かないで!」
「いや」
必死の懇願は、間髪入れず却下される。取り付く島もない子猫の様子にエリノアがショックを受けている。
──ここは、いくつかの民家の塀に囲まれた小さな空き地。そこにポツンと生えた木に──エリノアは青い顔でしがみついていた。
太い幹に抱きつく手や頬にはいくつかの擦り傷。全身はこの晴天の日に何故かびしょ濡れだった。
そして……彼女の視線の先には、まっくろな子猫が一匹。背を山状にいからせて唸っている。
それは数分前のことだった……
いなくなった子猫たちを探しに出たエリノアは、運よく広場の噴水のフチの上に、町民たちが街ゆくさまをぽやっと眺めているマダリンを発見した。
大人しくちょこんと腰を下ろす子猫の姿に彼女はホッとして……。が、
不意に、歩いて来た紳士がマダリンに気がついて。おや可愛いなぁというふうにマダリンに手を伸ばした。
その瞬間、マダリンの目がサッと殺気を帯びる。それを見たエリノアは驚いて。
何せただの猫ならまだしも、彼女はあのコーネリアグレースの娘でグレンの妹なのだ。その、家系から言っても少しも侮れなさそうな魔物の子が。昨夜自分たちの家をめちゃめちゃにした子猫かいじゅうが、何も知らない町民に向かって牙をのぞかせたことに血の気が引いたエリノアは──
猛ダッシュでマダリンに突っ込み、結果、マダリンにはひらりと避けられ……その挙句、噴水に頭から突っこんでしまうという間抜けなコントを演じてしまう……
傍にいた紳士にはものすごく迷惑そうな顔をされ……他の通行人たちにもおかしなものを見る目で見られた。
が……エリノアは不屈にも、世間様の冷たい視線にも、身体を滴って行く水の冷たさにも負けず、再び逃走して行ったマダリンを追いかけた。
そして──魔物の子マダリンが勇者の追求を嫌い逃げ込んだのが、この高い木の上だったというわけだった。
「あああ……マダリンちゃん降りて来て……っ!」
エリノアは木の高さに震えながら、弱り切った声を出す。
はじめは木の下から、降りてくるように説得を試みていたのだが……そのうち何故かマダリンがミーミー泣き出してしまった。
怪我でもしたのかとエリノアは慌てたが──聞けば登ったはいいものの今度は怖くて降りられないと言う。
その答えにはエリノアも、え……? 猫なのに……? ……と、ものすごく微妙そうに疑問そうだった。しかしまあ……相手は魔物とはいえちびっ子である。仕方がないと思い直したエリノアは、結局今回も木に登ることにした。
そういえば昨日も子猫たちはカーテンに登っておきながら降りられないと泣いていた。もしかしたら登るのは得意でも降りるのは苦手なのかもしれない。
しかし──ここで、予想外の出来事が起こる。
ありもしない運動神経を必死で駆使し、木をよじ登り子猫の救出に向かったエリノア。
けれどもマダリンは、彼女が近づくと何故か余計に上へ行ってしまうのだ。
それには愕然とするエリノア。
「ど、どうして!? マダリンちゃん、降りられないんじゃなかったの!?」
「きやすくよぶな」
「そんな先っぽに行ったら危ないから!」
「くるな! こっちくるなっ」
マダリンは毛を逆立たせてエリノアを威嚇している。
抵抗の理由は、彼女に向かって伸ばされるエリノアの手の女神の印だ。降りられないのも怖いが、エリノアの手も嫌だということで……マダリンはマダリンで追い詰められている。
エリノアも、手を伸ばすと壮絶に嫌そうな顔で猫パンチをされるもので……なんとなく、マダリンが自分を嫌がっているのは分かった。が、しかし、降りられないと泣く子をここへ残したまま自分が下に降りていいのかと悩む。
「マ、マダリンちゃん……どうしたらいいの……」
ちなみに。エリノアの後を追って来たコーネリアグレースとは途中で二手に分かれた。捜索対象が三匹もいるゆえの対処だが、まさかこんなに抵抗されるとは思わなかった。
「マ──マダリンちゃん?」
エリノアはひとまず興奮した様子のマダリンを落ち着かせようと、出来るだけ優しい声で語りかけた。頬に血が滴っているし、顔色も真っ青でうっすら笑うさまはややホラーではあるが。
「マ、マダリンちゃんは、な、何が好きなのかな? お魚かな? お、お肉かな……? こっちに来てくれたらあとでいっぱい買ってあげるよ? えっと、私に掴まれるのが嫌なら背中にでも張り付いてくれるとかってどうかな……? こう、爪で……だめ?」
そうすればなんとか背負って降りられるのでは……と提案するが……マダリンは容赦ない。
「きもいっ」
「そ、そんなこと言わないで……ね? こっちにおいで? コーネリアさんも心配してるよ?」
と、母の名を聞いたことが逆効果だったのか、マダリンは、びゃっと声を上げて泣く。
「ゆうしゃが、あたしをかどわかそうとしてる! たすけてかあさま!」
「お、落ち着いて……なんにもしないから……」
シャーッと威嚇しながら泣き叫ぶ子猫に、エリノアはどうしたらいいのか分からなくなった。
細い枝の上をジリジリ後退って行くマダリンの後ろには、もう幾らも枝先がない。
──その時、マダリンの黒いおしりの下の枝が、小さくポキッっと鳴った。
「え……」
エリノアの肩がギクリと揺れる。
子猫の重みでやや下にたわんでいた枝が、途中で折れ曲がり、ゆっくり下へさがって行くのを見て──エリノアの顔から血の気が引いた。
「マダリンちゃん!」
お読みいただき有難うございます。
最近テンポが悪いですが、なんとか…( ´ ▽ ` ;)
リードが発見したのはマリーです。多分コーネリアグレースは現在マールと追いかけっこ中です。
新しくブクマしてくださった方、評価くださった方、そして続けてお読みくださっている方、有難うございます。感謝です。がんばります。




