54 “姉上”と呼ぶ者
ぽーい……っと、自分が放り投げられた時。
エリノアが、一番腹が立ったのは……
──ちょ、この熊──
──ブレア様の執務室のドアを足蹴にしたわ!?
……と、言うことであった。
エリノアは騎士や衛兵に粗雑に扱われることには高い耐性がある。
自分が放られたことよりも、仲間たちが丹精込めて磨き上げているだろう扉を蹴り開けられたことにむかっ腹が立った。
──お……のれ……美しい扉になんてことを……!
──怪力熊め……!
床にゴロゴロと転がされた暁には華麗なターンを決めて、今日こそそのクマボディに頭突きをかましてやる!
と、刹那の時間にも熊騎士の暴挙に向かって元気に腹を立てていたわけだが……
浮遊感を感じながら、タイミングを見計らおうとした、その瞬間に──思わぬ声が耳に入ってきて。エリノアの頭突きは不発に終わる。
「────姉上!?」
「──え」
それを聞いた途端──エリノアの瞳が丸くなった。頭突きの件は頭からきれいにはじき出されて──
次の一瞬には何かに背が当たる。
しかしそれは覚悟したような床の感触や痛みの類ではなくて……
「大丈夫か姉上!」
「…………あ……」
気がついた。
エリノアは、駆け寄って来たブレアのたくましい腕に受け止められていた。
が……
エリノアは、間近に見える王子の凛々しい顔に慌てるよりも先に……怪訝な思いに駆られる。
「あ、ありがとう、ございます……?」
(……あれ? 今ブレア様、なんて言った……?)
確かに今──王子は自分のことを『姉上』と呼んだ。
「? ? ?」
エリノアが怪訝そうなのと同様に、それを聞いたオリバーや執務室内でこの騒動を唖然と見守っていた官たちも「ん?」と、おかしな表情をしていて……皆、不可解そうに王子の顔をまじまじと見ている。
それを見て、やはり聞き間違いではなさそうだ……と思ったエリノアは……
ハッとして青ざめる。
現状、自分のことをそう呼ぶものは──たった一人しかいない。
エリノアの脳裏に、にゃは〜ん♪と、しっぽをくねらせる黒い獣の姿が思い浮かぶ。
(ひっ──まさか……)
(グ……グレン……!?)
エリノアは言葉を失って。心配そうにこちらを見下ろす“ブレア”を食い入るように見上げた。
まさか、またあの愉快犯グレンがブレアに化けているというのか。奴の前科は数えきれず。
──けど、とエリノアは自分が放り投げ入れられた執務室の中を怯えた様子で窺う。
そこには幾人もの高官や書記官たちの姿がある。仕事の手を止め怪訝そうにこちらを見ている者、隣の者と顔を見合わせている者……
それを見てエリノアの顔の血の気がさらに引く。
宮廷とは、王族の住まいである王宮とは違う。政治の場だ。そんな大事な場所に忍び込んで……魔物グレンは一体何をしでかそうというのか……
「ぅ……うぅ……」
どうしたらいいんだとエリノア。顔面を汗が滝のように流れ落ちてくる。
こんな人の多いところで、いったいどうやってこの黒猫を回収したらいいんだろう。
「どうした!? 大丈夫なのか?」
エリノアがブレアの腕の中で身を竦ませていると、その様子にブレアが不安そうな顔をする。
執務室に現れたオリバーが、エリノアを放り投げようとしていることを察したと同時に駆け出していたブレア。
瞬発力を駆使してなんとか娘を無事受け止めたと思ったのだが……腕の中の娘はどこか様子がおかしい。
もしかしてどこか怪我でもさせてしまったかと慌ててエリノアの身を調べようとする青年の──
……フリをしているだろうグレンのそのあまりの演技力(※違う)に──エリノアが目を剥いて慄いている。
が……エリノアはぶんぶんと頭を振った。
(だ……駄目だわ……驚いてる場合じゃない! 私が……私がこの演技派猫の所業を止めなければ……! みんなが騙される……ブレア様の大事な職場が荒らされてしまうわ!)
そう痛切に思ったエリノアは──腹をくくって──
「っ!?」
──次の瞬間、エリノアを案じていたブレアに予想外のことが起こる。
彼の腕の中にいたエリノアが、いきなり──……ガシッと……ブレアの両手をとったのだ。
その思いがけない大胆さにブレアが凍る。
「ど……どうしたエリノア……?」
ギョッとしたブレアに、彼女はまるで挑みかかるような目をして、低い声で言った。
「(猫)殿下…………一緒に逃げましょう……」
「!? !?」
エリノアの据わった目……有無を言わさんとばかりに鼻先までに寄せられる顔……繋がれた両手に動揺していたブレアは……その言葉に困惑を深める。
「な、何……に、逃げる……?」
心配やら恥ずかしいやら意味がわからないやらで……平静さを失ったブレアは──もちろん己がエリノアのことを『姉上』などと呼んでしまったことが全ての原因だということにも気がついてはいない。
周囲では、オリバーや官たちがポカーンと口を開けて二人のやりとりを見ている。
そんな彼らの前でエリノアは「いざ!」と、勇ましく立ち上がると……繋いだブレアの手を神妙な顔でぐいぐいと引っ張った。
「エ、エリノア……?」※ブレア。汗をだらだらかいている。
「さ……行きましょう(偽)ブレア様……」※エリノア。無駄に凛々しい。
「し、しかし……」
「お急ぎ下さいませ!? わたくしめから逃げようったって……そうは行きませんからね!」
「!? !?」
──そうして……
ブレアはなぜだか鼻息の荒いエリノアに連れ去られて行ったのだった。
パタンと閉じられる執務室の扉。そこに消えて行った王子と殺気立った娘の様子に……
執務室に残された面々はしばしの間無言であった。が……
立ち尽くしていたオリバーがボソリと言う。
「…………なんか……俺には理解できねぇ事態が起こった気がしたんだが……気のせいか……“姉上”……てなんだ?」
「「…………」」
問われた高官たちは、無言。誰にも何も分りはしない。
と、そんな中……一人冷静に奥で仕事をしていたソルがオリバーの近くまでやってくる。
「? 皆さん何をぼんやりなさっているのですか。仕事してください」
真顔のソルにオリバーが呆れる。
「お、前なぁ……今ブレア様が新人娘に連れ去られただろう!? そしらぬ顔か!?」
「はあ……逢瀬のために随分手段を選ばないお嬢様だなとは思いましたが……いいではありませんか、結局はお二人でお過ごしになるということでしょう? まあ、サロンの方の茶会もせっかく用意いたしましたからあちらにもお立ち寄りいただきたくはありますが…………問題ありません。それよりも……」
「!?」
ソルにジロリと睨まれてオリバーが眉間にシワを寄せる。
「な、なんだよ……」
「女性を放り投げるとは……あなたはいったいどういう神経なのですか……? 無礼にも程があります。騎士の名が泣きますよ」
「!?」
「そもそもあなたたちは──筋肉至上主義などと──その筋肉は女性を放り投げるためのものでは──騎士道精神が──」
「ちょ、それ……後でもいいだろ!?」
「いえ駄目です」
オリバーは、冷たい顔のソルに、延々、こんこんと説教される羽目となり……ブレアを追いかけることができなかった……
お読みいただき有難うございます。
安定的にこうなりました…
迷走するエリノアはどこへ……




