52 リードの悩み、ブラッドリーの微笑み。そしてコーネリアの賞賛。
あのさぁと切り出されて、ブラッドリーは顔を上げる。
そこには少し悩んでいるような青年の顔があって。ブラッドリーは不思議そうな顔で品出しをしていた手を止めた。
「どうかしたの、リード?」
「いや……ブラッド……第二王子のブレア様って、知ってるか?」
「……!」
リードの口から出てきた名に、一瞬ブラッドリーの顔から表情が消える。
少年はしばしの間黙っていたが、リードに向かって静かに返す。
「…………知ってるけど……あの男がどうかしたの?」
少年の声音はわずかに剣呑な響きを帯びていたが……相変わらずリードがそれに気がつくことはなかった。
青年は、少年の問いにそれがと続ける。少しだけ言い出しにくそうな顔をしていた。
「もしかしてと思ったんだけど……お前が前に言ってたエリノアが気になっている男って……第二王子殿下のことなんじゃないか……?」
ポリ……と頬を掻きつつ言う兄貴分に……ブラッドリーは険しい顔をする。
もちろんリードが気に入らないのではない。出てきた名前が気に入らないのだ。
「……どうして……そう思ったの?」
「いや……なんていうか……最初はテオさんだと思ってたんだけどさ……どうもエリノアの反応を見てると違う気がして……」
普段、エリノアとテオティルは非常に距離が近い。いつ見かけてもテオティルはエリノアのスカートの端を握っているし、彼の彼女を見る目はいつでもキラキラとして幸せそうだった。
しかし反対に、エリノアがテオティルを見る目は、いつでもハラハラハラハラしている。まるで手のかかる弟か子供を見るように……
そこには世話をしなければという固い意思は見えるのだが、異性を意識するような色は皆無で……
それを変だなと思っていた矢先に現れたのが……あの、例の“正体不明の金の髪の男”だった。
以前夕暮れの街でエリノアと共にいるところを目撃した彼を思い出しながら、リードはブラッドリーに向かって語りかける。
「あの人……かなり身分が高そうだった。見た感じ、動作や雰囲気は武人ぽかったんだけど……もしかして……」
「……」
少年は無言でリードを見ている。
その緑の瞳を見返しながら、青年は、一瞬躊躇してから、言った。
「もしかして……あの人がブレア様だったんじゃないかって」
「………………」
答えを求めるようなリードの視線に、沈黙していたブラッドリーはため息をついて。兄貴分に向かって小さく首を横にふる。
「……ごめんリード、僕も別にあの男については詳しく知らないよ。第二王子についても姉さんが仕えているって位で……その二人が同一人物かも僕には分からない」
──もちろんブラッドリーはリードの予想が当たっていることはわかっている。しかし、自分の情報源はだいたいがグレンたち魔物によるものである。
彼らから得た情報を、何も知らないリードに話してしまうのは少々危険だ。
グレンは猫化してどこにでも進入し、内部の人間しか知らないような情報だって持ってくることが可能なのだ。
それを、王宮に立ち入ったこともないブラッドリーが知っていれば明らかに不自然というもの。ましてや、それをリードに話してしまうことは、この優しい兄貴分を何かの危険に巻きこみかねないことである。
もしリードがそれを悪意なく別の町民に漏らし、それが広まり王宮にまで及べば、情報の質によってはリードが罰せられないとも限らない。
そういうわけで、この時ブラッドリーに出来たことはといえば、困ったような笑みを彼に浮かべて見せることだけだった。
すると、リードが眉尻を下げて苦笑する。
「……だよな、エリノアもペラペラ王宮のことを漏らすようなやつじゃないし……悪いブラッド」
「ううん……僕こそ役に立てなくて……」
「いいや、詮索するような真似して悪かった。俺もあの人のことは聞かない約束をエリノアにしてたんだけど……」
青年は少し目を伏せてため息をつく。
口の端に少し自嘲気味な笑みが浮かんで。まったく自分ときたらとリード。
あの正体不明の男については、何か事情がありそうで『聞かない』とエリノアには言ってしまったのだ。だったらその約束をちゃんと守っていたい、のだが……
昨日の書記官の言葉がどうしても引っかかっていた。
『あなたには……ブレア様の婚約者としての自覚はあるのか!?』
あの青年は──はっきりとそう言っていた。
それは驚くべき言葉だった。
“ブレア ”といえば、この国の第二王子で、武人として名高いエリノアの主人、ということしかリードは知らない。
巷には彼の様々な噂が流れてはいるが、そんな不確かなものはあまり信用ならないのだということは彼は心得ている。
まあしかし、どちらにせよ彼にとっては遠い世界の人物であることだけは間違いがなかったのである。
が──
「はー……」
まさかこんな形で王国の第二王子のことで思い悩む日が来ようとは。リードは深いため息をついた。
もちろんエリノアは完全否定していたし、そんなことが本当にあるのかはリードにも判断できない。
しかし……宮廷の書記官が、わざわざエリノア宛にブレアの書状を持ってきたのだけは確かで……
そう考えるとリードの心の中は大きくざわめいた。
それは……テオティルがエリノアのスカートを(無自覚で)めくっていたのを目撃した時とは比べ物にならないほどの苦しさで──
(……ダメだ、あんまり考えすぎると沼にハマりそうだ……)
リードはやるせなさを紛らわせるように己の前髪をくしゃくしゃと掻き回す。
──数年越しの想い。やっとのことで“告白”という関所を抜けたと思ったら、こんなことでまたうじうじしている。
一進一退。でも……気にしないなんて無理だった。
と、そんなリードにブラッドリーが気遣うような顔をする。
「リード……大丈夫……?」
「ん? ああ……」
そんな少年に気がつくと、リードは悪い、と苦笑する。
不安そうに見上げてくる弟分が可愛くて、リードは苦笑いを浮かべたまま、彼の少し波打った黒髪をポンポンと撫でた。
「大丈夫だよ。昨日はほら……宮廷からわざわざ書記官が来て変なこと……エリノアがブレア様の婚約者だなんて言ったりするもんで……ちょっとな、気になった」
……まあ……“ちょっと”じゃないからこうしてブラッドリーにまで聞き出すような真似をしてしまっているんだけどとリードは内心で己を笑う。
(……俺ももうちょっと冷静になろう、エリノアの負担になるのだけはごめん──……)
……と、そこでリードの思考が途切れる。青年は……キョトンと丸い目でブラッドリーの顔を見下ろしていた。
──思いがけず……その弟分の目が、暗く、剣呑に細められていた。
「……ブ……」
「……書記官?」
名を呼ばれる前に、低い声がリードの言葉を繰り返す。
その少年のどこか普段と違う様子に戸惑いながらも……リードは答えた。
「あ、れ? 聞いてないか? 昨日宮廷から使いが来て……いやエリノアはもちろん(全力)否定してたけど……なんだってそんな誤解が生まれたのかと……誤解が生まれるくらい王宮でエリノアが第二王子殿下と仲良さそうにしているのかな、と……?」
「………………どいつ?」
「? ブ、ブラッド?」
少年は微笑んでいた。美しく、しかし……どこかそれが禍々しい。
リードはそんな彼に唖然としている。
「リード……そんな反吐が出そうな勘違いで押しかけてきたクソ野郎はなんて名前だったの……?」
「……えっと…………ブラッド……目が笑ってないのな……」
「そう? 僕、愉快でたまらないよ、そんな命知らずがいたなんて。……で?」
そいつの名前は? 容姿の特徴だけでもいいんだよ、と──素晴らしい微笑を浮かべる少年に……リードは何か底知れないものを感じて……
「………………」
ピーンッと何かを本能的に察したらしい青年。……スッ……と、ブラッドリーから視線を外す。
「……、……、…………覚えてない」
リードは件の書記官殿のため、口をつぐむことを選んだ。
もちろんリードはソル・バークレムの名前をきちんと覚えていたし、特に彼に義理があるというわけでもない。
が……このまま口を割ってしまうと……何かとても大変なことになりそうな予感がした。
リードは咄嗟に営業スマイルを顔に張り付かせて少年を見た。
「顔もよく覚えてないな……えっと……ノアがなんかすごいブチ切れてたし……」
そっちの方が気になってあまりよく見てなかったと笑顔で誤魔化すリードに、これまた妖艶な笑顔を浮かべたブラッドリーがにじり寄る。
「嘘……だよね……? リードはすぐ人の名前覚えるよね? お店でも一度来たお客さんのことは必ず覚えてるじゃない……」
「やー……ほら、商売中のことじゃなかったしさ、え、えーと……し、仕事しようぜブラッド!」
「リード……?」
ブラッドリーに微笑みかけられたリードが冷や汗をかいて後退る。
「ブラッドその顔やめろ……なんかエリノアの怪奇顔の百倍怖え!」
……リードは生まれて初めてブラッドリーのお願い事から逃げ出した。
思わずエリノアに対する苦悩が吹き飛んでしまったリードであるが……今度はブラッドリーの様子が心配で心配で胃が痛かったという。
※今件を後々聞かされたコーネリアグレースは……ブラッドリーを魔王だとは知らぬはずの彼の察しの良さを、絶賛したらしい。
「リード坊ちゃんの危機察知能力は素晴らしいですわ……その書記官とやらは命拾いいたしましたわねぇ……下手に容姿なんか漏らそうものなら犯人探しで町には血の雨が降りましたもの」
……恐ろしい恐ろしい……とは女豹婦人の言葉。




