45 エリノア、黒猫たちのストレス発散につき合う
「…………」
ペシッ、ペシッと繰り出される黒い獣の手を見ながら、エリノアはやれやれとため息をつく。
「こんなの面白くない、面白くないっ」
「……」
腹立たしげに言いながらもエリノアが動かす紐を機敏に追ってくる黒猫。
だったらやめればいいじゃないかと思うのだが、こちらが紐を引っ込めそうな気配を察すると、グレンは紐に齧り付いてエリノアを睨む。
――そういうやりとりが、既に七回程繰り返されている。やっぱりどうにも面倒な子だなぁというグレンの認識を新たにしたエリノアであった。
本日エリノアは休日。
世間は聖剣不在の噂に沈んでいるが……エリノアはひとまず久々の安息日を楽しむことにした。
の、だが……。
なんだか朝から妙にグレンがいじいじしていて……(夜中に婦人に叱られた)結局エリノアは、そんな彼を相手に、紐遊びに付き合うことになったのだった。
ついでに言っておくならば、彼女が『魔がさした』とか言って、この間外で摘んできたネコジャラシはとうに彼の牙と爪によってボロボロにされた。
無残な姿になった黄緑色の植物を見たエリノアは、グレンもこれで気がすんだことだろう思ったのだが……
すると黒猫は、今度はこの紐を口にくわえてつきまとう。
エリノアは床の上でその紐を素早く左右に動かしてやりながら言う。
「……なんか……猫にずっとあと追いされると健気な気がしてちょっと嬉しいんだけど、中身があんただと思うと……微妙ね」
「何言ってるんですか、だって姉上昨日の夜、昼間だったら遊んでやるって言ったでしょ!」
「うん……まあ……そうだった、ような……」
昨晩エリノアはとても疲れていて、眠気もひどかった。夜中にグレンに起こされて、そう約束したような気もするが、はっきりとは覚えていない。
普段からこの黒猫は、退屈すると気まぐれに何かに化けてエリノアを脅かしにくる。
それは特定の誰かだったり、化け物だったり、大きな虫だったり……
だからきっとまた夜中にそういうことがあったのだな、とエリノアは深くは考えなかった。
グレンはふんと鼻を鳴らす。
「まったく姉上ったら、人としてそれはどうなんですか!? 魔物になれすぎにも程がありませんか!?」
「それ……あんたが言う……?」
グレンの憤慨にエリノアが呆れ果てている。
「何事にも初心が大切ですよ。うぶな心を忘れないで下さい! いい感じに私たちにビクビクしていた姉上はどこに行ったんですか!」
面白くないと言われたエリノアは、そんなことを恨みに思われても……と思ったが。グレンは悔しそうにぺシーンっ! と、肉球で紐の端を殴り飛ばす。
「あ」
紐はエリノアの手を離れて壁際まで飛んでいく。そのままポトリと床の上に落ちるかと思いきや――……
そこへ、さっと黒い影がそこをよぎっていった。――黒猫が、紐を口にくわえてやってくる。
「あれ!?」
エリノアはギョッとして、その黒猫と——グレンを見比べる。
グレンは変わらず元の位置に座っていて。紐をキャッチしたのは別の黒猫だった。
と、紐をくわえているほうの猫がててて……と身軽な足取りで、驚くエリノアの傍までやって来て。足元にくわえていた紐を落とす。
「それはあれよねぇ……」
「!」
目を丸くするエリノアの前で、黒猫……ややモッフリ太った猫は続ける。艶のある、女性の声だった。
「ほら、千年も魔物がこちらに来ていないじゃない? つまりエリノア様たちは第三世代なのよ」
「第三?」
グレンが面倒そうに応じる。
「魔物の脅威に実際晒されて魔物を恐れている第一世代。その世代を親にもっていて恐ろしさを伝え聞かされた第二世代。そしてそういう世代の者たちともつながりがなくなってしまった第三世代……がエリノア様ね。魔物の脅威も遠い話なのよ。実感がないのね。だから私たちのことなんか、お伽話程度にしか恐れてないの。ちょっと魔法が使えるメルヘンオバケくらいに侮ってるのねぇ……ま、あたくしがこんなに愛らしいから仕方ないのかしら?」
「何それ……失礼な……じゃあたまに恐ろしい目に合わせとくほうが……」
「何言ってるの。だからお前はまだまだなのよ。油断させておくくらいのほうがいいの。ほっとしているところに襲いかかるのが一番心理的にも効果的……」
「……」
なにやら物騒な猫会議をはじめた二匹をエリノアは無言で見守った。……多分止めても無駄である。
さて、ここまで来ればエリノアにも二匹目の黒猫がコーネリアグレースだという事は分かった。
と、ふとましいほうの黒猫が、はたと気がついたように顔を上げる。
「あらいやだ、エリノア様をびっくりさせよう大作戦に夢中になってしまったわ。エリノア様も、ほら手が止まってましてよ!」
「え……?」
そう言われて黒い鼻先で示されたのは、床に転がった紐で——
まさかとギョッとするエリノアに、婦人は四肢を揃え、ややグレンよりふさふさしている胸を張って弾む声で言う。
「あたくしもまぜて下さいな」
「……え……なんで……」
たった今自分たちで侮られているとか言ってないなかったか。グレンならまだしも、婦人が猫のような遊びに興じるなどとは意外も意外。というか……彼女にそんなことを要求されると何か裏がありそうで怖い。
エリノアが戸惑って返すと、婦人はあらだって、と色気のある流し目をエリノアに向ける。
「あたくしめのごとき淑女でも、一応魔物ですから。狩猟本能っていうのかしら……ま、それとはちょっと違うんですけど、襲いたい願望? 逃げるものを歯牙で追いたい願望? そんなものがございましてね」
「は、はぁ……」
「魔物姿でそれを満たしに行くのと、この姿で紐相手に戯れるのと……どっちがよろしい?」
そう問われたエリノアの脳裏に浮かんだのは……
女豹姿で夜の街中を駆けながら……金の棍棒を振り回し、人々を追い高笑う婦人の姿であった……
ゾッとしたエリノアは慌てて紐を拾う。
「……やります。やらせて下さい!」
「あら。ほほほほほ、今のエリノア様の恐怖心いい感じでしたわ、おほほ」
「えー私の紐がー……」
婦人の息子は母の横入りに不満そうな顔をしている。
そうして一時間ほど紐遊びに付き合っただろうか。
ようやく二匹に解放されたエリノアは、自宅の掃除をすることにした。はしゃぎ回った二匹のせいで、居間の中はすっかり毛だらけである……
まずは窓を開け放ち、ハタキを部屋の上の方からはたいてまわりながら……エリノアは、傍で雑巾を手に待機しているテオティルに言い聞かせていた。
「あのねテオ……これからは絶対に、私に黙ってどこかに行くのはやめてね」
「?」
「ほら、この間、王宮でいきなりいなくなったでしょ?」
「ああ……あれですか?」
キョトンとしていたテオティルは、やっとエリノアの言葉を理解したらしい。すみませんと素直に頭を下げる。
「本来物言わぬものとして主人様のお傍にいるのが私ですので……報告義務については頓着していませんでした」
「ああ……まあそうよね……」
本来剣は喋らない。
「あとは……自由に動けるようになったので、ついついいろいろと興味を引かれてしまって。あ、でも帯剣してくださればフラフラしません!」
「……無理」
意気込んで言う男の目はキラキラと期待に満ちているが、エリノアはそれを真顔で切った。
途端、テオティルの美しい顔が悲しげにしぼむ。
「あるじ様……」
「ぅ……そういう小さい子みたいな顔しないで! 無理だから! 四六時中テオを連れてたら王宮で仕事もできないでしょう? それに前も言ったけど……そもそもこんな長身のテオをどうやって腰に――」
と、エリノアが主張した瞬間、テオティルの顔がぱぁぁっと輝いた。……実に嫌な予感のする感じで。
「ああでしたら簡単ですよ!」
「え゛……」
と、エリノアが言った時には遅かった。
一瞬テオティルを中心に、パッと銀の光が花火のように散る。
エリノアはその眩さに驚いて思わず瞳を閉じ――
「……ぇ……テオ……?」
瞳を開けた時、目の前にいたはずの青年の姿が消えていた。床には彼が握っていたはずの雑巾が落ちていて……
――と、エリノアは、右手に違和感を感じて右下へ視線を動かした。その目と口がぽかんと丸く開く。
細い木の柄のハタキを握っていたはずの己の手……には、褐色の柄が握られていた。
硬い感触の金属の柄の先には、美しい白刃が清澄な輝きを放っていて――……
それを目撃した瞬間、エリノアの喉がひゅっと鳴った。血の気がひいて身体が凍る。
いきなりの出来事に……ただただ驚いて身動きできずにいると――
『――これなら帯剣できますね!』
と、うきうきしたテオティルの声が聞こえた。
「ひっ……」
頭の中に直接響く声にエリノアは慄いて。途端、ガタガタ身が震えだした。
己の手にハタキの代わりに握られている見覚えのある代物。ついでのように、それを握る己の手の甲がぼんやり光っているのを見て――エリノアは泣きそうに慌てた。
「ちょ、テ……テオ!」
やめなさい! 戻りなさい! ……と、エリノアが続けようとした、その時だった。
開け放たれたままだった窓から、おはようと声がした。
「ノア、コーネリアさんいる? 頼まれた商品持って来たんだけど……あれ? どうかしたのか?」
朗らかな青年の声を背後から聞いて――
エリノアは、聖剣を手に町内中に響き渡りそうな悲鳴を上げた。
お読みいただきありがとうございます。
誤字報告いただいた方、本当にありがとうございました。
間違いだらけの文に、あんなに丁寧にお付き合いいただき…天使かと思いました。無知ですみません。本当に感謝です。




