41 トワイン家の家計簿
その夜。エリノアは居間のテーブルで家計簿をつけていた。
寝巻きに着替え、髪を下ろしているその顔色は冴えない。
「うーん……」
並んだ文字と数字を睨んで唸る。
エリノアが上級侍女になり、トワイン家では幾らか収入が上がった。
初めは給金をいただかないつもりで、社会復帰的な意味合いで始めたブラッドリーのモンターク商店の手伝いも、親切な店主の計らいで給金がもらえることになった。
そういう事情を考えれば……少しは家計も安定しても良さそうなものだが……
しかし、住人の増えたこの家の家計はいまだに余裕というものとは無縁である。
休眠中のメイナード以外の魔物三名分とテオティルの食費や生活に必要な雑費やら燃料代やら。基本的にヴォルフガングたちは肉食を好むのでそれも結構馬鹿にならない。
けれども。本当は、エリノアはブラッドリーから、魔物たちには食事は出さなくてもいいと言われている。
ヴォルフガングたちからも、自分の食料くらい自分で調達できると主張されてはいる。が……
しかし、妄想力豊かなエリノアはそれを頑なに止める。
「……だってね……調達って……いったい何をどこでって……思うじゃない……? あの子たち、肉食なのよ!?」
エリノアはつどつどにそう神妙な顔で訴える。
魔物が自分で食料調達とは。しかもこんな街中で。自然……獲物はなんだと聞きたくなるではないか。
しかもこんなこともあった。出会って当初の調理中、エリノアがふと肉はどのくらいの焼き加減が好みなのだと聞いた時のこと。
ヴォルフガングは……
『生でもいい』
グレンは……
『血が滴っているくらい? ……えへ♪』(←※最後のわざとらしい『えへ♪』は、ギョッとしたエリノアに向けられたものだと思われる……)
……魔物だとか不穏な存在にそんなことを聞かされて、考えるなというほうが無理というものだった。
エリノアは慄いた。この人たち……こんな王都のど真ん中で、いったいなんの生肉もしくは血の滴る食料を確保するつもりなんだろう……と……
想像してゾッとした。
……もう、よく食べそうな女豹コーネリアグレースに至っては、怖くて聞けなかったくらいである。
——そういう事情もあって。エリノアは彼らには、必ず三度三度自宅で用意したものを食べさせることを心に誓った。
放っておいて、どこぞの家畜や……もしかしたらもっと大きな……ものでも狩って食べるのではと思うと、恐怖しかないエリノアである。
グレンに至っては平気で盗みを働きそうで不安だ。
これに関しては、グレンが『まあしないとはお約束できませんけど』と、けろっと言うもので……エリノアにとっては本当に頭の痛い問題だった。ブラッドリーにそれだけはさせないように重々言い聞かせて貰うようには言っているが……まあ、とにかく、彼らを放ってはおけないのだ。
エリノアは、家計簿に並ぶ“肉”購入の金額にげっそりしている。が……
「……まあ全員分の衣食住費がかかるようになったのと、ブラッドの治療費とお薬代がなくなった分とで差し引きゼロって感じかな……」
ため息をこぼしつつも、気を取り直したようにうんうんと一人頷くエリノア。
——以前は、ブラッドリーの体調はいつも低空飛行で不安定。突然悪化することも多かった。
医療費は家計を圧迫し、それはとてもエリノアの悩みの種だった。
でも、現在ブラッドリーはとても体調がいい。それでも安心しきれないエリノアは、定期的に弟をかかりつけの医師に診てもらうつもりだが、そのくらいの代金ならば、今まで出ていた治療費に比べると安いものである。
そう考えると、急に出ていくお金がなくなった分、楽になったような気もする。
「…………」
不意に、エリノアの指が、記録を遡って行くようにページをめくる。
分厚くて、色あせた茶色の表紙がつけられたトワイン家の家計簿。
これは二人暮らしが始まった当初くらいに、商売人であるリードの母から勧められて記録をつけはじめたもので、今日に至るまでの姉弟たちの暮らしぶりが事細かに書き記されていた。
そんな——姉弟たちの、これまでの苦悩と奮闘が刻まれたかのようなその記録を目で追っていたエリノアが、ふっとため息をこぼす。
……今だっていろいろと大変だ。聖剣や魔王や魔族やら……
それでも、それらを背負ってでも頑張ろうと思えるのは——病に苦しむ弟の顔を見なくても良くなったせいだろう。
——ブラッドリーが生まれたのはエリノアが三歳の頃。
その日のことをエリノアはもうはっきりとは覚えてはいないが……そのイメージだけはしっかりと記憶の中に残されている。
とびきりキラキラした、底抜けな喜びと幸福感。
もはや顔も声も思い出せない母が、とろけるような表情で幸せそうに小さな彼を抱いていて。
父が労わるようにその頰にキスをしたのを……おぼろげな輪郭だけで覚えていた。
目で見た記憶はすでにない。でも、漠然としていても、イメージだけしか残されてなくても。それが、エリノアの記憶の中で一番幸福だった日の記憶だ。
それ以降は母も亡くなってしまったし、一家揃っての幸福な記憶はない。
ゆえに、ブラッドリーは、宝物なのだ。……他の誰がなんと言おうと、エリノアにとっては、彼は天使だった。
その可愛い弟が、苦痛から解放されて。
縛りつけられていた寝台を降り、普通に身支度をしてエリノアに向かって『いってきます』と微笑んでくれるのを見るのは、喜び以外のなんでもない。
父も母もない今……以前のように、この世に残された唯一の肉親が、いつ病で命を落とすかと怯えた日々を思えば……
たとえ魔物や聖剣の化身にハラハラさせられようと、自分が勇者で胃がキリキリしようとも……今は、天国のようである。
「……いや……魔物と同居しといて天国はないか……」
おまけに天使だと思っている彼は、本当は魔王。
でも、そうならなければ手に入らなかった喜びが、確かにこの家にはあった。
エリノアは……今更ながら、自分の人生って波乱万丈だな、となんだか途方に暮れてしまう。
ふー……と寂しい風のような長い息が、エリノアの口から吹いてくる。
「やれやれ……」
立ち上がったエリノアは、パタンと片手で家計簿を閉じた。
昔の散々だった記録を見たのもいけなかった。当時のことを思い出したエリノアは、なんだか感傷的な気分に沈む。
「…………」
「……姉さん?」
と、居間の中で立ち尽くしていると、そこへブラッドリーがやって来た。
弟は、寝巻き姿の姉がぼんやり立っているのを見て、不思議そうな顔をしている。
「大丈夫? どうかしたの?」
「…………ブラッドぉー……」
エリノアはブラッドリーの顔を見ると、ふにゃりと顔を歪め、覗き込んで来る弟に抱きついた。
「はー……」
「?」
弟の存在を確かめるようにすりすりと頬擦りする姉は、大きく安堵のため息をついている。そんな姉にされるがままのブラッドリーはキョトンとした顔で姉の背にそっと手を添えた。
……魔物と同居、は異常なことだと思う。
でも、大事な弟が魔王という存在である以上、積極的に弟を守ってくれようとするヴォルフガングたちの存在は、この家には必要だ。
だって彼らの目的は、エリノアと同じものだから。
魔物の仲間になる気はない。でも弟を守るためには折り合わなければならない。
彼らはエリノアが出来ないことが出来て、“魔王”としての弟にも詳しい。それは今の、この歪つな姉弟の大いなる助けになる。
「……そうよ……肉費くらい、安いものだわ!」
前向きな気持ちを奮い立たせるようにエリノアはそう口にしてみる。
すると、奇妙な単語を聞いたブラッドリーは、姉がまたおかしなことを言い出したとでも思ったのか。怪訝そうな顔で眉をひそめている。
「なんなの肉費って……」
呆れを滲ませて姉を見るも、なぜかエリノアは笑っている。
赤子でも眺めるように目尻を下げて見つめられて。その視線と“肉費”がどう結びつくのか分からないブラッドリーがいささか居心地が悪そうな顔をしている。
「……姉さん、なんなの……?」
「ううん。ブラッドが、ずっとこうして元気でいてくれたらいいなと思って」
抱きしめた弟の頭をよしよしと撫でながら、エリノアは、彼のためにも自分はまだまだ家長として頑張らなければと決意を新たにした。
そんなエリノアを眺めるブラッドリーは……いったいそれで肉費とはなんなんだと、怪訝そうである。が……
まあいいかと彼は肩をすくめる。
暗い中、沈んだ顔をしていたのを見て心配したが、ひとまず姉はいつもの調子を取り戻したようだった。
それならばいいのだ。
姉が元気でいることが、彼にとっても一番大事なことだから。
——と。
その時、姉が急にそうだわと真剣な顔になった。
エリノアはブラッドリーを見ながら真面目くさった声で言う。
「とりあえず……魔物の王としてのブラッドリーに一つ要求があります」
「……え? 何……?」
改まった物言いにブラッドリーが少々身構える。と……エリノアはブラッドリーを厳しい目で見ながら、重い声で言う。
「お願いだから……婦人とあの子たちに……野菜も食べるように言って頂戴!」
「……」
肉ばっかり食べられると家計がものすごく圧迫されるのよ!
……と、懇願するエリノアは、わっと嘆くように両手で顔を覆う。
……一番の大食らいが誰かは……魔物たちの体型で想像して欲しい。
エリノアがなかなか文句が言えないのも仕方がないというものであった……
答えは……金の棍棒を背負った太ましい彼女です。
お読みいただきありがとうございます。
この話は閑話にしようかどうか悩みましたが……悩んでもうちょっと(悩みすぎて)分からなくなってきたので普通にあげさせていただきました……
でもブラッドリーともたまにはほのぼの?させたかったんです!( ;∀;)




