40 ※危険 魔王の前でガールズトーク
——ブレア様はどうして『手は繋ぐな』なんて言ったんだろう。
エリノアは、その銀色の小さな楕円を見つめながら考えていた。
あの一瞬……自分を見下ろしていた王子の顔がやたら切迫していた気がして……
自分を見つめるブレアの顔を思い出したエリノアは、次第に落ち着かない気持ちになる。
あの瞬間は、本当に呆気にとられて全然思考が働かなくて。ただただ驚いただけだった。が——こうして思い返してみると、毅然としていた王子の頰がうっすらと赤くなっていたような気がして……
「…………うーん……」
見間違いだろうかとエリノア。
でも、わざわざ引き返して来たのもなんだか変だ。
あの時のブレアの目はどこか葛藤に満ちていて……
何故だろう……それがやたらと可愛らしかった気がしたのだが……
と、そこまで考えて、エリノアはハッとして首を横に振る。
「は、はぁ!? か、可愛いって……!? 可愛いなんてそんな失敬な……」
王子に向かって可愛いなんて、可愛いなんて……と、繰り返すエリノアの顔は焦げつきそうに赤い。
これまで、エリノアの中の“可愛い”のヒエラルキーの頂点は、今も昔も変わらずにブラッドリーなわけだが……あの瞬間のブレアの顔は——
そう思った瞬間、心臓と胃に複雑な痛みを感じた。胸は締めつけられたが、胃は差しこむように痛い。どうやら、ときめきとストレスとに、同時に苛まれたらしい。
「ぐ……そんなの不敬、いや殿方に向かって失礼っていうか……なんなの!?」
誰に向けて怒っているのか(多分自分)エリノアは羞恥に顔をゆがめて唸っている。顔は耳まで赤く、額には汗がにじむ。
これではただただ、ブレアが気になって仕方がない。もし『手は繋ぐな』と言った言葉のあとで、王子がその理由をきちんと添えていてくれれば、きっとここまで頭を悩ませることもなかったはずなのにとエリノア。
「ぅ……きっと、理由を知れば、こんなに悩んだのが恥ずかしくなるくらいなんでもない理由なんだわ……そうよ、だって、だって私なんて相手になさるわけが……」
でも気になる……っ、とエリノアが呻いた時……
「……ちょっとエリノア……何スプーンを握りしめて唸ってるのよ……」
訝しむような声が聞こえて。エリノアは我に帰って顔をあげる。
すると……食卓を挟んだ向こう側にいたルーシーの怪訝な目とエリノアの目がかち合う。
「どうかしたの? 何?」
「あ……」
そうだったとエリノアはバツの悪そうな顔をする。と、その顔を見て、それまで静かに姉の百面相を見守っていたブラッドリーも心配そうにエリノアを覗きこんだ。
「姉さん大丈夫?」
エリノアは引きつった笑いでそれに応じる。
気がつけば……弟の背後には生暖かい顔のコーネリアグレース(人間態)が立っていて。向かい側の席ではテオティルが不思議そうな顔でこちらを見ているし、背後の棚の上には黒猫グレンがいて、ブラッドリーの傍の床には白犬姿のヴォルフガングが横たわっている。それぞれニマニマ笑いだったり、呆れ顔だったり……今は人間のルーシーがいるから彼らも何も言ってこないが……
一同の視線に気がついて、エリノアの身体には嫌な汗が吹き出した。
(……しまった、そうだった……私、ルーシー姉さんを家に招いて夕食を振る舞っていたところだったんだった……)
目の前のテーブルの上には、いつも通りのコーネリアグレース手製の料理にまじり、辛党のルーシーのためにエリノアが作った甘辛い鶏肉料理などが並べられている。それを見て皆でテーブルを囲んでいたのを思い出したエリノアは自分に悔いる。……よくもまあ、このメンツでテーブルを囲んだ状態で、我を忘れられるものである。
と、不意にルーシーが「それにしても」と、眉をひそめて周囲に視線を巡らせた。
「少し見ないうちに家の中の人口密度が……いえ人じゃないのもいるけど……なんか激増してない……?」
令嬢はコーネリアグレースや犬の姿のヴォルフガングたちを見ている。
いろいろあったが、ルーシーはこの姿の彼らとちゃんと会うのは初めてだ。
「あ、ごめんなさい勝手に……」
この家はタガート家の所有物である。無断で住人を増やしたのはまずかったかと、エリノアが慌てて頭を下げる。と、ルーシーはひょいと肩を竦めて手にしていたパンを口に放りこんだ。
「別に良いわよ、あんたはちゃんとうちに家賃を納めているんだし。でもブラッドリーには動物は駄目なんじゃなかった?」
「僕は大丈夫だよ」
ブラッドリーが静かに言うと、その顔を見たルーシーが、眉をひそめ首を捻る。
そして、エリノアに怪訝そうに問う。
「ねえ……ブラッドリーて…………前からこんな顔だった……?」
「え……」
ルーシーの訝しむような声にエリノアがギクリと肩を揺らす。
「ど、どうして?」
「だって、もう少し純真な感じじゃなかった? こんな生意気そうな顔してたかしら……」
遠慮のない感想に、エリノアはとてもハラハラした。が、ブラッドリーはルーシーの言葉に口元だけで笑う。
「僕だって、いつまでも変わらずになんていられるわけがないよ。子供じゃないんだし。……はい姉さん。早く食べないと料理が冷めるよ」
「あ、有難うブラッド」
澄ました顔で姉の皿に料理を取り分けてやるブラッドリー。ルーシーは、それを横目でジロジロ観察しながら、まあそうなんだろうけどと続けた。
「なんか随分と腹黒そうな感じになったわねぇ……あんた、グレるのはいいけどエリノアに迷惑かけるんじゃないわよ!?」
ジロリと令嬢がブラッドリーを睨むと、ブラッドリーは鼻で笑う。
「ふ……それ年中反抗しておじさんに迷惑かけまくってる人の言うこと?」
「あ!?」(低音)
「ちょ、ルーシー姉さん! ブラッドもやめなさい!」
暗黒顔で睨み合う二人が怖い。
さらに周りでそれを見守る連中(魔王配下たち)も怖い。エリノアはお願いだ落ち着いてくださいと哀願する。
「喧嘩してないで仲良くご飯食べよう! ね?」
慌てて宥めると、二人はにらみ合ったまま渋々と食事に戻る。しかし、互いの間にはイガイガした空気が漂ったままだった。
二人とも、以前はこんな感じではなかったのだが……どうにも魔王化後のブラッドリーとルーシーはあまり相性が良さそうではない。言いたいことを言うルーシーの遠慮のない言葉に、いつその配下たちが腹を立てないかも恐ろしくて……
ふと、ハラハラしたエリノアが顔を上げると、ニコッとしたテオティルと目が合う。
「安心してくださいエリノア様。私がいます。その時は、私が全力で二人を黙らせます」
「…………」
お任せくださいと邪気のない顔の聖剣に……エリノアが青い顔でうなだれる。
万年反抗期令嬢と魔王、そして聖剣の三つ巴戦なんて……絶対に勘弁してほしいと思うエリノア。
こんなスリリングな食卓はなかなかないに違いなかった……
「で?」
ブラッドリーを睨みながらパンをかじっていた令嬢は、ふんと鼻を鳴らしてからエリノアを見る。
「え……な、なんですか?」
「実際のところブレア様とはどうなってるの?」
「え!?」
エリノアがギョッとしてスプーンを皿の上に落とした。
「だってブレア様わざわざ引き返して戻られて、それでなんて言った? 手を繋ぐなですって! 普通言う? そんなこと。なんとも思っていない相手に言うことじゃないわよ!」
ルーシーはいつになくニマニマ笑ってエリノアを見ている。
エリノアは……真っ赤な顔で「そ……っ」と、言葉を無くしてから、しばしぱくぱくと魚のように口を開けたり閉じたりしていた。
それから……おそるおそる、恥ずかしそうな顔で義理の姉に問い返した。
「そ……そう、なんですか……?」
戸惑ったような顔に、ルーシーは余計楽しそうにニンマリして。うんうんと弾むように頭を縦に振り、好奇心を抑えられないというと表情でエリノアに向かって身を乗り出した。
「で、どうなの? エリノアはブレア様のことどう思ってるの!?」
「え……そりゃ……ブレア様は素敵な方です、けど……」
言いながら、恥ずかしいのかエリノアの顔がだんだんと下を向いていく。
「そもそもわたくしめなどとは同じステージにおられないと言いますか……王子様に向かって図々しいと言いますか……」
しどろもどろの答えに、ルーシーが唇を尖らせる。
「確かに身分差はあるけど——舞踏会の時だってすごく似合って——」
いたと、言いかけて、令嬢は困ったように口をつぐむ。
エリノアの言うことももっともだった。
将軍家に養子に入ったとはいえ、王子と侍女、二人の間はけして近いとは言い難い。
女子トーク的なノリで話題にするのは容易いが、はたしてこの二人実現可能な仲なのだろうかとルーシーは思案する。
エリノアは、長らく病気の弟を抱えて生活して来たこともあって、現実的なところがある。
弟第一、生活第一が彼女の信条であろう。
もしエリノアがブレアの妃になれれば、弟も安泰で、姉弟二人左団扇で優雅な生活がおくれそうな気もするが……
これまで下働き生活を送り、堅実さをモットーに、細々城下で暮らして来た娘にとっては、王族の妃など。遠い夢。実現可能なことと思えなくても不思議はない。
そしておそらくそこを突破できない限り、エリノアがブレアに踏み込むことは難しいのではないか。
ルーシーは、ここにさらに、『勇者と魔王』問題が存在していることを知らない。
しかし惜しいとルーシーは思った。
あの鉄仮面のブレアが外に感情を漏らすということは、彼の中では相当エリノアに対する想いが膨れて上がっているということのような気がして。
「……それがエリノアに伝わればねぇ……」
どうしたらいいだろうか、と頬杖をついて漏らすルーシー。
いっそ、王子はきっとあんたのことが好きなのよともっとエリノアを焚き付けてみるか。それとも反対に、ブレアの方に突撃して、直談判に行ってみるか——もしくは、父と共謀して外堀から埋める作戦で——
と、ルーシーがあれやこれやと思い巡らせていた時……その肩にツンツンと触れるものがあった。
「……ん?」
ルーシーが振り返ると、そこには太ましい婦人……コーネリアグレースが立っていた。
「? 何?」
どっしりした風貌の婦人は、どこか愉快そうな笑顔で彼女を見ている。
すっかり彼女を昔のトワイン家の使用人だと思い込んでいるルーシーは、話しかけて来た彼女を不思議そうに見上げた。と、婦人が言った。
「お嬢さん……ブラッドリー様の殺気を完全スルー出来るなんて物凄い図太い精神ですわねぇ、と……いうのは置いといて……そろそろ、そのガールズトークおやめになったほうがよろしいかと思いますわよ」
「?」
婦人の警告めいた言葉に、ルーシーは怪訝そうな顔をする。と……
気がつくと、いつの間にか室内がいやに暗い。ただ、なぜかテオティルという青年が薄ぼんやりと光っていて、そしてその明かりの中、エリノアが弟に向かって必死で止めろ止めろと叫んでいる。
「? 何? 何事?」
「ブラッド! ど、どうしたの!? 部屋に闇を呼び込まないでっ!」
「…………」
身体を揺すぶられている弟は、何やら壮絶に不愉快そうな顔をしている。
まさかそれが自分とエリノアの会話のせい……というか魔王の魔力のせいだと思わないルーシーは、いったいなんなの? と、眉をひそめている。
と、ああそうか、とルーシー。
「……やれやれ、ブラッドリーは相変わらずなのね。あんたの姉さん好きも大概ね、そろそろ姉離れしなさいよ」
令嬢は、魔王の不機嫌によって引き起こされる室内の暗く、重苦しい空気の理由は何も分かってはいなかったが……ブラッドリーの恨めしそうな顔には心当たりがあったらしい。
呆れたように薄ら笑いながら、エリノアが作った料理に手を伸ばすルーシーに……ブラッドリーが仄暗い殺気を向けている。その目が……なんか赤く光って見えるような気がして——……忍び寄る魔王の力にも全く意を介しない個人主義すぎるルーシーの様子にも——……エリノアはものすごく気が遠くなった。
「ふ、二人とも……」
「だったら何……? ファザコンのあんたにだけはとやかく言われる筋合いないんだけど……」
付き合いは長いが……エリノア以外を絶対に「姉さん」と呼びたくないらしいブラッドリーはルーシーを「あんた」呼ばわりで睨んでいる。
と、今度はその禁句(?)に、ルーシーがドンとテーブルを叩いて立ち上がる。
「ファザコン!? 私はファザコンじゃないわよ! ちょっとパパが好きなだけで……」
「僕だって姉さんがすごく好きなだけだけど? なんか文句あるの……!?」
「はぁ!? チッ、なんなのよこのシスコン坊主! さてはそういう本性だったのね!? いい度胸じゃないの……病人じゃないなら手加減しないわよ!」
ルーシーは蛇のような顔で、猛虎のように吠えている。それを迎え撃つブラッドリーの顔の、冷たいことといったらなかった……
「ちょ、や、やめっ……二人とも!」
慌てて止めに入るエリノア。その争いを見ながら……
黒猫が腹を抱えて笑っている。
「こっわ、あの人間……こっわ!」
「あれは……人間なの? 素質あるわ〜」
「……」
惚れ惚れと言うコーネリアグレースに、ヴォルフガングが、何がだと言うげっそり呆れた顔をしている。
お読みいただきありがとうございます。
まだ復活できてませんが、思考力は取り戻してきました。そろそろ次の展開に行こうと考え中です。




