39 動揺と、勇者の影
え、と男は目を丸くした。
「それで引き下がって来たんですか!?」
それだけで!? と目をむく騎士の視線の先には、無言でうなだれる男の姿が。
立派な背を曲げて、執務机に肘をつき、手で額を押さえる表情はいかにも苦悩に満ちている。もう片方の手は強く握られて机の端に乗せられていて。その拳から滲み出る無念さには……オリバーは、束の間唖然とした。それは男がかつて見たことのない王子の姿だった。
――王子がオリバーたちと別れたあと。
ブレアの住まいに残されていたオリバーは、エリノアを探しに来たサロモンセン家の従者から、王子がどこかへ走って行ってしまったと知らされた。
彼女の話やセレナやトマスたちの話をすり合わせて。これはきっと、ブレアはエリノアのところへ行ったのだろうとピンと来たのだが……
その後、執務室に帰って来た王子の顔がこれである。
王子を出迎えた官や騎士、僕に至るまで誰しもが戸惑って。そうして王子の執務室に動揺が静かに広がっていく中、部屋にはオリバーひとりが残された。
他の者たちは皆神妙な顔で、健闘を祈る……とかなんとか言いながら退出して行った。
ブレアの傍で働く彼らは、口の重い第二王子が、あまりベラベラと個人的な話を皆にする性質でないことをよく知っている。
そうしてどうやらいつの間にか皆にブレアの異変の原因究明を託されたらしいオリバーは、執務机の向こうでぼうっとしたままの王子の様子をまじまじと観察した。
執務机の前に腰を下ろしたブレアは、一応そこに積み上がっていた書類を手に取っているのだが……それきり心ここに在らずな状態で動かない。
オリバーが話しかけるも……王子は暗い顔のまま、ため息以外はうんともすんとも言わない。
見かねたオリバーはしまいにはこう切り込んだ。
『エリノア・トワインと何かあったんですか』
すると――案の定ブレアは弾かれたようにオリバーの顔を見て。
ああやっぱりなと思ったオリバーは、まさか玉砕したとかじゃねぇだろうなとひやひやしながらも……それを切り口に王子を問いただしたのだが――……
話を聞いた男は、いやちょっと待って下さいと手を上げる。
「え? それで――そのまま連中を帰したんですか? エリノアと……銀の……髪の男……?」
手のひらを王子に向けて、反対の手で己のこめかみを押さえた男は、いったい誰なんですかそれはと聞いた。
するとすぐさま冷えた声が返ってくる。
「知らぬ。……将軍のご令嬢と共にいたゆえあちらの関係者だろう」
「はぁ……」
素っ気なく返されたオリバーは納得のいかない様子で眉間にシワをよせている。
いや、男が誰だとかいう問題はこの際置いておこうとオリバーは思う。
「ブレア様……こう言ってはなんですが……もっと何かあったんじゃありませんか……?」
「何かとは?」
「男を牽制してくるとか、新人娘を奪い取って連れてくるとか……手を繋ぐなって……そこですか!? いや……それも確かに気になるでしょうが……なんかもっとこう……重要なとこがあるでしょう!?」
オリバーはじっとりした顔で目を吊り上げてブレアを見る。王子の安泰な将来のためにもきっちり良い伴侶を得て欲しい熊騎士は、どうやら本日は彼をしっかり叱っておこうという算段のようである。
「分かる……俺には分かりますよ!? 恋愛レベル1……みたいなブレア様がそう上手いこと立ち回れないことくらい……! だけどっ……誰だそいつ、みたいな追求もしなかったんですか!? それじゃあ指くわえて獲物をさらわれていったのと同じではないですか!」
「……おい獲物などと……」
言うな、と言いかけたところでそれはキッパリと遮られる。
「いーえ、ブレア様。今そういうのいいですからっ」
じとっとした目で王子の言葉を断じた男は、何故ですか!? と、顔をブレアに迫らせて問い詰める。その顔に……
「…………………」
ブレアは十分すぎる間を置いてから――
配下を見ていた瞳をすっと斜め下にそらし、やや気まずげな顔でつぶやいた。
「……………………動揺してしまった……」
「はぁ!?」
「…………」
その答えに眉をひそめる配下に、ブレアが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……情けないのは分かっている。だが、真実そうであったのだからどうしようもない。そして過ぎたことも変えられぬ」
どうしようもないと言いながらも、その目にはどこか悔しさが浮かんでいた。
唸っていたオリバーも、その真剣さには黙りこむ。
「あの者たちの繋がれた手とエリノアの笑みを見ただけで――まるで喉元に矢でも受けたかのように声が出なくなった」
ブレアはその瞬間のことを思い出して物憂げな顔をする。
エリノアと見知らぬ男。繋がれた手。それを目撃したあの瞬間――ブレアの身体は衝撃にすっかり支配されてしまっていた。
驚き、戸惑い、そして憤りと。そして……
ブレアは擦れるような声で静かに言った。
「……何故かは説明できない。だが……あの時確かに感じた。あの二人は……けして離しえない存在なのだと」
「え……?」
ブレアの思い詰めたような表情にオリバーが戸惑っている。
――それは、城下で出会ったエリノアの“兄貴分”とエリノアのと間に感じた親しさとはまた違った鮮烈な印象だった。
どうしてそう思ったのかは分からない。だが、あの二人を見た時、ブレアは二人の間に、切り離しようがない何かを……強力な力のようなものを感じた。
その不可解なものの正体が、愛なのか、または別の絆なのかは彼には分らない。が……それは、彼に強い敗北感を与えた。そこから溢れ出てきた言いようのない感情が、激しい嫉妬だったこともブレアを苦悩させる。そんな強い嫉妬を持ったことが、彼はこれまで一度としてなかったのだ。
と、それを聞いて、オリバーが顔をしかめる。
「どういうことですか……? 入りこめないほど二人が親しげだったということですか? それともブレア様でも負けそうな屈強な相手だったと……?」
「いや……そう鍛えているというふうの男ではなかった。それに、そう親密そうだったわけでもない」
透き通るような肌に、美しい銀の髪と、明るい橙色の瞳を持った青年。
彼とエリノアは手は繋いでいたが、ベタベタした感じは見受けられなかった。男の顔は純粋に幸せそうで……
それだけならば、ブレアはきっとここまであの二人の間に踏みこみ難いとは、感じなかったはずだ。
「…………」
ブレアは沈黙したまま身を起こした。椅子に背を預けて天井を仰ぎ、己の心の中に浮かんだ、激しい失意について考える。確かに他の男と手を取り合っていた姿は見ていて気分の良いものではない。だが、それ以上に、何か不可思議な力を感じたのだ。
――あの男が隣にいた時、エリノアは――何故か、ひどく手の及ばぬ者のように見えた。
あれはまるで、とブレアはそのまま目を閉じる。
(まるで……聖殿で女神像を見上げる時に感じるような…………)
――そう思った時。ふと、ブレアの脳裏にエリノアの姿が思い浮かぶ。
背を向けた娘。
いつも通りのメイド服。
風になびく黒髪……
――彼女の向こう側には、大きな――
――女神の大木。
――大木は彼女を守るように緑の枝先を枝垂れさせていて。
――その
――白い右手に……
――銀色に輝く、何か――……
「――ブレア様!?」
「!」
名を呼ばれて。思いふけっていたブレアがハッと目を開ける。
「どうかしたんですか……? 大丈夫ですか?」
「いや……」
急に物を言わなくなったブレアの顔を、配下は心配そうに覗きこんでいた。
その大地の色の瞳を見ながら……夢と現実の境に立たされていたような感覚に……ブレアは瞳を瞬いた。たった一瞬だが、思考が不思議なイメージに囚われていた。
(……今のは……?)
感じた既視感に戸惑う。その中で……ブレアは勇ましい娘の姿を見た気がして……
何故そんなものが思い浮かんだのかは不明だったが……もしかしたらと彼の口が動く。
「え?」
「……もしかしたら……私が敗北を感じたのは、男ではなく……エリノアにだったのかも、しれんな……」
「は……?」
王子の突拍子も無い発言に、オリバーが怪訝な表情をする。あのそそっかしい娘に何故という顔だ。
ブレアはそんな彼に首を振って。なんでもない、少し思っただけだとつぶやいた。
お読みいただき有難うございます。
体調不良により、しばらくの間更新をお休みいたします。




