38 第二王子の短い要求
「…………」
「……? あの……殿下?」
無言のブレアがどこを見ているのだろうとその視線を追ったエリノアは——ハッとして、自分の手が、テオティルと繋がれたままであることにようやく気がついた。
銀髪の青年は、相変わらずきょとんと悪びれもなくエリノアの手を固く握りしめている。
「! ……、……、……」
主人の前である。
しまったと思ったエリノアは、さり気ないふうを装って(※装えてない)テオティルの手から己の手を引き抜いた。隣でテオティルがあからさまに悲しそうな顔をしているが……ひとまずそれはごめんと心の中だけで謝まって……後回しにすることにした。
もはやエリノアにとって、テオティルは幼児も同然だ。が……はたから見れば、彼は立派な青年である。
流石に王宮侍女が職場の廊下で、しかも担当王族の目の前で男と手を繋いだままなのは勤め人としてはいただけなかった。そもそも思い切り部外者のテオティルは、王宮では不審者扱いされても——
(おかしくな……あ、れ…………テオ?)
そこまで考えたエリノアは、はたと気がついた。それは重大な気づきだった。
——なんだかんだいろいろあって失念していたが……
(……しまった……部外者っていうか……)
緑の瞳がうっと聖剣の化身である彼に向き……そして次に主人ブレアをハッと見て——……
エリノアの顔色は失われた。
(…………聖剣と、ブレア様を……出会わせてしまっ……)
気がついた途端、エリノアの口からうっと喉を詰まらせたような音が出る。危ないところで悲鳴を堪えたが、冷や汗は止めようがない。
現在、聖剣の姿形は世間様の認識する形からまったく変わってしまっている、とはいえ……ブレアは勇者誕生の瞬間の、唯一の目撃者である。そんな彼に、再びテオティルを会わせてしまうとは……
(つ、痛恨のミス……)
恐る恐る見上げると、ブレアはじっと静かにテオティルを見ている。
エリノアは焦った。隣で未練がましくエリノアのはずされた手を見ているその青年の顔は間抜けにも程があるが……その実彼は、千年の間、国内外の多くの強者たちの憧れの存在であったものである。この国の王子であるブレアとて例外ではないはずだった。
そんな憧れの化身を前に——もしかしたらブレアは何かを感じ取ってしまっているのか。
もしこれがきっかけとなり、彼が何か……メイナードが封じたエリノアに関する記憶を思い出してしまったら——……
(ああああああ!?)
……と、
固唾を呑んでブレアを見ていたエリノアの背を……ツンツンと、つつく者がいた。
……ルーシーである。
「ひっ!? え、あ、ルーシー姉さん……?」
エリノアがギョッと振り返ると、義姉はうさんくさそうな顔で眉を持ち上げている。
「ちょっとなんなの……ブレア様のガン見が怖いんだけど。あんたたちさっさと離れなさいよ……」
「は……?」
ブレア様がやきもち妬いてるわよと平然とした顔で言ってくるルーシーに、エリノアはポカンとして。ブレアはピクリと眉間をよせて顔を上げる。
「や、く……?」
それに驚いたのはエリノアである。
「ひぃっ、ちょ、姉さん!」
しかし王子に顔を向けられたルーシーはというと……すんとした顔で、あらと横目を細めている。
「そうですよ殿下。違うんですか? そういうふうにしか見えませんけど?」
その微妙に挑発的な顔に……エリノアがまた別の意味で青ざめている。
以前からこの義姉は、少々歪んだ父愛のせいで、密かにブレアをライバル視している節がある。
分かっている、それは分かっているが……義姉の態度にエリノアは身の竦む思いである。
慌てたエリノアは義姉に飛び掛かり、その口を塞ぐ。
「姉さん! や、す、すみませんブレア様! ルーシー姉さん! 今冗談言ってる場合じゃないから!」
「何よだって……ちょ、押さないでよエリノアっ」
「? エリノア様?」
いいからちょっと待ってて! ……と、ルーシーとテオティルを己の背後に追いやって。エリノアはブレアに向かい直った。必死に両手両足を広げ、テオティルをかばう姿には、再びブレアがムッとしている。
「も、申し訳ありませんお騒がせしてしまって……あ、あの、王宮にお戻りになられたんですね? な、何かわたくしめにご用命でも……」
必死の額には汗が浮かんでいる。
青年はそんな娘の顔をしばし無言で眺めて何かを考えているようだったが……周りに気がつかれぬ程度のため息をつくと、彼はエリノアに向かって首を振る。
「……いや……サロモンセン家の者に聞いた。令嬢の指輪を拾う為に池に入ったそうだな? あの池は場所によっては深さがある。大丈夫だったのか?」
真剣な顔で怪我はないのかと問われて。エリノアは一瞬キョトンとしたが——すぐに慌てて頷いた。
「あ——……はい、大丈夫でございます……え?」
肩透かしを喰らったような気がして。エリノアはパチパチと瞳を瞬かせる。
てっきりテオティルのことを尋ねられるのだと思っていたのだ。だって、あんなに食い入るようにテオティルのことを見ていたのに。確かにあれは何か思うところがあるという顔に見えたのだけど——と、少しだけ困惑した様子でエリノアは主人の顔を見上げた。
けれどもブレアは、それ以上は何も言わず、「そうか」と一瞬ホッとしたような顔をして見せただけだった。
エリノアは、気のせいだったのだろうかと首を捻った。
と、安堵したような様子を見せたブレアが半分身を返し、エリノアに言った。その表情はもう普段の様子と変わらない。普通に、真顔。
「では私はこれで失礼する。お前も……その者たちと共に帰るといい」
「え? ブレア様?」
そのまま去って行こうとする主人に、エリノアは何か違和感を感じるままに見送っていたが……
(……あれ?)
と、その時エリノアは、ふと、この廊下がクラウスの住まいへ向かうための廊下であることに気がついた。
ブレアとクラウスは普段から対立していて。彼ら兄弟王子はほとんど皆無と言っていいほどに互いの住まいには行き来がない。
それなのに、どうして今日は、忙しいはずの主人がここにいるのだろうと思ったエリノアは——もしかして、と心の中でつぶやいた。
(……もしかして……)
ブレアは自分に怪我がないかを問う為に、わざわざここまで足を運んで来たのだろうか……
(…………いや、まさか……)
エリノアは不思議そうに、遠ざかっていく主人の背中を見送って——
……いたのだが。
不意に、去って行こうとしていたブレアがくるりと身を返し、エリノアの前まで廊下を戻ってきた。
「あれ? ブレア様?」
「……」
難しい顔で戻って来たブレアをエリノアが丸い目で迎える。と……
主人は、厳しい顔のまま、一瞬テオティルを一瞥する。そして視線をエリノアの緑色の瞳に戻し、長い沈黙(※逡巡)のあと、彼は毅然とした顔で言った。
「……………………手は繋ぐな」
「はっ…………………………は……?」
反射で「はい!」と、言いかけたエリノアの顔に……疑問が浮かぶ。
「……手?」
「…………」
しかしブレアが言ったのは、それだけだった。
それだけを言い残し……ブレアは無表情で颯爽と身を返し、廊下をすたすたと去って行く。……そのこちら側で、それだけをやっと言えた青年が、痛恨の面持ちで顔を赤くしていようなどとは……もちろんエリノアには分からない。
——そうして残されたエリノアは……ぽかんとして。眉間だけは怪訝そうに、意味が掴めないというようにこわばらせて……
「え……? 何? 何が……?」
神妙な顔で主人の発言について思い悩みはじめた娘の後ろで……ふんと音がした。
ほーらね、とルーシーが鼻を鳴らしている。
「やっぱりね。妬いてんじゃないの」
お読みいただきありがとうございます。




