32 木登り要員エリノアと、怖いお姉さん
「ひーっっっ!」
エリノアは叫んだ。
王宮の外。建物の傍に立つ木の上で。精一杯に腕を伸ばしながら。
なんとも情けない声だが仕方がない。
木は幹のしっかりした比較的登りやすい木ではあったが、何せ高くて怖い。
だというのに。エリノアが利き手の指先から脇腹、右足までをピンっと一直線にめいっぱい伸ばしても……その、目当てのものには指がかするだけ。だが、もうこれ以上うえには、枝が細くなっていて登れない。きっと登れば枝が折れてしまう。
困ったエリノアは、木の幹にしがみついたまま上を見上げる。
深緑の梢の一枝に、黒い一枚の上着。
飾りはないが、一目で安物ではないと分かるその上着は……エリノアの主人、ブレアの所有物である。
エリノアは高所に青ざめながら渇望する。あれだ、あれが取りたいのだどうしても!
しかし……いくら願ってみても、枝に絶妙な引っかかり具合の上着は落ちてきやしない。
必死に木につかまりながら……エリノアは、一体どうしてこのような事態に——年甲斐もなく木登りなどに、それも勤務中に——興じる羽目になったのだろうかとげっそりする。
と、そんなエリノア に、木の下からやや緊張感に欠ける声がかけられる。
「エリノア〜、悪いわねぇ~」
声の主は……同僚のややお年を召した先輩侍女セレナである。
「ごめんねぇ、私がもうちょっと若かったら登るんだけど……なんせこの前痛めた腰が痛くて……大丈夫?」
「は、はい……大丈夫です……」
エリノアが青い顔ながらもなんとか頷くと、侍女セレナは、まあ頼りになるわねぇと嬉しそうである。
——ことの発端はこうだった。
彼女セレナは本日忙しい主人のために、宮廷の執務室まで衣類などを届けに行った。が……
その帰り道、王宮と宮廷とをつなぐ道を歩いている時に、彼女は取り替えて持ち帰って来た、衣類や借の寝床用のリネン類を数点、突風にさらわれてしまったそうなのである。
そしてさらわれた衣類たちは広い王宮の庭園のほうへ飛んで行き――……慌てた彼女が同僚に助けを求め、現在に至る。
つまりそのうちの一点が、現在エリノアが脇腹をつりそうになりながら手を伸ばしている先にある、あの上着である。とどのつまりエリノアは、ブレアの私室付き侍女の中で一番若いゆえに、木登り要員として連れてこられたというわけであった……
まあ、確かに普段から腰が痛いと訴えるセレナには木登りは厳しいだろう。
……そしてついでに状況説明しておくと……例の押しかけ護衛騎士たちは、すでに他の衣類を拾いに王宮の庭に散って行った後である。
何せ、彼らの大好きなブレアの衣類。事態を知った途端、彼らは目の色を変えて。エリノアそっちのけで回収に走り去っていった。
まあ……あの筋肉の塊のような男たちでは、この木の枝の細さを考えると、きっと重すぎて登れなかったことであろうし……何よりも、彼らはあまりにガサツすぎて、とても任せる気にはなれないとエリノアも(セレナも)思ったのだった……
「よ……よし!」
さて、エリノアは深呼吸してから、もう一度上着に手を伸ばす。が――しかしやはり駄目だった。
ブレアの上着は指の腹には触れるもののそれがやっとで。袖が枝に引っかかっているのか、手繰り寄せることができない。
なにせ物が物である。王子の衣類がかなり高価であることを当然知っている侍女エリノアは、破いてしまうかもという危険を犯してまで無理にそれを引っ張り取る気にはとてもなれなかった。しかし、諦めるわけにもいかないのが実情だ。
「だ、だめだ……やっぱりなんとかもう少し上によじ登ろう……」
エリノアはちらりと下を見て、ゴクリと喉を鳴らす。
彼女が立っている場所は、丁度少し先にある王宮の建物の一階と二階部分の境目と同じくらいで。ものすごく高いというほどではない、が……
悪いことに、傍には池があった。
落下して転がろうものなら落下ダメージに加えて水没の危機である。自分のそそっかしさをよく知るエリノアは、自分が池にハマる気がしてならなかった……
「……いや、恐れていては何も始まらない。なせばなる……! ……はず!」
エリノアは意を決して、つとめて慎重に、なんとか木肌の凹凸に足をかけ……
と――
「うっ!?」
——唐突な衝撃だった。
恐る恐る足をあげたエリノアの後頭部に、突然スコーンッ! と、小石でも投げつけられたかのような衝撃が……
それはさほど痛くはなかったが、急なことに驚いて。足を滑らせたエリノアは——慌てて幹に抱きついた。と、同時にぽちゃんと音がする。
「……っ、っ、……あ、……危なかった……な、何、今の――」
……と、幹につかまったまま振り返ると、その顔面に——何か白い塊が高速で飛んで来た。
「ぅっわ!?」
思わず首をすくめて目を閉じると、その次の瞬間、頭に、わしっ……と、何かが爪を立てる。
「ひ……」
首を竦めるエリノア。と――
「……おい、何をやっている……聖剣が見つかったぞ」
憮然とした聞き慣れた声に、エリノアが、あっと瞳を開く。
すると、頭から感触が離れ、ととと……と、素早い動きで、傍の枝の上に小鳥の姿が現れた。
「ヴォルフガング! 見つかったの⁉︎」
「ああ。すぐ近くの王宮内で発見した。……何をしている、急げ、どうもやっかいな状況に巻き込まれているようだったぞ」
「え、えぇ……でも……」
エリノアは困惑したように顔を上げる。
若いとはいえ、運動音痴気味のエリノア。必死にここまで来たからにはあの上着は取っておきたかった。
と、すぐさま状況を察したか。小鳥ガングが、上着に向かって小さな羽を振る、と――
頭上の枝が丸々ボキッと折れて……
ブレアの上着をのせたまま、驚くエリノアの元までゆっくりと降りてきた。
「さっさと行くぞ!」
——さすが魔物。やることが乱暴である……
* * *
王子の住まい前の廊下は広い空間が設けられている。
エントランス入口の両側には大きなガラス窓があり、その前にはそれぞれ上等な来客用の長椅子が据えてあった。
その長椅子に腰を下ろし、令嬢たちに取り囲まれたテオティルは、不思議そうな顔で彼女たちの様子をじっと眺めていた。
あれやこれやと理由をつけて、ここまで強引にテオティルを引っ張ってきた令嬢たちは、きゃあきゃあと実にかしましい。
特に――テオティルの隣に陣取ったオフィリアはいたくご機嫌で。青年の腕に手を添えて身を乗り出し、その整った顔をまじまじと、満足げに堪能しているようだった。
「本当に美しいこと……名はなんと言うの? 歳は? 王宮のものではないでしょう? 誰かに仕えているのかしら……うちに来る気はない? いくらでも払うわよ」
オフィリアがそう言うと、テオティルの反対側にいた取り巻き令嬢が黄色い声を上げる。
「ずるいわオフィリア様……私だってこの者が欲しいです! うちはどう? 父は高官よ、うちに来たらいい暮らしができるように取りはからうわ!」
「あらうちだって!」
普段はあまりオフィリアには逆らおうとしない取り巻き令嬢たちも、稀に見る風貌のテオティルにすっかり興奮し切っている。
オフィリアが眉をしかめた。
「ちょっと……ずるいってなんなのよ……」
「だってオフィリア様にはクラウス様がいらっしゃるでしょう? 他の男性なんて必要ありますこと?」
令嬢はオフィリアを案じるようなふうを装い言った。
「そうですわよ、ビクトリア様だってなんておっしゃることか……私の家に仕えさせれば、オフィリア様だっていつでもこの者を愛でることができるようになりますわよ」
「……何を言っているの、ただの使用人よ。私がどんな使用人を抱えようと、ビクトリア様たちが口を挟むことではないわ」
ふんとオフィリアは鼻を鳴らす。
令嬢たちはすっかりテオティルを抱え込む気になっている。
「あの……」
勝手な言い合いに、困惑した顔のテオティルは令嬢たちに声をかける。が、彼を挟み、誰の家に召しあげるかで喧々諤々言い争っている令嬢たちはちっとも耳を貸さない。どうにも、テオティルを美術品か何かと勘違いしているような節がある。テオティルは、ため息をついた。
もういっそここで転移してエリノアの傍まで帰ろうか。
しかしながらそれは、自宅にいた時、女豹婦人コーネリアグレースから禁じられたことでもあった。
婦人は言った。
『ご主人様に迷惑をかけたくないなら不用意に人前で力を使わないこと』……と。
テオティルの頭の中で女豹婦人がくるくる踊りながら言う。
『臣下ならば主人に迷惑をかけてはいけません。エリノア様も陛下も普通にお暮らしになりたいと仰せです。ならば、外部の者の前では外部の者の常識に合わせて目立たぬようにすること!』
わかったわね? と……
「……うーん……」
婦人に言われたことを思い出したテオティルは唸った。
今、自分を取り囲んで騒いでいる娘たちはどう考えても“外部の者”で。
ここで転移して姿を消すことは、女豹婦人の禁止事項にバッチリあたってしまうのだろう。
「……」
ではこの者たちの前でなければいいわけだ。そう理解したテオティルは長椅子から立ち上がろうとした。が、それはオフィリアともう一人の令嬢に引き止められる。
「どこへ行くの? 許可もなく立ち去ることは許さないわよ」
「…………」
テオティルは令嬢の高圧的な顔に眉をひそめる。
と――
そこへ、通りかかった者があった。
その者は、騒いでいる令嬢たちに目を留めると――足を止め、グッと眉を持ち上げてドスの効いた声を出す。
「…………ちょっと……あんたそこで何してんの……?」
「「え」」
令嬢たちがとっさに顔を上げる——と。
そこには、目をしらっと細め、じっとりとした顔でこちらを見る——
「ル、ルーシー・タガート!?」
廊下の途中に仁王立つ、赤い巻き毛の令嬢の登場に――オフィリアが「うっ」と、引きつった。
ルーシーは柄の悪い半笑いの顔でオフィリアたちが腕を絡めているテオティルを見た。――ただし、目はひとつも笑っていないのだから恐ろしい。
ルーシーは言った。
「……その……無駄に目に刺さる美形は……うちの(義妹の)身内なんだけど……? なーんであんたたちと一緒にいるのかしらぁ……?」
……その瞳、威圧感……
まるで獲物を狙う鷹である……
お読みいただきありがとうございます。
今回も呑気な話です。が、次はそうではないかも……不穏なお嬢様が出てきてしまったので……




