29 テオティルとヴォルフガング
「テ……ッ!?」
と、言ったきり顔色をなくした娘の、声なき叫びが聞こえるようだった。
銀の髪の青年を見上げたエリノアは真っ青で、両肩をブルブル震わせている。焦って周囲を見回すと……幸い例の押しかけ騎士たち以外には洗い場には人影もなく……その騎士たちも、慣れない作業になぜかゲラゲラ笑っていて……突然現れたテオティルには気がついている様子はなかった。
と、エリノアを心底驚かせている青年は——ケロリとした顔でヴォルフガングを指差した。
「エリノア様? その者すでに濡れているようですが……さらに水をおかけになると……?」
そうですか、左様ですか、人とは不思議なことをなさいますねぇ……と、緊張感のない顔で微笑んだまま……青年がスッ……と——手を掲げようとした瞬間に——
エリノアがハッとした。直前に彼が何を出すと言ったのか、それを思い出していた。
「あ!? だ……駄目駄目駄目駄目……テオッ!」
「? エリノア様?」
エリノアに飛びかかられたテオティルがキョトンと首にぶら下がってきた娘に目をやる。エリノアは顔面蒼白で激しく首を振っていた。
「魔物に聖水って……それ絶対ヴォルフガング清められちゃうやつでしょ!?」
絶対駄目よ!
——と……エリノアは……ぎゅっとテオティルを抱きしめる。途端……聖剣はやたらと幸福そうな子供のように頬を赤らめて。それを傍目に見ていたヴォルフガングの目は、じっとり呆れたように細くなっていた。
「……それで……?」
低く警戒するような声が、テオティルにかけられる。
「?」
にこにこと主人を見守っていた人外の青年は、不思議そうな顔で声のする方を見た。
「え? 我が主人はとても一所懸命です」
「違う!」
授業参観に来た母親のような言葉を返してくる聖剣にヴォルフガングが吼える。
「?」
「チッ」
人の男の姿をした魔物は、探るような顔で彼を睨んでいる。
この不穏な二人組は洗濯場の端で、並んで座っていた。一方は石畳の上にどでんと胡坐をかき、もう一方はきちんと折り目正しく正座をしている。
「はぁ、そうですか? ではなんでしょう、私にとっては主人が無事そこにいらっしゃることが一番重要なのですが……それでとは?」
「なぜお前がここにいるのかだ。お前の主人は、お前に家にいるようにと固く言っていただろう」
「ああ……」
行儀よく座ったまま聖剣はそう応えて、問うてきたヴォルフガングを見ながら「ふふ」と笑う。その、微笑ましそうな笑みには……ヴォルフガングがムッと苦虫を噛み潰したような顔をした。
……何分……彼がいかに厳しい顔をしようとも、この直前、エリノアに無理やり身包み剥がれた魔物はどうにもキマらない……なぜヴォルフガングが濡れた騎士の隊服を着ているかと言うと……まあそう言うわけである。
己の滑稽さを自分でもわかっているヴォルフガングは、聖剣の聖の気がそばにある事もあってとても苛立っていた。
男はバツの悪さを隠すように舌打ちし、遠い水場で、彼が奪われた薬品まみれの服を懸命に水で洗い流している娘を睨んだ。その周りには、エリノアの鬼顔に気がついて干場から戻ってきた件の騎士たちの姿も見られる。
そんな姿を幸せそうな目で追いながら……テオティルは素直に問いかけに答えた。
「私がお言つけを破りここに来た訳ですか……それはもちろん、エリノア様がお感じになった突発的な危機感を察知したからです」
「突発的な危機感……?」
「ええ」
聖剣は主人を見つめたまま頬を緩める。
「剣と所持者の間には特別な繋がりがあります。私をはじめに握った時、主人様の手の平には私と同じ女神の印が刻まれた。その印を介して私にはエリノア様の状態がよく伝わってくるのです」
と、ヴォルフガングが首をかしげる。
「? 遠すぎると能力に限界があるから感知できないと言っていなかったか……?」
「ああ、あれですか? あれは女豹殿が……エリノア様について行きたかったらそう言えと」
「…………コーネリアグレースか……」
ヴォルフガングの頭に、にゃはん♪としたたかな顔の太ましい魔物の姿が思い起こされた。
「あ、あいつ……」
げっそりするヴォルフガング。その横で、テオティルはすました顔である。
「私も魔物と結託するのはどうかと思いましたが……あの時は、主人様がまた私を大木に戻してしまわれそうだったので。三度は嫌でしたし、私も放置された時間が長すぎて、とてもエリノア様に飢えておりました。ふふふ」
「…………」
清廉な顔で笑う聖剣に、こいつ……という目線を向けるヴォルフガング。
しかしテオティルにそれを気にした様子はない。彼は視線でエリノアを追いながら続ける。
「女豹殿には感謝しています。おかげでこうして私は正式に主人を得て、傍であの方の感情を感じていられます。主人様はいつも賑やかです。面白いくらいに」
こんな楽しい時間は、大木に、ただただ刺さっていただけの日々には得られないものだったと幸せそうに語る聖剣に……ヴォルフガングが鼻を鳴らす。
「……それくらい……あの娘が落ち着きのない人間であることは俺にでも分かる」
ふんと張り合うような言葉に……テオティルはそうですねぇとほのぼのと笑った。
「ふふ……エリノア様からは、一日に何度も様々な驚きや焦りが伝わって来ます。推察するに……日に何度も転んだり叱られたりなさっておいでなのですねぇ」
「…………」
でもめげない所が主人様の良い所です、あ、でもちゃんと反省もなさっているんですよ? 落ち込んで、それから浮上するまでの不屈さが尊いです、と……嬉しそうにつらつら語るテオティルの顔に……ヴォルフガングが大いなる呆れを滲ませている。
が……
不意に、幸福な思考しか心にない……という表情で主人を語っていた青年のオレンジ色の瞳が——すっと、ヴォルフガングに向いた。
「? なんだ」
どこか観察するような目に、ヴォルフガングがムッと問う。と、テオティルが口の端を持ち上げる。しかし、今度の笑みは目が笑っていない。その瞳に魔物が警戒の色を見せる。
「……ですが……先ほどの主人の感情は——ご自分がそういう災難にあう時とは比べ物にならないほど大きかったんです」
「……? 先ほど……」
怪訝そうな男に聖剣はにこりと笑う。
「先程のエリノア様の突発的不安のことです。とても大きくて……焦りと恐怖に満ちていました。いったい何事かと、とても心配したのですが……」
テオティルは人形のような目で、ヴォルフガングにひたりと静かな視線を送る。ニッコリと持ち上げられたままの口の端の形……ガラス玉のような瞳から向けられる視線は……どこか愉快そうでもあり、敵意のようでもあった。
「……主人様の心配事はあなただったのですね……」
「……何?」
言われたヴォルフガングは弾かれたような顔をした。
「あなたがその水に落ちたこと、とても心配なさったようですよ」
示されたなんとも言い難い色のタライの水。それに視線を落としながら……ヴォルフガングは意表を突かれたような気がして困惑の表情を浮かべる。
聖剣は、つまりエリノアがとても自分のことを心配していたのだと言っているのだ。
思い起こせば——このところ、自分も勇者であり人間であるエリノアに気を許しすぎていたような気がして……
そのことに対して、決して悪い気はしていない自分に気がついた。
再びチッと音がした。
ヴォルフガングは舌打ちして顔をそらす。
「……冗談ではない……」
お読みいただき感謝です。
少々投稿に間があきましたが、話が長めになってしまいましたので、分割して連投します。次話は本日の夜にでも。




