26 暗闇の白刃と、恐ろしいタンスからの届け物。
暗い窓辺に立つ青年は、城下を見下ろしながら、へぇ、と言った。
背後に立つ男たちからの報告を、どこか愉悦を含んだ表情で聞いてふっと笑う。
「じゃあやっぱり、兄上は……」
そこまで言うと、彼は唐突に噴出すように身体を折り、腹を抱えて笑い出した。
「ははは……! 本当に運に見放された男だな……! こんな情勢の変革期にそんな弱みを抱えこむなんて!」
嘲りをこめた笑い声が暗い室内に響く。傍に立つ彼の配下たちは何も言わず、ただそれを聞いている。
その男たちは普通の官服や兵士の服を身にまとってはいるが、ひたりと闇に紛れるような佇まいはただの一般兵とは明らかに違う。のっぺりとした静けさは平凡なようでいて、どこか得体の知れない不気味さを持っていた。
そんな感情のない視線の中で……げらげらと笑い続ける第三王子クラウスは、大げさなほどに声を上げて、半分だけ血のつながった兄を嘲ることを楽しんでいる。その様子は、彼の兄に対する根深く歪んだ感情を表しているかのようだった。
そうしてひとしきり笑い、やっと気がすんだらしいクラウスは……窓の外の夜空を見上げて、ああ、と悩ましげなため息をつく。
「実に楽しみだ……あいつらがこれを目にして絶望するさまが早く見たい……」
暗闇に浮かぶ白い月を見ていたクラウスは、降り注ぐ淡い光を追うようにして、後ろを振り返る。
――暗い彼の執務室。月光が闇を割るように伸びている、その先。
彼の執務机の上には、たった今届けられた“それ”が光を受けて淡く輝いていた。
クラウスは細めた瞳で満足げに“それ”を眺めている。
――輝く白刃を支える深い褐色の柄。施された細かな細工。
そして柄頭には――美しい女神の紋様が……
その印を改めて確認したクラウスは、もう一度高慢な顔で笑う。
ややアゴを突き出して、爛々とした双眸は暗い。
「――兄上たちは……どうやら私の周到さを甘く見ておいでのようだ」
* * *
――それは前触れもなく降ってきた。
あれから数日後。
エリノアは王宮の廊下を歩いていた。ブレアの住まいのエントランスを掃除しようと、腕いっぱいに掃除道具を抱え。抱いたバケツの中身をカタカタ鳴らし、ふぅふぅ息を切らしながら歩いていた時のことだった。
この日もブレアは住まいには戻って来なくて。
けれどもエリノアは、いつも以上に懸命に仕事に勤しんでいた。
――ぼんやりしていると不安でたまらなかった。
ここのところ町でも密やかに聖剣の噂が聞かれるようになって来た。
そういう噂話を聞くと、やはりエリノアも穏やかな気持ちではいられない。
しかもエリノアは王宮勤め。
事態の渦中という場所で、いつバレるかと心配しはじめるとキリがない。
そこでエリノアは考えた。悩みすぎるから駄目なのだ。
嘘が下手な自分のこと、ビクビクしていてはきっとすぐに怪しまれてしまう。
だからエリノアは、思い悩むいとまを自分に与えないことにした。
朝一番にその日やる仕事をずらりとメモに羅列して、それを全て消すことを目標に仕事に励んだ。
いつも以上に素早く動き、いつもの何倍も仕事を請け負った。
時間が余るとハリエットのところに行き、王女の相手をする傍ら、この地に慣れない彼女の侍女たちの為にも意欲的に働いた。足りないものがあれば調達に走り、手が足りないと言われれば駆けつける。
正直家に帰り着く頃にはくたくただが……そうして仕事に夢中になっている間は、不安を感じる余裕もなく、いつも通りの自分でいることができた。のだが、……それを見た同僚や顔なじみの門番たちからは、『どうした熱でもあるのか!?』と、物凄く心配されている……
幸い侍女業には、主人が不在でもやろうと思えばやれることはいくらでもある。
ところがだ、かたや勇者業はと言えば、今のところ特になんの使命もなくて。
人型化した聖剣から何か女神の啓示でもあるのかと思えば……今のところ、テオティルは家でほのぼのしているばかりである。
……つまり、エリノアは、ひとまず今まで通りにこそこそと聖剣を保持しつつ、弟を守りながら、侍女業をこつこつ続けるしかなかったわけなのである。しかし、それならば運動神経0、筋肉ほぼ無しの自分でもなんとかやっていけそうだと前向きな気持ちになったのも事実だった。
エリノアは、今のこの混沌たる生活にも少しだけ希望が見えた気がして――俄然張り切って――
いたのだが。
張り切るエリノアに、その精神攻撃は唐突にやって来た。
腕の中にはバケツと雑巾。洗剤の瓶が幾つか。額に汗しながら明るい廊下を歩いていた途中。突然――
エリノアの頭上に何かがバラバラと大量に降ってきた。
「へ!?」
いきなり真っ暗になった視界、そして同時に強烈な匂いが鼻を突いて……とたん、息苦しくなったエリノアはめまいと強い吐き気に襲われる。
「っ……!? ぅ、う……」
それは嗅いだこともないような悪臭だった。鼻から身を蝕むような臭いには、エリノアは思わず片膝を落とし、口元を手で押さえ呻き声をもらす。
――そして――……
叫んだ。
「こ…………こらあああああっ! く、臭い!」
「わははははは!」
エリノアが悲鳴のように叫んだ瞬間、背後からげらげらと笑う声。
明らかに己に向けられているその爆笑の前で……布やら革やらで出来た隊服や鍛錬着を頭にかぶったエリノアは、重みと鼻を突くような強烈な汗の匂いに身体をピクピクさせてうなだれている。
……叫んだ拍子に思い切り男臭を体内に取り込んでしまった。エリノアは今にも死にそうな顔である。
「う……何このにお……ぃ、いやっ、じ、じっとりしてる……!」
顔面を覆う一枚を慌ててはらいのける。と、エリノアの目には予想を遥かに越える数の汚れ物が飛び込んでくる……
まるで自分を埋めるような衣類の山は、それぞれ汚れていたり、穴が空いていたり……そして何より、もの凄い汗臭さだった……
「ひ、ひどい……」
何これ……と、エリノアは――キッと、そこで大笑いしている男を睨みつけた。
「……騎士オリバー! だからっ……脱ぎたてホカホカの隊服を人の頭に乗せるなって言ってるでしょう!? あ、汗臭ぁっ!」
もがいて大量の隊服の中から脱出したエリノアは、異臭から逃げるように、廊下の隅に後退る。と、その向こうにいた熊のような男が目を細め、エリノアに向けて手を上げる。
「よ、新人娘。心外な……脱ぎたてなんかじゃねえんだぞ、今日は格別強烈そうなやつを隊舎の皆のタンスの奥からわざわざ引っ張り出してきてやった。多分、十年ものとかもあるんじゃないか? 騎士の汗と愛国心の結晶だ、貴重品だぞ……じゃ、よろしくな」
「は、はあ!?」
十年ものと聞き恐れおののいて隊服を凝視していたエリノアだが――騎士がそれを平然と置いていこうとすることにさらにギョッとする。
「ちょ、ま、まさかその騎士様方がご自身のタンスで十年も発酵させていた隊服を……私に綺麗にせよということですか!? ちょ、ちょっと待って騎士オリバー! 無理! ちょ……」
慌てたエリノアは、オリバーを追いかけようとするが――慌てるあまり、ばらまかれた騎士の隊服に足を取られ、盛大にこける。その拍子に抱えていた掃除道具類が辺りに散らばって……放り出したバケツが丁度よくエリノアの後頭部の上に落ち――ゴーンと小気味いい音が王宮の廊下に響き渡った。
「ぎゃっ!」
「……」
バケツの衝撃に一瞬目を回したエリノアの……いかにも鈍臭い姿にオリバーがため息をついている。
「ぅ……」
「……なんなんだお前は道化か? ……果てしないな……どこまで“相応”とかけ離れるつもりだ……なんでブレア様はこんな鈍臭を……」
ため息をつくオリバー。
それから彼はエリノアをキッと睨む。
「お前は……せめてもうちょっと俺たちを納得させるような何かを見せろよ!?」
それはおそらく“ブレアの相手として”という意味だったのだろうが、ブレア付き侍女就任当初からオリバーたちにシゴかれていたエリノアは、それを“ブレアの侍女として”という意味だと受け取った。言われたエリノアはカチンとしたらしい顔を騎士に向ける。今までいったい何十枚騎士の隊服やら稽古着やらを繕ってやったと思ってるんだと騎士の視線を迎え撃つ。
「!? は、はぁ!? な、なんて言い草……こんなにも私の洗濯と裁縫能力に世話になっておきながら……あなた様の騎士道精神はいったいどうなって……あ!? ちょ、騎士オリバーどこへ!? ほ、本当に置いてっちゃうの!?」
こちらを睨んだかと思ったら、そのままさっさとどこかへ去ろうとしているオリバー。
ブレアの側近とはいえ、エリノアには騎士の衣類の管理まで行う義務はない。
しかし……ここがブレアの住まいである以上、エリノアはこの廊下にこんな悪臭を放つ物体を放置しておく訳にはいかないのだ。
離れた場所で振り返ったオリバーは、それを分かった上で意地の悪い顔で笑う。
「ブレア様もお忙しくてお戻りにならないし、どうせお前暇なんだろ? それでも洗ってついでに自分も清められろ、この悪女が!」
「あ、悪女……だと……!?」
ばーかばーかと、遠ざかっていく騎士に、エリノアが目を剥いている。
オリバーはその巨体に似合わぬ素早さで、あっという間に娘の傍から姿を消してしまった。エリノアは残された隊服の前で唖然としている。
「な……なんだったのあれは……」
「……あのな」
「ぎゃっ!?」
突然背後から話しかけられたエリノアが飛び上がる。
気がつくと――背後に二名の騎士がいた。
廊下に四つん這いでオリバーを見ていたエリノアの背後で、騎士たちは大きな身体を窮屈そうに丸めてしゃがみこんでいる。
「な、なんですか……?」
戸惑って問うと、大柄な髭の騎士が散らばった隊服たちを指差した。
「あのな、それは口実でな」
「こ、口実……?」
「オリバーは心配してんだよ、お前さんがブレア様の敵対勢力に狙われるんじゃないかって……」
「え……?」
なぜ? とエリノアがきょとんとする。
オリバーたちブレアの取り巻きからすれば当然の不安だが、エリノアには理解できない。
舞踏会でブレアの相手を務めたせいだろうか。それともブレアと志を共にする義理の父タガートの養子に入ったせいだろうか。と……首を捻っていると、騎士がなんでもないことのように言う。
「それでな、これから俺たち交代でお前の護衛することにしたからな」
「…………ん?」
「まあ、ここにいれば安全だろうけどなぁ、オリバーが、そのほうがブレア様も安心なさるって言うからさぁ」
「それに家からの行き帰りもあるしな? まさかお忙しいブレア様が毎日お前を送っていく訳にもいかないだろう? その間にライバル男がお前に何かしないように俺たち見張ろうって……」
「馬鹿! それは言わないほうがいいやつだ!」
「あ……すまん」
ゴンッと同僚に頭を叩かれた髭面騎士は慌てて口を手で覆っている。
「……え、ちょっと待って下さい意味分からないんですけど……らいばるおとこ?」
分からなすぎるエリノアは、難しい顔で眉間にシワをよせている。
彼らの言っていることの殆どが意味が分からない。しかし挙手をして聞いてみても、騎士たちは「いいよお前はわかんなくて……」「男心は単純なようで案外複雑なんだ、いつでも翻弄できると思うなよ……」と、何やらため息をつかれる始末である。
……ということでエリノアは……お花畑思考の護衛騎士二名を手に入れた。
「え……い、いらな……」
「気にすんな! 俺たち空気みたいに淑やかにしてるからさ!」
「な!」
ばっちーん! と、ウィンクしてくる筋肉二人の筋骨隆々さを見て、エリノアは――絶対無理だろと目を剥いた。
お読みいただきありがとうございます。
もうここまでお読み下さった根気のあるお方たちにはお分かりかもしれませんが…
このお話は、変でまぬけな展開にしかなりません。本当です。のどかで混沌です。
ところで、ガンガンONLINEアプリでコミカライズの連載スタートしております。
エリノアが可愛いのでよろしければ是非ご覧いただければと思います。
…早くコーネリアグレースでてこないかな~
誤字報告感謝です!
今日はちょっとスケジュールが立て込んでいるのでチェックは後ほどさせていただきます(>_<;)




