25 焦げるエリノアと、コーネリアグレースの不満
……ありがとう、じゃあ、と……
自宅前で青年を見送るために手を持ち上げた時――
不意に、リードがその手をとった。
思いがけない青年の行動に、エリノアがはじかれたように顔を上げる。
――自宅ドアの中に、黒猫と白犬を放りこんだ後のことだった。
驚いて。
エリノアがリードを見上げると、澄んだ水色の瞳がじっと自分を見ていた。青年は、「ノア」とつぶやいてから、はっきりと言葉にする。
「俺……あの人のこと、気になってるよ」
「あ……」
あの人――とは、もちろんブレアのことであろう。
エリノアはどうしようと一瞬視線を泳がせた。
リードはとても信頼できる人間だが、ブレアの身分をたやすく明かす権利はエリノアにはない。
「ええと……ごめんリード、それは……」
困ったような顔をすると、その八の字眉毛にリードはうん、と、苦笑するような顔で頷く。
「分かってる。聞いてはいけないことみたいだから聞かない。……だけど」
リードは言いながら視線をエリノアの手に落とした。
白い緊張した手。つい先ほど自分と同じようにこの手を握っていた者の姿を思い出すと、表情が曇った。
そんな幼馴染の様子にエリノアが戸惑う。
その姿は、ここに来るまでの彼の明るい様子とは落差がありすぎて。
かける言葉に迷っているうちに、リードがエリノアを見る。
「っ……」
そこに焦がれるような感情が見えた気がして――
エリノアの肩が大きく揺れた。
「今は詮索はしない。でも……俺が、あの人のことをすごく気にしてるってことだけは分かっておいて」
「……ぅ、うん……」
真剣な声におされるようにしてエリノアが慌てて頷く。
しかし視線を受け止めることで精一杯で、それ以上は言葉が出なかった。慌てふためいているうちにリードはエリノアからパッと手を離し、照れるような仕草を見せた。
「ま、そういうこと」
「リ、リード……?」
戸惑った顔で自分を見上げるエリノアに、リードは穏やかに笑う。
「お前と気まずくはなりたくないけど、何も感じてないって思われるのだけは嫌だと思って」
「!」
言ってやると娘のまるい額には玉のような汗がにじんで。そんなエリノアに内心で苦笑しながら、リードはあのな、と言った。
「エリノア、俺こう見えてお前の兄貴分から脱却したくていっぱいいっぱいだから、あんまり――」
……と、言いかけて、青年はいや、と笑うようにため息をついた。
「……ダメだな、そういう権利はまだ俺にはないか……とにかく、夜道には気をつけてくれよ。必要なら……迎えに行くから」
そう言って、青年はやはり優しく笑うのだった――
「…………」
リードを見送って。
エリノアは騒がしい心臓に戸惑いながら、やっとの思いで扉を閉める。
そうしてその玄関が、外部と空間が隔たれた途端……
……ゴンッと鈍い音が。
どうやら――エリノアが、張り付くようにして、木戸に頭を打ちつけたらしい……
その顔は真っ赤で、今にも頭から燻った煙がぶすぶすと立ち上っていきそうである。
エリノアはうち震えながら思った。――なんだか……今日は予想とはだいぶ違う一日だった……
隠れ勇者となった自分。
てっきり、もし今週自分に何か事件があるとすれば、それは勇者や聖剣関係だと思っていた。が……
思わぬ方向から――それも全然経験値のない方向から怒涛の勢いで人生の激流がなだれこんできたような気がして……情けないくらいに対処法が分からない。
「………ぉおおぉお……こういう時、世間のお嬢さんたちはいったいどういう対処を……」
みんなこういう荒波を乗り越えて恋愛しているのだろうか、…………みんな勇者だな! ……と、エリノアは破裂しそうな顔でブルブル震えている。
が――
天の女神はまたもやエリノアに、恥じらうとか、リードから見せられた想いに浸るとかそういうしっとりした時間を与えてはくれなかった。
「ふつ……ぅう!?」
扉の前でエリノアがああだこうだ呻いていると――……唐突に、頭がガクッと重くなる。ついでにその勢いでもう一度戸で頭をガツッと打った……
「痛っ!? ぅ……」
「おい……いつまでそこで呻いているつもりだ、鬱陶しい……」
「姉上、マゾ行為はやめてくださいよー脳細胞死んじゃいますよ?」
「…………」
気がつくと……再び頭の上にグレンが乗っている。頰には明らか故意だろう黒猫のしっぽがペシペシあたり、おまけに背中にはヴォルフガングが頭突きをしてくる。
――そして二匹は言う。
「……しょっぱかった」
「姉上の反応が面白かった」
「……」
なんのことかと言えば……考えるまでもなく、二匹がエリノアの顔をなめ回した件であろう。
……エリノアは釈然としない思いである。
と、『しょっぱかった』と言ったほう、白い犬ヴォルフガングが「まあ、化粧の味がするよりはいいがな」と、なんだかため息をついている。……じゃあなめなきゃいいじゃないかとツッコミたいが、一応助けてもらった手前文句が言えないエリノアは、諦めたような顔でげんなりしている。……と、黒猫。
「ほらぁ! 姉上! 私たちに何か言うことがないんですかぁ?」
ほらほらとしっぽで顔を打たれ……エリノアは。
「…………ありがとうね……」
とても複雑な思いでそう言うと、グレンはエリノアの頭の上からストンと床に降りて。しっぽをくねらせながら、「もう姉上ったら、魔物に借りを作るなんてぇ……この、うっかりさん♪」と――流し目を送ってくるものでかなりイラっとした。
まあそれはさておき。
エリノアがげっそりしていると……
家の奥から聖剣テオティルが走ってくる。
「主人さま! おかえりなさい!」
「う……」
即座にエリノアに張り付く青年に……グレンが壮絶に邪悪な顔で舌打ちをしている。
「寂しかったです!」
「テ、テオティル……お利口にしてた?」
頬ずりされながらエリノアがそう問うと、テオティルはオレンジ色の瞳を輝かせて主人を見る。
「はい! エリノア様が城下に出てこられたあたりから待ちきれなくてそわそわしたんですが……ママン殿が今外に出迎えに行くのはエリノア様の輝かしい青春の一コマを台無しにするからと絶対ダメだって」
「せ、青春……」
「そうなんです、そんなことをしたら、無理矢理剣に戻してどこぞで誰かを切って私を血まみれにして放置するって……錆びさせるわよとか脅してくるのですあの魔物は」
「…………錆び……」
思わず引きつって家の奥を見ると、ふとましいコーネリアグレースが「おほほ」とこちらに向かってウインクをよこす。
「ああでも、私も一応そんなことしたら聖の力で滅しますよとは言い返しておきました。だってエリノア様のおそばにはまだまだいたいですからね」
「…………」
にこっと笑うテオティルに、なんつー会話だとエリノアがさらにげっそりしている。そんな主人にテオティルはでもと、続ける。
「エリノア様の動悸が急上昇した時はさすがに戦闘態勢でおそばへ向かおうか迷ったんです。でも……ママン殿があれは“求愛行動に伴う一時的な興奮状態”だから気にするなって」
とたんにぶっと音がして。
にこやかに言われた内容にエリノアが思い切り噴き出している。
「な……あ、何!? ど、動悸……!?」
いったいなぜそんなことが分かったのだと、エリノアは真っ赤な顔で、婦人と聖剣との間で視線を行き来させている。が、テオティルは慈悲深い顔で微笑む。
「よいのです。それなら私も賛成です。勇者の子孫繁栄は私にとっても喜ばしいことですから」
「し!?」
「よい子が生まれるといいですねぇ、楽しみですー」
「は、はぁ!?」
勇者のこども~と……ほわほわ嬉しそうなテオティル。
言われていることは間違ってはないが……聞きようによってはなんだかかなりの誤解を人から受けそうな物言いである。それを聞いた……エリノアは……
キッと、コーネリアグレースを睨む。……もちろん顔色は熟れた果実のように赤い。
「コーネリアさん! テオティルに変なこと吹きこまないでくださいよっ!」
「まぁ、エリノア様ったら……あたくしせっかく三つ巴を防いで差し上げたのに……」
エリノアが真っ赤になって自室に逃げて行ったあと……
女豹婦人は不満げにそう言った。
「ねえ陛下、ひどいと思いません? あの二人と一緒にいるところに聖剣が出て行ったらエリノア様はそりゃあ大変なことになったんですのよ? 勇者問題的にも、エリノア様の今後の恋愛活動的にもあたくしかなり貢献したと思うんですけど……」
「……」
ぶつくさ言う婦人の前で、ブラッドリーは無言である。
憮然としたまま反応を見せない少年魔王にコーネリアグレースは、ニヤリと瞳と口元を弓なりに歪ませる。
「ま、本当は三つ巴ではなくて四つ巴だったんですけどねぇ……」
「……うるさいぞコーネリア」
睨まれたコーネリアグレースはおほほと笑い、今度は大げさに涙ぐみ、目の端をハンカチで拭う。
「よく我慢なさいましたねぇ陛下……今はメイナードもおりませんし、どうしようかと思いましたわ。あたくしは聖剣坊ちゃんをおさえるので忙しかったですし……」
「……」
――実は……
小鳥ガングから報せを受けたブラッドリーは、いてもたってもいられずに、すぐに姉の傍に駆けつけていた。
空間を転移し、エリノアたちの傍——彼女たちが道ゆく上空や家々の屋根の上から姉をじっと見守って……
当然のようにブレアがエリノアに何かすれば、すぐにでも青年を消すつもりのその手には、禍々しい黒刃が。
しかし――
『……疫病神などと呼ぶのはやめるように――』
「……」
……男が言った言葉を思い出したブラッドリーは、複雑な思いに駆られた。
昔から、タガート夫人の冷たい態度が、ずっと姉を傷つけていたことはブラッドリーもよく承知していたことだった。
しかし悲しいことに……それを払拭し、姉を癒すことがブラッドリーにはできなかったのだ。
なぜならば、姉はいつも自分を気遣う。
『ブラッドはそんなんじゃないわ』『大丈夫よ』と言い、夫人に『ブラッドリーは疫病神なんかじゃない』と言ってくれる。
けれども、ブラッドリーが同じ言葉を返しても、姉は私は大丈夫と言うばかりで、ブラッドリーを守ることに気を取られ、どこか自分の傷ついた感情は置き去りにしているような感があった。
どうして自分では姉を慰められないのかが、ずっと彼には分からなかった……
だが先刻、第二王子の言葉を聞いたエリノアの反応を見て、分かった。
きっと、エリノアには、ブラッドリーのように共にその渦中にいる人間ではなく、外側から自分たちを見て、客観的に『そうではない』と言ってくれる存在が必要だったのだ。
それを悟った瞬間、ブラッドリーの手の内からは黒刃が消えていた。
ブラッドリーは、この時、その一時の夕暮れの時間を——
エリノアがブレアの言葉に救われただろう一時を、姉から奪うことを諦めた。
直後エリノアの手を握った男の姿には腹も立ったし、それをしてやったのが自分ではなかったことが悔しくもあったが……そういう己のつまらない独占欲のせいで姉の安らかな時間を壊すのは忍びなかった。
……ブラッドリーは暗く冷たい表情で部屋の暗がりを睨む。
「……気に食わない……」
「ほほほ、まあまあ……よく我慢なさいましたわ。それに、陛下が邪魔しなかったせいで、エリノア様は少しリード坊のことも意識しはじめたようですし……結果オーライでは?」
「…………」
笑うコーネリアグレースに、ブラッドリーは大人びた顔でため息を落とす。
姉と同じ色の瞳が、エリノアが逃げて行った部屋のほうを見つめる。その複雑そうな様子に婦人が首を傾げていた。
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