24 ※(注)青年の腕の中で、黒猫は生温かい目で二人を眺めています。
その娘は揉みくちゃで。
白と黒の毛まみれで、ぐったりした涙目を彼らに向けた時、今度は誰もその涙について聞くことはなかった。
娘は片手でにんまり目を細めた黒猫をつまみ上げ、ジタバタする白い犬をもう片方の腕でがっちりヘッドロックして、ブレアにげっそりと言う。
「……ブレア様……申し訳ありません……わたくしめ……もうここで失礼してもよろしいでしょうか……」
「……」
もちろん、ダメなんてとても言えないブレアであった。
「…………」
去っていく二人(と二匹)の後ろ姿を見つめながら、ブレアはなんとも複雑な感情でそれを見送った。
だんだん遠ざかって行く娘の傾いた後頭部には、見るからにやんちゃそうな顔の猫がびったり張りついているが……エリノアにはもはや抵抗する気力もないらしい。
その後姿をブレアがハラハラと見守っている。あれでは首も疲れてしまうだろう。追っていって猫を取ってやったほうがいいのでは……と、彼が一歩踏み出した時――
不意に、彼女の隣を行く青年が一瞬ブレアを振り返った。
青年はブレアに軽く頭を下げると――エリノアの黒髪の上から猫をひょいっと取り上げ、再び歩みを進めていく。
――エリノアと、並んで。
その光景を見たブレアは、踏み出した足をそのままに思わず呆然と立ち止まる。
「……」
「ブレア様……大丈夫ですか?」
……気がつくと、そばにオリバーが立っている。
熊のような大男の瞳が心配そうな色をしていて。ブレアは、ああ、と小さく言って、彼の名を呼んだ。
「……オリバー」
「はい」
ブレアは二人の後ろ姿から目を逸らさずに、かたわらの騎士につぶやくように言う。
「お前の言う“相応”とは……ああいうものだろう?」
「……」
普段から、『“相応”の令嬢との婚姻を』――と……、彼に口うるさいほどに進めてくる配下たち。
その一番口うるさい大男は、しかしこの時ばかりは、ブレアの視線を追うようにして小さくなっていくエリノアたちの背を見ても、何も言うことはなかった。
共に並び道行く二人は、城下の雑踏の中に、自然になじむように紛れこんでいく。
――もし、エリノアの隣を歩くのがブレアなら、とてもああはいくまい。
ブレアの口元からはまたため息が落ちる。ひそやかな響きはもどかしげで。
それを聞いたオリバーは、側近としては彼の問いにきっぱりそうだと言ってやるほうが彼のためだとは思ったが……
「あーもうっ」
オリバーはボリボリと自分の頭をかきながら憮然と言った。
「……どうしたんですか、そういうことをいまさらあなたが気になさいますか? 相応だの人の評価だの……そういうものは、あなたは気になさらないお方だと思っていましたがね」
不貞腐れたように続ける騎士に、ブレアはいったいなんなんだと言いたげな顔をむけている。
「チッ……ホント気に入らない。俺たちが散々少しは気にして下さいと進言させていただいても、すこっしもお聞き入れくださらなかったのに……あー忌々しいなあいつは!」
「なんだ急に……まあ、しかし確かに今はひどく彼が羨ましいとは思う」
護衛が必要なこともなく、やすやすとエリノアと同じ場所に、彼女の生活の場に馴染んでしまう青年が。
ブレアは、エリノアが彼と並んで歩きはじめた時、彼女が一瞬どこか気恥ずかしそうな、照れたような表情を見せたのを見逃してはいなかった。
それを思い出すと、いても立ってもいられない心持ちになる。
――ただ。
それで衝動的に娘を追っていって、疲れているだろう彼女に、そいつは誰だ、どういう関係だとつめよるほど彼は自分勝手な人間ではなかった。
どうせ聞こうが聞くまいが事実は変わらない。
あの青年がエリノアにとってどんな存在であれ、得ようと決めたからにはやれることをやるだけである。
「……まあ、それが一番難しいのだが……ふむ」
それきり黙りこんでしまった主人に、今度はオリバーがため息をつく。
「……あーもう……」
と、その音に気がついて、ブレアが再び笑う。
「つき合わせてすまんな(※頼んではいない。勝手についてきた)、なにぶんこのような事態は初でな……どうすればいいのかさっぱり分からん」
「まあ……そうかもしれませんね……」
人付き合いにどうしても不器用なところのあるブレアならば、それも当然だろうとオリバー。
反対に、エリノアと共に行った青年は、明らかに主人とは真逆に人当たりの良さそうな男であった。あれは案外強敵かもしれないとオリバーは苦々しく思い、彼らが歩いて行った方向を睨む。
が、――しかしその姿はもうすでに街角を曲がりでもしたのか、彼らの視界からは消えていた。
それを静かに見送っていたブレアは、不意に踵を返す。
「……帰るぞ」
長居は無用という男の顔は、もう普段通りの表情で。そこに彼の感情はうかがい知れない。が、
付き合いの長いオリバーは、なんとなくブレアの心情を察して沈んだ様子を見せた。号令に集まってきた騎士たちもどこか浮かない顔である。
「ブレア様……」
「お前たち……ついてくるならついてくるで、もうちょっと追跡技術を磨け。なんだあの有様は……」
目立ちまくっていたぞと言うブレアに、騎士たちは申し訳ありませんと苦悩の表情を見せる。
「公務ではありませんでしたし……お邪魔してはならないという気持ちと、見たい、見守りたいという気持ちがせめぎ合いまして……!」
くっ……と悩ましげな顔をして拳を握る無骨な騎士たちに、ブレアが無言で呆れている。
「ブレア様! ご命令なら、俺たち今すぐあの男の素性を洗いざらい調べてきますよ!?」
「いかがなさいますか!?」
二、三日いただければ、趣味嗜好から弱点まで……完璧に調べます! ライバル男に目に物見せてやりましょう! ……と、鼻息の荒い男たちは……ブレアに即座に「やめろ」と断じられ、しょんぼりと肩を落とすのだった。
* * *
「……大丈夫かノア?」
随分激しくやられたなぁと顔を覗きこんでくるリードに、エリノアは憮然とする。その顔は半べそ状態だが、もはや、顔がベトベトすぎて、涙なのかよだれなのかも判別不能だ。
いそいそとその顔をハンカチでふいてくれているリードにエリノアはぴーっ! と、訴えた。
「そう思うなら止めてよ……! お、往来のど真ん中で……転げまわって叫んでしまった……う……は、恥ずかしい……」
さすがに王宮侍女にあるまじき姿だったと消沈するエリノアに、リードはごめんと苦笑する。
「いや……ヴォルフがノアにあんなに甘えるのは珍しいし、つい微笑ましくて……それにほら、俺、グレンにはいつも逃げられるから、あんまりちゃんと会ったことなかっただろう?」
そう言ってリードは、彼の腕の中にすました顔をして収まっている黒猫の頭を撫でる。いいなぁエリノア、あんなに懐かれて羨ましいと言うリード。に、……あの惨状を見て微笑ましいと言えるリードも大概のどかな性格だ。まあ、知っていたけど、とエリノア。
――だが。
ひとまずエリノアは、密かにほっと胸をなで下ろしていた。
先日の告白のあと、聖剣騒ぎが先だと言いつつも……次にリードに会う時にはいったいどんな顔をすればいいんだろうとずっと案じていた。
けれども、こうして今、リードはエリノアに普通に接してくれている。そして自分もまた、彼と普通に話せていることにとても安心したエリノアだった。
もちろん、想いを打ち明けられた以上、何らかの答えを彼には返さなければならないのだが……
正直、聖剣騒動のせいで、エリノアはまだそこまでのことを考えられていない。
リードはエリノアにとっては大切な存在だ。
好きか嫌いかと言われたら、断然好きである。
ただ、それが兄貴分だからなのか、それともまた別の形の“好き”に発展する余地があるのかが、エリノアにはまだ分からなかった。
(……恋愛、したことないしなぁ……)
エリノアは困って心の中で首を傾ける。
何せここまでの十数年、エリノアはずっと忙しかった。
伯爵家の娘であった頃は学ぶことで忙しくて、父が亡くなったあとはブラッドリーとの生活で、時間的にも、体力的にも、経済的にもずっとカツカツだった。
そんな状態では、たとえ素敵な異性を目にしてときめくようなことがあっても、それは一瞬のことで、結局はいつの間にか、『ブラッドリー大丈夫かな?』『ご飯食べたかな?』『今月の薬代足りるかな?』と……そんなことばかりに思考を支配され、ときめきは消えてしまう。家族の明日の命を危ぶむ時に、恋する余裕などとてもではないが、あるものではない。
――けどそうか、とエリノア。
ブラッドリーに健康不安がなくなった今、
(……私も……ちょっとはそういうことを考えても……いいのかな……)
年相応に、好きな人とか、恋人をつくるとか――
と、そんなふうに思った瞬間、隣を歩くリードが目に入って来た。その視線に気がついた青年が「うん?」と、不思議そうにこちらを覗きこんで来て――
その瞬間に、『好きだ』と言われた時のことを思い出してしまったエリノアの顔が一気に赤くなる。
「? ノア?」
「や、え? 何!? な、なんでも!?」
気恥ずかしすぎて挙動不審のエリノアは、もうそれ以上リードの顔が見られなかった。
(ぅ、うぅ……な、なんで平気なのリードは……)
信じられないと顔に汗を滲ませるエリノア。
と、額の汗をぬぐいながら……ふとエリノアは、ブレアのことを思い出す。
(……あれ……? そういえば……結局ブレア様は……どうして私を送ってくださったんだっけ……?)
結局わからなかったなと首をひねるエリノアだった。
お読みいただきありがとうございます。
黒猫、過去に『淫魔来い来い』とか言ってたなーと、なぜかこの回で思い出しました。
誤字報告本当にありがとうございます!毎度すみません!!(>_<;)




