10 ブラッドリー
呆れ顔の青年はリード・モンタークといった。働き者そうな彼は商人風のなりで、すらりとした身体に腰から下だけを覆うエプロンを身に着けている。
栗毛の髪は癖毛のエリノアとは正反対にサラサラで、瞳は澄んだ空色。素直そうな表情からは、面倒見の良さが滲み出ている。おまけに料理上手で気立てもいいときて、子供にもお姉様方にも、おば様方にも評判がいいエリノアの幼馴染だった。
いろいろ考えながら歩いて来て、すっかり時間と距離の感覚が失われていたエリノアは、「ああ、もうここまで来ていたのか」と、傍にあるモンターク家の商店に目をやった。リードの家は様々な食料品を扱う商店で、彼はそこの看板息子である。
彼らモンターク家の家族たちは、昔エリノアの屋敷に出入りしていたよしみで両親が亡くなった後でもこうして付き合いをしてくれる貴重な存在だ。エリノアが居ない時、弟の面倒や看病を手伝ってくれるのも彼らだった。
「リード、今日もありがとう」
気を取り直したエリノアは青年に向かって深く頭を下げる。と、リードは、うん、と腰裏のポケットに突っこんでいた小さな紙切れを取り出した。
「これ、今日の記録。……お前、もうちょっと落ちつけ? あんまりブラッドに心配かけるなよ」
「はい。ごめんなさい」
エリノアは素直にもう一度頭を下げてから、手渡された紙にざっと目を通した。そこには彼女が居ない間の弟の様子や食べたものなどの連絡事項がメモしてある。
ふと、その最後の辺りを見たエリノアが表情を曇らせる。
「夕食、食べなかったの?」
心配そうに娘が顔を上げると、リードが子供を宥めるようにエリノアの頭をぽんぽんと優しい調子で撫でた。
「体調は、まあ、そこそこらしいんだけどな……昼辺りから様子がおかしいんだと。一応医者にも診て貰ったけど特別悪くはないようだ。またお前の心配でもしてるんじゃないのか?」
「そう……分かった、ありがとうリード。おばさんにもお礼を伝えてくれる? 後で立て替えてもらったお医者様の代金払いに行くからその時にも直接言うけど……今日は先にブラッド見て来たいから……」
申し訳なさそうにエリノアがそう言うと、リードは肩を竦める。
「別にいいって。いつも言ってるけど母さんは無類の世話好きだから。医者代もいつでもいいよ」
「ごめん、ありがとう!」
エリノアはリードに頭を下げると、ぱっと駆け出そうとした。
「あ、ちょっと待て」
リードがエリノアを引き留めて、ずいっと手にしていたカゴを差し出した。中からは、ふわりといい香りが漂ってくる。
「夕食。母さんが何かブラッドの好物でも作っておいてやれって言うから作っといた。ほれ、持ってけ」
青年は「お前の分もあるから」と言葉を添えながら、エリノアの腕にカゴの持ち手を通してくれる。
それを見たエリノアは──……何だかとてつもなくホッとしてしまった。思わずリードの首に片手を回して抱きついて、そして近所の子供たちを真似て礼を言う。
「リードお兄ちゃん! ありがとう、好き!!」
途端、リードが微妙そうな顔をする。
「……お前なぁ、それやめてくんない?」
「あ、材料費払います。後程」
「………………」
すぐに真顔に戻る娘に、リードはどこかガッカリしたようにため息をついた。
リードと別れたエリノアは、その場所から路地に入ってすぐの木造の平屋の前で足を止める。
「ただいま……」
エリノアはゆっくりと扉を開き、自宅の中に入っていった。
王宮で見せた騒がしさとは打って変わった丁寧な様子には慎重さすら窺える。それはもちろん己のガサツな動作で弟に要らぬ心労をかけぬ為である。
「あれ?」
室内は何故かとても暗かった。
いつもなら、リードたちが明かりを灯して置いてくれるのだが。
エリノアは暗闇の中を手探りで進み、上着と鞄をテーブルの上に置くと、リードからもらったカゴだけを手に、すぐさま弟の部屋へと向かおうとした。
「あれ? ……ランプ、ついてる……」
ふと、サイドテーブルの上から吊りランプを手に取ろうとして──そこに、小さな明かりが灯っているのに気がついた。ではやはり、リード達はいつも通り明かりを点けて行ってくれたのだ。
それなのに、と、エリノアは辺りを見回して首を傾げる。
室内は異様に暗い。まるで黒い霧の中に閉じこめられたように、その明かりは肩身が狭そうに炎を揺らしている。
「? 何、これ……」
怪訝そうにしながらも、エリノアはひとまずその吊りランプを手に取って弟の部屋へ急いだ。
「ブラッドー……」
木戸を静かに押し開くと、またそこも重苦しいほどに暗い。
辛うじて……窓際に置いた寝台の上で、エリノアの弟、ブラッドリーが身を起こし佇んでいる輪郭が見えた。
「……ああ、姉さん。お帰り」
声に気がついたブラッドリーがゆっくりとエリノアを振り返る気配があった。
──途端──ふっと室内が明るくなる。
「……あれ!?」
持っていたランプの光が急に勢いを増し、エリノアが瞬きをして驚いている。
「……どうかした?」
弟の静かな声にエリノアは彼の顔見る。
「え、っと……今何か変じゃなかった?」
「そう?」
怪訝そうに問うも、弟ブラッドリーは青白い顔で薄く微笑んでいる。
エリノアは、不思議そうにランプを見ながら「壊れたのかな……」と首を捻りつつも──弟の寝台の傍に近よっていった。サイドテーブルの上にランプと、リードから貰ったカゴを置くと、弟の顔を覗きこみ、その額に手を当てる。
「ブラッド、具合どう? ……あれ!? どうしてこんなに冷たいの!?」
触れた白い肌はいやに冷えている。エリノアは慌てて弟を布団の中に戻そうとするが──ブラッドリーはエリノアの腕を押さえる。
「大丈夫だよ。……姉さんの手が温まりすぎてるんじゃないの?」
「ええ? そ、そんなことは……」
戸惑うエリノアの手にブラッドリーは手を重ねる。
その手もやはりひんやりと冷たいが、弟は微笑を崩さなかった。
「本当に大丈夫だから。心配しないで姉さん。……今日は特に気分がいいよ」
「…………」
確かに寝台に起こした身体には少しのふらつきも弱々しさもなく、しっかりとしている。苦しそうな様子も見えない。
だが……エリノアはその表情に何か違和感を覚えた。
顔色があまりよくないのはいつものことだが──そこには、いつもは感じられない静かで確信に満ちた自信のようなものが見て取れた。
普段のブラッドリーは、素直で優しげな雰囲気の少年だ。病弱で頻繁に床に伏せって、辛いのは自分自身であるだろうに、姉やリードたちを気遣うような……
それなのに──今、目の前に居る黒髪の少年は、どこか別人のような顔でエリノアを見る。
薄暗い中にエリノアと同じ緑色の瞳が爛々と輝いていて、その危険な光にエリノアは思わず片足を一歩あとずさりさせる。
「……ブラッド……? どうしたの? 何か変よ……」
姉の戸惑ったような声を聞いて、ブラッドリーは瞳を細めて微笑む。
「心配しないで。姉さんには何もしないよ」
「……それ、どういう意味……?」
どこか剣吞な響きの声音にエリノアが眉間にシワを作る。
ブラッドリーはそんな姉に、口元で弧を描いてみせる。が──緑の瞳は冴え冴えとして笑ってはいなかった。
ブラッドリーは静かに、淡々と言う。
「姉さんが……聖剣を抜いちゃったりするから」
「え」
その囁くような声に、エリノアがぎくりと息を吞む。
──僕もまた、目が覚めてしまった




